今日という名の過去
翳る空の所為か、一歩足を踏み入れればそこは暗く重い空気が立ち込めていた。
さほど深くは無い森とはいえ、夜の闇はまるで迷宮のように森を作り変えている。敵に奇襲をかけるため、このような悪天候で潜んだ事もあったなと。この状況に過去、己が立った戦場での経験を思い出しながら、スコルピウスは暗い森の中をポリュデウケスの背を追い掛け進んで行く。
日常的に人が分け入るような場所ではない事も相まって、お世辞にも良いとは言えない道のり。所々に出来たぬかるみに足元はおぼつかず、確実に体力は削られていく。だが、己以上にこの道の状態に手間取っているのが、未だフードを取らない所為で、それが自分の見知った相手であるかすら判らない人物。もしかしたら女性なのかもしれないと思ったのは、庇うように肩を抱くポリュデウケスの気遣う様子が目に止まったからと、流石に赤子の世話をするのには女人の手は必須ではないのだろうかと思い至ったからだ。そんなスコルピウスの思考を余所に、追われる身であるという事もあってかポリュデウケスは何度も周囲へと視線を巡らせながら、慎重な足取りで森の中を更に奥へと分け入って行く。
慎重に慎重を期すポリュデウケスの後ろを歩きながら、スコルピウスは彼に習うように周囲を見回しながら進む。だがそれは、周囲を警戒するポリュデウケスの意図とは僅かに外れていて。スコルピウスの目的は今まで通ってきた道順を正確に覚える事であり、その目的のまま目印を見付けては脳裏に刻んでいく。ポリュデウケスがどこに向かっているのかは、自由に外を出歩いた事のないスコルピウスには皆目見当もつかず。かといって彼が何の目的もなくこのような場所に足を踏み入れる筈もないと思うほどにはポリュデウケス自身を信頼していた。だからこそ、万が一にも彼の思いも付かない不測の事態が起こった場合に備える為、道順を覚えておくに越した事はない。そう思い付いたからだ。
それで無くとも王の命に背き始末しなければならない忌み御を連れ、しかも対外的にはスコルピウスを浚い逃げた事になっている筈。反逆者として手配されていても可笑しくは無いのだ。いくらスコルピウスが自らの意志で出奔する道を選んだのだと言っても、それを醜聞と捉える周囲は全ての罪をポリュデウケスに着せるに違いない。あの檻から抜け出す切っ掛けをくれた彼の足手纏いになるのだけは御免だ。故にたとえ僅かであっても彼の負担を軽減する助けになればという気持ちが、周囲の把握に繋がった。今の自分に出来る事といったらこれぐらいしかないのが歯痒くはあるのだが、それでも何もしないよりはましと言うもの。幸い、記憶力の良さには定評があり、実際この道順とてもう既に景色込みで再現できる位には覚えていると言っても過言ではない。季節が変わればまた違って見えるのかもしれないが。だからこそ、絶対に変わらない目印を見つける事に余念がなかった。
そんなスコルピウスの心情を知ってか知らずか、ポリュデウケスは後ろに気を払うことなくただひたすら森の奥へと向かう。
どれ程の時間歩き続けたのだろう。ポリュデウケスは、ある家の前で漸くその足を止めた。
「当面は、ここに身を隠す事になります」
ポリュデウケスに遅れること数歩、スコルピウスも彼に習うようにその建物を見上げる。お世辞にも立派とは言い難い、最早住み処というより物置小屋であろうと思われても仕方がないほど歪みの見られる建物。この様子からすると、石壁は所々崩れ屋根はもしかしたら雨漏りがする箇所もあるかもしれない。奴隷達でも余程冷遇されていない限りはこんな所に暮らす事もないだろうと思われる程、酷い有様に見えた。恐らく、昔狩猟小屋か何かにでも使われていたのだろう。だが、この荒れようは人から忘れ去られて長い歳月が流れた事を示していて。既に住まいとしての機能は無いに等しいのではないだろうか。
「何ぶん急な事でしたので、暫くは不便を感じていただかなくてはなりませんが」
ポリュデウケスは申し訳なさそうに眦を下げる。それが、スコルピウスを気遣っての事であるのは明白だった。まあ、今までのスコルピウスの生活は―それがスコルピウスが望んだものではないとしても―曲がりなりにも宮殿内に住んでいたのだから環境的な意味では何不自由ない暮らしをして来たのだ。その事を踏まえれば、これからの生活が彼にとってどれ程過酷だろうという点を憂慮してしまうのは仕方のない事。そう言った意味ではポリュデウケスの心配は最もだった。
だが当のスコルピウスは、小屋を目にした初めこそ果たして本当に住めるのかどうか怪しいものだという考えが過ぎったものの、不便を感じる事があるだろうと考えはしても不満などは湧いてこなかった。そんな事よりも、これからここが己の住まいとなるのだと思えば、環境を如何に整えるかという手段を模索する方に自然と考えは移行し、とりあえず中を確認しなければ話は始まらないだろうという結論を出していた。
故に、申し訳なさそうに表情を曇らせるポリュデウケスには、首を傾げるしかない。
「何にせよ、これからまったく違う生活となるのだ、不便があるのは致し方ない。それより今は中の状態を確認し、休める場所を確保せねば。屋根に穴が空いているようなら一刻も早く修繕せぬと、雨季はもう暫く続く」
