伝わる熱






「こんな日が、ずっと続いてくれたら良いのに…」

 傍らから上がる心底安堵していると言うような声に、ポリュデウケスはそっと己の隣へと視線を落とした。
 ポリュデウケスの視線の先には作業の手を止めたデルフィナの姿が。言った本人はポリュデウケスが自分を注視している事などまったく気付いていないようで、口元に柔らかな笑みを浮かべ唯一点を見つめている。
 彼女の視線の先には笑い合う双子と、そして無表情ながら二人に危ない事がないように見守っているスコルピウスの姿が。
 ポリュデウケスにとって、たとえ血の繋がりがなかろうと大切な子供達であり大事な家族の姿。慈愛に満ちた眼差しを向けるデルフィナにとってもそれは同様のようで。先程の言葉からも察せられるように、この生活が彼女にとって苦痛ではなく。それどころか歓迎すべきものである事を示している。
 ポリュデウケスは、そんなデルフィナの様子に心の底から安堵の溜息を吐き、同時にほんの少しだけ表情を曇らせた。
 デルフィナが愁いなく日々を過ごしてくれているのは喜ばしい事で。だが、だからこそそんなデルフィナの様子に一抹の寂しさを感じるのも事実だった。

 元々彼女は王妃付きの侍女であり、もし出奔することなくあの場所に居たのなら今でも何の不自由もなく暮らしていただろう。だが、王妃の要請があったとはいえこうして森の中に隠れて暮らす事になったのは元はといえばポリュデウケスの所為といっても大袈裟ではなく、その為にしなくてもいい苦労をかけている事は、ポリュデウケスの中に暗澹たる気持ちとなって燻り続けている。
 王妃の要請に応じ出奔という道を選んだあの時、確かにポリュデウケスには子育ての経験はなかったとはいえ、デルフィナには拒否するという選択肢が無かったわけではないのだ。何せあの時の王妃は出産という大役を果たしたばかりで、体力も碌に戻ってはいなかった。王妃が一番心を許している彼女が傍にいた方が良かったのは明らかだ。デルフィナが一言否と言えば、ポリュデウケスは一人かもしくは誰か別の者の手を借りる事も可能だった。現に、この隠れ家を探すにあたっても人の手を借りなければさほどの時間を要すことなく見つけられてはいなかっただろう。真の意味で信頼に足る者は確かにそれほど多くはなかったが、全く皆無であるとも言い切れない。その位の信は持っていたと自負している。ポリュデウケスとて王宮での毎日をただ流されるままに過ごしていた訳ではなかった。
 それにデルフィナだとてレオンティウスという前例はあるものの、ポリュデウケスがいるとは言え先達の教えを請う事も出来ず自らの腕一つでの子育てとなればそう簡単に行かないであろう事は明白で。実際素人に毛が生えた程度の知識しかないであろう事は、生活してきた中でも目に見えて明らかだった。そしてそれを彼女自身、きちんと自覚していた。だがポリュデウケスの望みに応じ、その手を取ったデルフィナは今こうしてここにいる。あの時の自分の選択を後悔した事もあるだろうに、デルフィナは己に課せられた役目をこなそうと今まで必死に頑張ってくれた。
 そんな彼女の姿を誰よりも傍で見てきて申し訳ないと思う気持ちが無いではなく、こうして何かの拍子に抱く罪悪感はどれだけ時が流れようとも薄れる事は無かった。それでも、

(私は…)

 あの時、必死だったとはいえデルフィナ以外の者に頼もうという選択肢は浮かんでこなかった。それほどに焦っていたのだと言えなくも無かったのだが、冷静になって考えてみれば答えは容易に導き出される。
 もしあの時に戻れたとしても、ポリュデウケスは何度でも同じ道を選び、何度でも彼女に共に来て欲しいと頭を下げるのだろう。そして彼女がそれを選んでくれる度、湧き上がる歓喜に身を震わせるに違いない。
 ポリュデウケスは、共に行くという事が自分達と同様生涯表立つことなく息を潜めて生きていかなければならぬと知りながら、デルフィナを選んだ。彼女以外となど初めから考える気は無かったのだ。それを為したのは、己の中にひっそりと息づいていた、想い。そう、ポリュデウケスは初めて彼女に会い見えたその時から、彼女に対し淡い気持を抱いていたのだ。自分より十も年下の女性に。
 否、最初から彼女を憎からず想っていたという自覚は正直無い。王宮にいた時、ポリュデウケスの心の大半を占めていたのは己の仕えるスコルピウスの事であり、この森の家に身を隠してからも日々の生活に追われてそんな事を考える余裕もなかった。それこそこのように穏やかな日常を過ごせるようになったからこそ、考える余裕も出来たというもの。だが、己の気持ちを自覚する毎に重く圧し掛かるのは、己の短慮を悔いる気持ち。ポリュデウケスは自分がどれだけ傲慢であったかを己自身に突きつけられ、己の犯した失態を悔いていた。故に、子供達やスコルピウスに対してと同様に、デルフィナに対してもなるべく不自由をさせないように努力してきた。彼女が笑ってくれるよう、いつでも心を配る事を惜しまず。彼女の望みなら多少の無理も苦ではなかった。己の想いが成就するなど思ってもいないし、それを望んではならない事も分かっている。ただそこにいてくれる、それだけで充分なのだから。ただ、願う事が許されるのならデルフィナが幸せを感じる生活の中に、己の存在も在って欲しいと思う。庇護される対象としてで良いから、認めて欲しいとそう思った。

