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その日いつものように稽古を終えたスコルピウスは、自室に戻ると稽古用の丈の短いキトンから普段来ているものへと着替えをしていた。元々人の手を借りずに生活していただけあって、その手つきは最早慣れたもの。早々に着替えを済ませ、次に髪を縛ろうと後ろに手を回し、左手で髪を束にして持ったところで動きが止まる。そのまま暫し黙考し、やがて何かを思い付いたのかそのまま踵を返すと机へと向かい、そこにあった剣に手を伸ばした。
階段を下りてくる足音に、ポリュデウケスはそちらへと視線を向け口を開いたが、すぐにその口を閉じた。その目は驚きに見開かれ、食い入るようにスコルピウスを見つめている。
そんなポリュデウケスの様子に気付かず、スコルピウスは階段を降りきると自分がいつも座っている椅子へと足を向ける。腰を下ろそうと椅子に手をかけたものの、ポリュデウケスが未だにスコルピウスを凝視したまま固まっているのに気付き、手を離してそちらへと向き直る。
「何だ?」
向けられた訝しげな眼差しと声色で我に返ったポリュデウケスは、思わずスコルピウスから視線を逸らした。聞きたい事はあるのに上手い言葉が見付からず。逡巡の後、諦めて視線を戻すと口を開いた。
「殿下、髪を?」
「ああ、もう伸ばす理由も無い。それに、短い方が手間もかからん」
スコルピウスは何でも無い事のようにあっさりと言い切り軽く頭を振る。すると、短くなった髪がそれに合わせるように揺れるのが目に留まり、ポリュデウケスは見間違いではないと言われたような気がした。
王族として伸ばし続けてきた髪をあっさりと切り落としたスコルピウスは、さっぱりとした表情をしていた。それは切り落とした行為が悲嘆に暮れてでも、衝動に突き動かされてでもない事を物語っていて。
ポリュデウケスは、自分の中で折り合いをつけたスコルピウスに、ならば何も言う事は無いと口元を引き上げた。
「中々お似合いですな」
軽口を叩くポリュデウケスに、スコルピウスは肩を竦める事でそれに返し、今度こそ椅子へ腰を下ろそうとした。だがそれは器の落ちる盛大な音により、再度の中断を余儀なくされた。
音のした方に顔を向けると、そこには驚きを露にしたデルフィナの姿が。足元に転がっている器は幸いにも空で、床は乾いたままのようだ。
スコルピウスは足早にデルフィナへと近付くと、器を拾おうと腰を屈めた。その際、デルフィナの視線がスコルピウスのうなじ付近を食い入るように見つめていたが、あえて何も言わず。伸ばした手を追い越すように伸ばされたのは、ポリュデウケスの腕で。見れば同じように屈んで器を回収している。ふと目が合ったポリュデウケスが苦笑を浮かべていたが、それには特に反応を返さなかった。王族に仕えていたデルフィナが、髪を切るという行為をどのように捉えているかなど、簡単に想像がついたからだ。
だからこそ、器を拾い立ち上がったスコルピウスを変わらず凝視しているデルフィナに、声をかけるべきかそれとも落ち着くまで放っておくべきかを考えてしまい。室内に何とも重い沈黙が漂っていた。
だが、そんな沈黙を破ったのはポリュデウケスでもスコルピウスでもなく、最初の衝撃から立ち直ったデルフィナ自身。
「まさか、剣でお切りになったのですか!?」
悲鳴のような声に、スコルピウスは驚きに身を引きながら頷く。だがそれを見止めたデルフィナの眦がきりきりと攣り上がると、スコルピウスは本能的に身を硬くした。
デルフィナはそんな彼の心情など知らぬとでもいうように、大股でスコルピウスとの距離を縮めると中途半端な長さになってしまった後ろ髪に手を伸ばした。
「何と勿体無い事をなさったのですか。それに無理な切り方をなさった所為で、毛先がこんなに…」
痛ましげに顔を歪ませるデルフィナに、スコルピウスは咄嗟に反応出来ずにされるがままになっている。髪ぐらいで騒ぐなと普段の彼なら言っていそうなものだが、それが憚られるほど彼女の勢いは凄まじく。それに、今までデルフィナの遠慮がちな態度しか知らなかったスコルピウスが、突然の感情の発露に驚くしかなかったのも無理はない。
「髪ごとき…」
「ごときとは何ですか!大切な御髪ではありませんか!」
気にする必要はない、と言いたかったスコルピウスの言は途中で遮られ、代わりにそれを聞きとがめたデルフィナが、再び怒りを含んだ剣幕で詰め寄る。傍仕えの者達とそのような気安い関係を築いてこなかったスコウピウスは、初めて向けられた物言いに言い返す余裕も無く目を白黒させるだけで。
その後、デルフィナに言われるままに椅子へと腰を下ろし、髪を整えられている間中彼女のお説教を聴く事となった。
一方ポリュデウケスはというと、目の前で繰り広げられる展開に付いて行けず唖然と目を見開き固まっていた。そんなポリュデウケスを余所に、目の前では何とも珍しいデルフィナに髪を整えられながら説教されるスコルピウスの姿が。未だに軽い混乱状態にあるのか、スコルピウスは常備していた眉間の皺さえ忘れてされるがままになっている。女性の髪に対する執着は知っていたが、これほどとは思っていなかったポリュデウケスとしても、なんと擁護していいのか分からない。それに恐らくはポリュデウケスが何を言ったところでその勢いは止まらないだろう。それどころか、下手な事を言えば火の粉はポリュデウケスにまで飛んで来るに違いない。
結局、デルフィナの勢いに気圧された大の男二人は、彼女の気が済むまでひたすらに沈黙を保っていた。
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