せめて雨風を凌ぐ場所を確保しなければと、当たり前のように言われればそれがまったくの正論ゆえに頷くしかなく。ポリュデウケスはこの状況に早くも思考を合わせようとするスコルピウスに、思わず口元が綻んだ。
「御子様方をお連れする事が決まりました折に、時間が無いなりに最低限の修繕は致しておりますので、辛うじて体裁は整えられたとは思うのですが」
一応の根回しはしていたのだと知り、普段の彼を知る身としては今さら驚く事も無いスコルピウスは、ならばとポリュデウケスを促す。
「そうであれば、余計にこんな所でもたもたしているのは無駄というもの。今は辛うじて止んでいるからいいものの、あと半時もせぬ内にまた降り出すだろう…体力の無い赤子を、長く雨風に晒しておくのは余り良いとは思えん」
まったくの正論にポリュデウケスはただ頷きを返すと、扉を開かんが為に戸口へと歩み寄り、何かに気付いたのかあと数歩というところで足を止めた。
「どうした?」
ポリュデウケスの不自然な動きに訝しげに眉を顰めるスコルピウスに対し、ポリュデウケスは逡巡するように視線を僅かに虚空へと投げ、迷いは一瞬、すぐに踵を返しスコルピウスの正面へと戻って来る。そして、スコルピウスが何事か問いかけようと口を開く前に、それまで大切に抱いていた双子の片割れをそのおくるみ毎スコルピウスへと差し出した。
反射的に受け取ったスコルピウスが抱えるのを補助し、何とか安定して抱いたのを見届けて、ポリュデウケスはあっさりと手を離すと踵を返した。
「おい…」
「少々立て付けが悪いので、御子を抱いたままは流石に…。御子はまだ首が安定しておられませんので、乱暴に扱ってはなりませんぞ」
抗議しようと声を上げるスコルピウスの言葉を遮るポリュデウケス。本来不敬とも取られかねない行為をしかし平然とやってのけた彼の所業にスコルピウスは怒る前にその言葉の意味を正確に理解し、踏み出そうとした足を止める。
自慢では無いが、生まれてこの方赤子など抱いた経験は皆無であり。しかも生後間もないとあっては、無碍に扱う事も出来ない。もしスコルピウスが不用意に手を放しなどしようものなら、この高さから落下しただけで赤子の命は露と消える可能性は非常に高い。よって、スコルピウスの中には動かないでいるという選択肢しか残されていなかった。
腕にかかる重みと、布越しに伝わる温もりはスコルピウスにとって未知の経験といっても過言ではなく。それが一つの命であるという事に、スコルピウスは言い知れぬ恐怖を感じる。戦場で幾人の命を屠ったかも知れぬ身でありながら、たった一つの、今まで相対した者達よりも遙かに弱い存在にこれ程までに感情を揺さぶられる事になろうとは、スコルピウスとて予想しない事態だった。この赤子にスコルピウスをどうこうできる筈もなく。反対に、スコルピウスの方が簡単に腕の中の命を左右できる絶対的に強い立場にあるというのに。
その感情の揺れの原因が判らぬままそろりと視線を下げれば、己の腕の中何の憂いも無く健やかな寝息を立てる赤子の様子に、スコルピウスの中にあった切迫感が僅かに和らぐような気がした。無垢な赤子にとって、スコルピウスは害意ある存在では無いということなのだろう。が、今までこのような存在とは無縁であったスコルピウスとしては、泣き出されないだけ良かったのかもしれないが、どうにも落ち着かない。全身で信頼を示されているような気がしないでもないのだが、如何せん今までこんな体験をした事のないスコルピウスとしては、どういう反応をしていいのか見当も付かず、半ば途方に暮れてしまっているといっても過言ではない。そんな風に、己に対し全身で寄りかかって来る存在を、スコルピウスは知らなかった。
そんな不可解な感情の揺れを感じながら、ポリュデウケスが扉を開き、赤子を引き取ってくれる事を今か今かと待ちわびていたスコルピウスに気付いているのかいないのか、ポリュデウケスは扉を開けるとさっさと家の中へと姿を消してしまった。
そのまま家の中で何かを探る物音がしたと思えば、俄かに家の中に明かりが灯された。どうやら光源が確保されたらしい。そのまま待っていればポリュデウケスが戻って来るものと信じていたスコルピウスは、背後にいた人物がスコルピウスの横を通り抜け家の中へと消え、更にはスコルピウスを呼ばうポリュデウケスの声を聞くに至り、絶望感を覚えた。だが、どんなに待ったところで助け手は現れないだろうという事と、先程己自身の口から漏れた赤子の身体に悪いという結論を自ら翻すわけにもいかず、結果悲痛な表情で、慎重に戸口に向かう。
不用意に歩いて落としてしまわないだろうかという心配は尽きもせず。同時に、こんな頼りないものを抱えて何故彼等はここまで平然と歩いて来れたのだろうと内心首を傾げる。スコルピウスだとて、これが子牛や子山羊であったのなら顔色一つ変えず肩に担ぎ上げていただろうが。
敵に奇襲をかける時でさえ、こんなに慎重に足を運んだ事があっただろうかと思えるほどに、意識を集中し揺らさぬよう歩を進めるスコルピウスが経験不足であるのは否めない事実であり。困惑を顕にする彼の姿を見止め、ポリュデウケスはスコルピウスに気付かれないよう、そっと笑みを漏らしていた。
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