それは愛情に似た





 階下より聴こえてくるけたたましい泣き声に、スコルピウスは大仰な溜息を一つ。
 いつもなら多少の物音になど遮られる事のない集中は、しかし今や完全に途切れてしまい。そうなれば聴覚はいやでも泣き声を捕らえ、再び意識を埋没させるのは困難となってしまう。騒がしい、と一言で切って捨ててしまうには身近になってしまったそれに、スコルピウスはもう一度深々と溜息を吐きながら手にしていた物を机の上に置き、立ち上がる。

 本来、ポリュデウケス達が帰ってくるまで目を醒まさないでいてくれる筈であったというのに。目的の部屋へと近付くほどに、スコルピウスの中でより一層憂鬱な気持ちが増すのを感じる。
 一人残るなど始めから無理があったのだと内心で悪態を吐いたところで、反応を返す人物は恐らく日が暮れる頃にならなければ帰っては来ないだろう。それまでどう足掻いたところで一人であるのに変わりはなく。ならばここは覚悟を決めるしかない。
 予想外の事をしでかすのが赤ん坊だとポリュデウケスは笑って言っていたが、その不測の事態において臨機応変な対応を取るには、スコルピウスでは役不足だった。幸い此処は他の人家と隣接してはいない為近隣住民に迷惑をかける事はないとは言え、かといってこのまま放っておくのもどうかと思われた。完全なる無視を決め込むには、泣き声は神経に障る。それが、このように感情の発露をした事がないスコルピウスだからなのか、それとも大抵の人間がそうであるのかは判らないが。
 そんな事をつらつらと考えている内に、目の前には部屋を仕切る厚手の布が現れる。本当は今すぐにでも立ち去りたい。このまま何も聞かなかった事にして、ポリュデウケス達が帰って来るまで声の聞こえない森の中に避難してしまいたいというのが本心ではあった。が、曲がりなりにも留守を預かる事を了承しておいてそれでは余りにも無責任というもの。昔から、どんな些細な事であれ自分が一度でも引き受けた事には最大限の努力を惜しまなかったスコルピウスには、その状況を見て見ぬ振りは出来なかった。たとえそれが己にとってまるきり未知のものであったとしても。
 鬱屈とした表情を浮かべ、それでも覚悟を決めたスコルピウスは意を決して布に手をかけた。