 今日中に終わらせたいと言っていたのは記憶に新しいが、今のデルフィナはその事をすっかり忘れてしまっているようで。その手が作業を再開する気配は全くなく、唯ひたすらに目の前の微笑ましい光景を眺めている。ポリュデウケスとてそうしたい気持ちは良く分かるし、実際に己の手が疎かになっている自覚もある。だが、この頃の天候を考えると明日に先延ばしにしてもいられない。
 折角の楽しげな様子に水を差すのは忍びないのだが、間に合わなくなって後悔するのはデルフィナ自身とあっては、そうも言ってはいられない。ポリュデウケスは意を決して、あくまでもデルフィナを驚かせないようにそっと名を呼んだ。


「デルフィナ」

 まるで幼い子供を呼ぶように、柔らかな声音に乗せられるのは己の名。その声に我に返って声のした方に視線を向ければ、ポリュデウケスの表情もまた、その声に相応しく優しげに顔を綻ばせている。すっかり手を止めてしまっていたデルフィナを咎めるでもなく、それどころかきっとデルフィナの行動を中断させたのを申し訳ないと思っているのだろう。だが明らかに手を止めてしまった自分が悪いのだから、小言めいた物言いをされても仕方がない筈。だが、ポリュデウケスの眼差しにそんな感情は一欠片だって見当たらない。ポリュデウケスはいつだって、デルフィナの全てを許容していたから。
 そんな幸せを絵に描いたような情景の中にありながら、咄嗟に貼り付けたような笑顔を浮かべたデルフィナは頷きを返しながら気付かれぬようそっと溜息を吐いた。言葉に出来ない暗い感情が湧き上がると同時に、心に生じる僅かな痛み。

 幸せと感じていながらまるで小さな棘が刺さっているような、そんな痛み。いつの間にか訪れるようになったそれが何なのか、最初は分からなかった。しかし何度もそれを経験している内にはっきりとしたものになった、理由。それを自覚したデルフィナの中に生まれたのは戸惑いだった。

 城を出奔してから、便宜上2人は夫婦となった。だが、夫婦ならば当然あるはずの行為は2人の間に存在せず。本当に、名ばかりの関係。いつだって、夫はまるで己を大事な預かりもののように。所謂、為さぬ仲。それでも自分達を父と母と慕う子供達と同じように、誰よりも心を砕いていた彼のように、慈しみ、守ろうとしている。それが嬉しかったのは紛れも無い事実。所詮は一介の侍女でしかなかった己がそのように扱われるのは生まれて初めての経験だったから。
 だがそんな飯事のような日々の生活の中、守られているという安心感よりも、えもいわれぬ小さな痛みを己の中に覚えるようになったのはいつからだったか。守られていると言う現状に不満などは勿論無い。だが、まるで小さな子供に接するようなそれが時折酷く悲しいのだ。ポリュデウケスの庇護下にあるだけの自分に、空しさを感じるのだ。
 宮殿と言う囲い守られた空間から外へ出ると言う事は存外大変で。何も無い生活をした事がないデルフィナにとって、慣れるまで随分な時間を要したものだった。
 便利に設えられていた今までの仕事場とは程遠い、まるで物置小屋のような家を人が住めるまでに修繕するのは事の外大変で。しかも大切な主君より託された御子達が一緒なのだ。不自由な思いをさせるわけには行かないと気負う余り体調を崩してしまった事は、一度や二度ではない。
 正直なところ幾度か帰りたいと思った事もある。だが聡いポリュデウケスはそんなデルフィナを咎めた事は一度も無く、それどころかその都度言葉を尽くして慰めてくれた。それなりの覚悟を決めてポリュデウケスの手を取ったのに、気付けばそのことを意識の彼方に葬り去ってしまったかのように唯ひたすらにポリュデウケスを責めた事だって何度もある。だが、ポリュデウケスは一度だって声を荒げたりせず、それどころか己が悪いのだと言うように何度もデルフィナに頭を下げるのだった。ポリュデウケスに比べたらさほどの苦労もしていないまだまだ未熟な自分に対して。それはまるで、歳の離れた兄が妹を慈しむかのように。
 それが不満だと思った事は無かった。協力者として連れ出してしまった負い目があったからだろう。多少の我侭だって聞いてくれた。それはまるで、幼い時分に姉達と共にやった飯事のような生活。
 寂しさも戸惑いも、全てを受け入れてくれたポリュデウケスに寄り添う事が幸せであると感じるようになったのはいつからだったのだろう。同時に、彼が己を伴侶として見ていない事が悲しくて仕方が無かった。
 ポリュデウケスが感じる負い目はきっと一生無くなりはしないだろうし。そう簡単に割り切れる程軽薄な人ではないのも知っている。それでも望んでしまうのが唯の我欲でしかないとも分かっていて。それでも捨て去る事の出来ない願い。











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