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 人の手が加えられなくなって久しい石で組まれた壁は、外気を遮断するのには大いに役立っていたようだが、室温は外とあまり大差がないようで辛うじて外よりはましなのかも知れぬと思える程度でしかない。
 ポリュデウケスが手早く使い古された暖炉へ火を入れて暫く、僅かに室内の温度が上昇したのを感じる。
 そうなってくれば未だ濡れたままのである事が災いし、体温の低下を訴えるように悪寒にも似た震えが走る。水を吸ってぐっしょりと濡れそぼっている外套を身に着けたままである事もあり、このままでは下手をすれば体調を崩しかねない。その懸念が現実のものとなる前に、濡れた物を脱ぎ身体を温めなければとそう思っても、腕の中にいる存在の扱いを如何にすれば良いのかが判らず、困惑の表情のまま室内を見回すスコルピウスの視界に飛び込んできた二本の腕に、スコルピウスは不覚ながらもあからさまに安堵の息を吐いた。目に見えてのそれにポリュデウケスが気付かぬ筈はなく、赤子を手渡す際に視線が合うと、目の前の彼は可笑しさを堪え切れないといった様子で。思わず込み上げてきた怒気は、しかしそれに反応するようにぐずり出した赤子の声に、慌てて視線を逸らし押さえ込む事を余儀なくされ、よって更なる笑いを場に呼び込んだのは言うまでもなかった。

「殿下も道中緊張のし通しでお疲れでしょう。一応お休みになる場所は確保しておりますので、お寛ぎに…とまではいきませんが、まずは少しお休みになってはいかがですか」

 確かにここに至るまで気を張り通しだったスコルピウスは―赤子の件がそれに拍車を掛けたというのもあるのだろうが―休んでもいいと判断できる場所に至った事で軽い疲労を感じていた。ポリュデウケスとてそうであろうに、彼の性分からしてスコルピウスより先に休むという事はないだろう。そう考えれば、とにかく今は休んで今後に備えるのが得策というもの。そう答えを出したスコルピウスは、僅かに俯いていた顔を上げ、ポリュデウケスに頷きを返そうとし、ポリュデウケスの肩越しに見えた人物の見覚えのある顔に、目を見張る。

 そこで漸く、ポリュデウケスと共に来たもう一人が女性であり、しかもそれが良く、とまではいかないがどんな立場にあるのかが判る程度には知る人物であったと気付く。スコルピウスの記憶違いでなければその名をデルフィナといったのではなかったか。
 それほど頻繁に聞いた覚えの無い名ではあったが、スコルピウスはそれが誰であるかを知っていた。ポリュデウケスの協力者とも言えるその女性は、正しくレオンティウスの母親である正妃、イサドラ付きの侍女の名。
 瞬時に解を導き出し、最早条件反射のように表情を歪めてしまったスコルピウスは、咄嗟に視線を女性から引き剥がした。どうしても、レオンティウスに繋がるというだけで複雑な思いが胸中に沸き起こる。良く考えてみれば、可能性としては一番高いと思い至りそうなものなのに。やはりこの状況に思考が鈍っているらしい。正妃イサドラの心情を理解し、尚且つ主の願いを叶える為に奔走するのに、これ程うってつけの人物はいないだろう。しかも彼女は確か誰よりもイサドラの信頼を勝ち得ていたのではなかったか。ならば、イサドラが信用して自らの子を預けてもなんら不思議はないではないか。

「あの…」

 恐る恐るといったような声色に、スコルピウスは意識を其方へと向ける。どこか怯えたような眼差しをした女性、デルフィナは手にした乾いた布をスコルピウスへと差し出している。対するスコルピウスは、辛うじてその布を受け取ったものの、その眉間には盛大に皺が寄っている。端から見ればあからさまに不機嫌であると映っただろう。その証拠に、デルフィナは寒さだけが原因ではないのだろうが、身を震わせながら顔を伏せている。

「まだ何かあるのか」

 立ち去る機会を完全に逸してしまったデルフィナに、かけた声は何の感情も篭っていないような素っ気無いもので。デルフィナの肩が僅かに跳ねる。何とか表情を取り繕っているようだが、揺れる瞳の中に怯えに似た色が混じっているのがはっきりと見て取れた。
 スコルピウスとしては、レオンティウスに対してこそ複雑な想いを抱いてはいたが、その母親である王妃イサドラや、ましてその傍仕えの者にまでそこまで酷い悪感情は抱いていなかった。だが、今彼女が怯える原因となっているのはスコルピウスの態度であるのは明白で。
それに、元々愛想がいいとはお世辞にも言えないスコルピウスが、感情を削ぎ落としているとなれば、怯えるのも無理のない事かもしれない。
 それでも、デルフィナの怯えをあくまでもスコルピウスと言う存在に対してだと思い込んでいる以上、気を使おうという考えは微塵も湧いてこない。
 それでも、無視するという考えは端からなかった為、相手が口を開くのを黙って待っていた。そしてデルフィナはというと、先のスコルピウスの態度にすっかり萎縮してしまい、最早会話どころではなくなっていて。よって、お互いにそれ以上の言葉を発することなく沈黙し、ただ時間だけが過ぎていく事態に陥ってしまった。その場に居たのが彼らだけであったのなら、いつまでも続いていただろうそんな状態も、お互いへの緩衝材として相応しいポリュデウケスのお蔭で、無為に時間が経過し過ぎる事もなく終わりを告げた。

「スコルピウス殿下、デルフィナ殿。どうなされましたか」

 ポリュデウケスの声に、あからさまに肩の力を抜いたデルフィナは、軽く頭を下げると身を翻す。まるで逃げるように去って行くデルフィナの態度を怒るでもなく見送るスコルピウスの様子に、ポリュデウケスは仕方がないと言わんばかりに眦を下げる。
 今までの彼等の関係を考慮すれば、この事態は有り得た事であり、だがスコルピウスの中に悪感情がない事は僥倖であった。だが、元々お世辞にも愛想が良いとは言えない上、感情を露にする事を避ける傾向にあった彼の機嫌を図るのは難しい。長年の付き合いであるポリュデウケスでこそ読めるそれを、今まで寧ろ関係する事を避ける傾向にあったデルフィナに、察しろという方が無理というものではないだろうか。
 だが、これからは曲がりなりにも一つ所で共同生活をする事になるのだから、お互い譲歩しあわなければならぬ点も多々出てくるだろう。宮殿にいた時とは生活形態が一変するだろう事とてスコルピウスは覚悟している筈。ならば日々の生活を円滑に進める努力をするのは当然というもの。だからこそ、

「精進なされませ」

 苦笑と共に告げられた一言に、そこに込められた意味に、スコルピウスは今後を憂う溜息を吐いた。











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