 布の隔たりが取り払われた事でより一層大きくなった泣き声に、スコルピウスは顔を顰めて耳を塞ぐ。
 そのまま室内へと踏み入り二つの寝台の間に置かれた籠の中を覗き込めば、エレフセウスとアルテミシアが大仰に顔を顰め、揃ってまるで怪獣のよう泣き喚いていた。余程力が篭っているのだろう、顔は真っ赤に染まりこの分では体温も普段より上がっているかもしれない。
 一体何が原因かも見当がつかず、取り合えず粗相をしたのではないのかと恐る恐る下布に触れてみるも、さらりとした感触に杞憂と判り胸を撫で下ろす。自慢ではないがたとえ下布が濡れていたとしても、取り替える手順を知らないスコルピウスには何ともしようがない。そうではなかった事は喜ばしいが、それでは何だというのか。そこで浮かび上がるのは、人が生きる上で必然的に行わなくてはいけない行為の一つ。それに繋がる欲求、即ち食欲。そこに行きついたスコルピウスの表情が絶望に染まる。何故なら、スコルピウスはその欲求を満たす為の手段を知らなかったのだ。赤ん坊が何を栄養にしているかという基本的な事は知識として知ってはいる。だが、知っていたからといってスコルピウスは二人の母親ではない。即ち、別の手段を講じなければいけないという訳で。無論、母親代わりのデルフィナとて所詮代わりでしかないのだから、彼等の空腹を満たす為に何らかの手を打っているだろう。それは恐らくスコルピウスでも可能な事であるのだろう。しかし、一度もその場面を目撃した事もなければ、積極的に学ぼうとなどという考えには至らなかった。つまり、スコルピウスはこの状況を打破するにはどういった手を打つべきか、という答えを持っていなかった。
 否、本当はもっと別の何かが原因であるという可能性も捨てきれない。だが、どちらにせよ二人の感情の機微を敏感に察する事が出来るほど関わっていないスコルピウスには、どう足掻いたところで原因を掴む事は出来そうにない。
 端から見たら軽く混乱状態にあると思われるスコルピウスは、必死に何らかの解を導き出さねばならないと思考を巡らせるが、いっかな答えは見付かりそうになかった。
 そうこうする内に、二人の泣き声は一層激しさを増し。癇に障る声に、スコルピウスの機嫌は益々降下していく。
 一体何が言いたいのだと、盛大に顔を顰めたまま改めて二人の顔を覗き込めば。顰めた顔に埋没するままに閉じられていた眼が、唐突に音を立てて開かれる。驚きに思わず身を引いたスコルピウスの視界に、ふっくらとしたもみじのような手がゆらゆらと揺れているのが映った。それはスコルピウスに向かって延ばされた二人の手であった。エレフセウスもアルテミシアも、涙を溜めた目を見開き、必死に両手で宙をかいている。言葉にならない意味不明の音を発しながら、二人の意識は一心にスコルピウスへと。
 スコルピウスには、二人の必死さは充分に伝わってきたのだが、何故こんなに必死になっているのか一体何を望んでいるのかがまったく見えてこない。よって、二人の気迫に気圧されるように、僅かにその身を引いた。
 それを拒絶と取ったのか、まずはエレフセウスに次いでアルテミシアの顔が紙を丸めたようにくしゃくしゃになる。口を開け、あわあわと動かし大きく息を吸う。スコルピウスはそれが泣き出す前兆である事を直感で感じ、咄嗟に両手を伸ばした。口を塞いだり押さえつけようという意図はなく、本当に反射的なものだった。だから、伸ばした手を二人が掴んだ事に、スコルピウスは驚きを隠せないでいた。
 エレフセウスはやっと望んだものを得られ、泣き顔はそのまま両手でスコルピウスの右手に縋っている。アルテミシアは、スコルピウスの左手の親指と人差し指をそれぞれの手で掴み、こちらは明らかに表情を緩めた。
 所詮赤ん坊の力なのだ。振り解こうと思えばそれは簡単に出来ることだろう。だが、何故かそれをするのを躊躇われた。泣いた所為もあるのだろう、極度に上がった体温は余り心地良いとは思えないのに、それが確かに生きているもののそれであったからなのか。離れがたいような気分にさせるのだ。スコルピウスは困惑を露にしながら二人を見下ろす。まだ完全に泣き止んだわけではなかったが、それでもスコルピウスの手の感触にいくらか落ち着きを取り戻し始めている。彼等の求めるものが何であるのかは明白であり。だが、それ故にスコルピウスには分からない。二人が求めていたもの、それは常に隣にいる互いの存在以外の、この場合はスコルピウスという存在。寂しさ故に求めた温もり。
 だがそれは誰でも、それこそポリュデウケスやデルフィナの方がより嬉しいのだろうと、困惑の中にありながらもそう答えを弾き出している。己でなくとも支障が無いという事に、落胆に似た気持ちが芽生えるのを感じ、スコルピウスは我に返ると咄嗟にその考えを打ち消した。そう、元々極力関わらないようにしていたのだ、二人の中で重要ではない事に引っかかるものはない筈ではないか。
 そうこうする内に大分落ち着いてきたのか、二人の瞼が次第に重くなっていく。どうやら泣いた事で消費した体力を補うべく、再びの睡魔が訪れたようだ。二人の口元から、静かな寝息が漏れ出したのを幸いと、スコルピウスはそっと己の手を取り戻すと、二人に一瞥も向けずに踵を返した。不可解な感情を湧き上がらせる二人との接触を避けたいという思いがそうさせたのだろう。
 だがスコルピウスが手を離した途端、二人は再び目を見開き同時に両の瞳には新たな涙が盛り上がってくる。折角落ち着いたと思ったのも束の間、再び上がった悲痛な声。驚き振り返ったスコルピウスの視線の先、離れてしまった温もりに追い縋るかのように、両手をこちらに向かって突き出すその姿を見てしまい、そうなればもう見ぬ振りをする事など出来なかった。
 改めて二人に向き直り、請われるまま手を延ばしたスコルピウスは、何を思ったのか途中で手を止める。先程と同じように手を握らせる事は簡単だ。だが、離せばまたすぐ目を醒ましてしまうかもしれない。かといって、ポリュデウケス達が戻るまでそのままというのはどうか。それでなくても不自然な体勢を長時間続ける事になれば、鍛えているとはいえ些か辛いものがある。
 では、どうすれば二人の要求を満たし、かつ己に無理なくそれをこなせるだろうだろう。そんな事を考え思い悩んでいたスコルピウスの脳裏に、デルフィナやポリュデウケスが泣いている双子を抱き上げあやしていた姿が浮かぶ。そう、彼等は暫し泣いている二人を抱き上げていたように思う。そうすれば、不思議な位静かに眠っていたように思う。だが、今までそんな事をした事が無いスコルピウスは、戸惑い交じりの眼差しで双子を見つめる。スコルピウスが赤子を抱いたのは初めてこの家に来た時、ポリュデウケスに半ば無理矢理エレフセウスを押し付けられた、あの一度だけだった。しかもあの時はポリュデウケスの補助があり、反対に今は助け手は存在しない。
 さてどうしたものかと思い悩んでいる間にも、二人の泣き声は酷くなる一方で。しかも呼吸が上手く出来ないのか、時折噎せているようだった。その様子に、スコルピウスは意を決して手を伸ばす。まずエレフセウスの両脇に手を差し入れ恐々と持ち上げる。幸い首は据わっているので仰け反り驚く事も無く。スコルピウスは微かな記憶を頼りに己の左肩に凭れかからせるようにすれば、暫く違和感に身体を揺すっていたエレフセウスは、肩口に頭を預ける事で安定したらしく、そのままスコルピウスの服を掴んで動かなくなる。何とか落とさずに済んだ事に胸を撫で下ろし、さてもう一人と泣いているアルテミシアに手を延ばし、はたと動きを止める。

「どうすれば…」

 左手はエレフセウスの身体を支える為に自由に出来ない。この状況で、一体どうやったらアルテミシアを抱き上げる事が出来るというのだろう。ポリュデウケス達はどうやっていたのだろうと記憶を浚い直してみるも、どこにも抱き上げる瞬間は無い。ともすれば、一人一人を抱いている姿しかないのではないか。スコルピウスは己の失態に舌打ちをする。二人同時というのはどう考えても無理があるではないか。混乱の渦中にあった思考はそんな簡単な事にすら気付けなかったようで。ならば一旦下ろそうとするも、小さな手はしっかりとスコルピウスの服を握っている。次は離されまいとするようにしっかりと握られた手は、今度は容易に離れてくれそうもない。
 だからといって、アルテミシアの方も放っておくわけにはいかない。スコルピウスは暫しの躊躇いの後、アルテミシアの身体の下に右手を押し入れる事で何とか抱き上げれないだろうかと考え、結果その試みは成功した。だが腕一本で赤子を抱くのは事の外大変な事で。このままでは長くは保てそうにない。
 幸い、抱き上げた事によりスコルピウスと密着し、その体温を感じて安心したのか、二人の泣き声は止んだ。少しぐずっているようだが随分と落ち着いた様子にスコルピウスは安心したように溜息を吐いた。
 仕方なくスコルピウスは二人を落とさないように気を付けながら、傍らに置かれた寝台の上へと移動する。
 部屋の中には椅子もあったが、恐らく背を完全に預けられる方が、スコルピウスにかかる負担も少なくなるだろうと考えての事だった。案の定、枕に寄りかかるように身体を預けてしまえば丁度腕に二人の身体が沿うように乗り、懸念していた腕への負担は感じられなくなった。
 こうなったら、このまま安心させてもう一度完全に寝入らせるのが得策だろうと。スコルピウスは既に半分眠りかけている二人の顔を見下ろしながら覚悟を決めた。
 それにしても、子供の体温というものは随分と高いものなのだななどと詮無い事をつらつらと考えていたスコルピウスの瞼が、二人に習うように落ちるまでそう長い時間はかからなかった。











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