まつろわぬ星





 スコルピウスは、己が所有する事を許された数少ない衣服の中から一番質素に見える物を取り出すと、手早くそれに着替えた。いくら元々着飾る趣味は無いとは言え、目立つ色味のものは出奔に際し相応しいとは言えないだろう。
 脱いだものをきちんと畳んでしまうのは、身の回りの事は出来る限り己自身でこなしているからに他ならず。好意的に見れば、人の手を煩わさないようにしていると見えるのだろうが、真実はそうではなく。人を信用出来なくなった故に始めた行為から、彼がいかに日々を慎重に過ごしていたかが窺える。
 寛ぐという事をしないスコルピウスの回りには、常に緊張した空気が漂っていて。それが傍仕えの者達が敬遠したがる理由であり、それを知っていながら態度を改めないスコルピウスの必要以上に人を寄せ付けないようにという自己防衛本能でもあった。
 スコルピウスは、王族としての体裁を取り繕う為に身に着けていた―それでも他の者達より随分と少ない―装飾品を外し畳んだ衣服の上に置こうとし、ふとその手を止める。手の内にあるのは、王族が身に着けるのに相応しくない一切の装飾を削ぎ落とした、だが上質なそれはとてもでは無いが庶民が手に出来るような代物ではない一級品だ。これからの逃亡に、先立つものはいくらあっても多いという事は無い。ならば、持っていればなにかの折に役に立つのではないだろうか。そんな考えが脳裏を過ぎる。
 暫しの逡巡の後、スコルピウスは苦笑を浮かべ今度こそそれを手離した。  何事にも慎重なスコルピウスにとって、もしもの事を考えるのはもはや当たり前の事で。これから先、何が待ち受けているのか想像も出来ないとあれば、予防線を張るのは何も悪い事ではなかった。だが、全てを捨てると覚悟を決めた以上、たとえこれからの事を考えてのものだとしても、今までの己だからこそ手にしていられた物に縋ろうと、一瞬でも考えてしまった自分が可笑しかった。それに、一般に出回る筈もない高価な物を持っていた所為で不都合が生じないとも限らない。
 一瞬前までの思考を意識の隅に追いやると、スコルピウスは代わりに褪めた色の長布を掴んだ。そして夜目にも目立つ髪色を隠す為、丁寧な手つきで頭へと巻いてゆく。そして暗色の外套で全身を覆ってしまえば、一目で彼と看破される事は無いだろう。
 これが終わり、無事王宮からの脱出が叶えば、これからの己は人の目を常に意識しなければならなかった王族としての彼ではなく、スコルピウスという唯の個人になるのだと、そんなふうに思った。

 全ての仕度を終え、スコルピウスは足音を立てぬように部屋の出口へと向かう。先程ポリュデウケスがやって来た時から人一人通れる隙間を開けておいた為、扉を開ける際の苦労はない。
 扉の前に立ち、スコルピウスは改めて室内へと視線を向けた。ごてごてと飾り立てるのは性に合わないスコルピウスが、生活するのに困らない程度の物を選定した結果、必要最低限の物しか置いていないひどく殺風景な室内。恐らく、再びここに戻る事はないのだろうと思いながら、その表情には何の感慨も浮かばない。此処に居たいという執着も、出て行く事を惜しむ気持ちも無かった。確かに、この部屋はスコルピウスが自由に出来る数少ない場所であったのかもしれないが、所詮与えられたものという認識以外、執着に値するような思いはないのが現状だ。
 かつて己の部屋と定められていた、此処より桁違いに広い部屋にいた時も、周りの思惑に気付いてからはまるで他人の領域に土足で踏み込み居座っているような気がしたものだったが。人形となってからはそれ程の疎外感は無かったものの、結局は執着を感じるまでに至る事はなかった。
 必要がないと割り切ってしまえば、驚くほど呆気なく切り捨ててしまえる己の思考に、呆れよりもある種の満足感を抱くのは、今持っている全てが、いつかは消えて無くなるものと知っているからだ。一度生きる意義を取り上げられてから、スコルピウスが何よりも先に身に付けたのは、持たない事と捨てる事だった。初めから持っていなければ無くしたところで惜しむ気持ちは湧いてこないし、捨ててしまえば奪われる事もないのだから。
 それからだ、スコルピウスが物に対して一切の執着をしなくなったのは。その根底に、与えられる事にただ唯々諾々と従い生きてきた自分に対する嫌悪があるのかどうなのか。そこを突き詰めたいとは思わないし、これからの事を考えれば理解する必要もないだろう。
 スコルピウスはやっと自らの意志で選択する事が出来る場所へと出て行けるのだ。これから先執着するものがあったとすれば、それは自ら選び取ったものなのだろうし、スコルピウスは漸くそれを己に許せるのだから。過去の自分のあり方を振り返り、思い悩むなど時間の無駄というもではないだろうか。

 スコルピウスは室内に向けてた視線を、扉へと戻す。僅かな衣擦れの音のみ落とし、扉の隙間からするりと外へと抜け出した後は、再び慎重な手つきで扉を閉める。極力音を立てぬよう。回りに気付かれぬよう。決心が、鈍らぬよう。
 朝になれば傍仕えの者達がやって来る。僅かでも開けたままにしておけば不審に思うだろうし、そうなればスコルピウスがいなくなった事などすぐに知れてしまうだろう。だが扉さえ閉めてしまえば、多少の時間は稼げる筈だ。
 常に不機嫌と思われている己が彼等の間で余り評判が宜しくないのは知っていた。実際、彼等の不備に対し怒鳴った事も一度や二度ではない。扉越しに声をかけても返事がなければ、わざわざ己の機嫌を損ねるような真似はすまい。

 何とか音をたてずに事を為し終えると、詰めていた息をゆっくりと吐き出す。心臓が激しく音をたてるのを感じて、戦場でも久しくここまでの緊張を感じた事が無かったと気付き、苦笑が漏れる。抜け殻のような己が、生きるものとしての本能を取り戻して行くような感覚を覚えながら、スコルピウスは壁に取り付けられた松明に照らされる通路へと足を踏み出した。
 雨が降っているお陰で然程響く事はなかったが、それでも極力足音は消し、部屋から出た瞬間に気配も絶った。スコルピウスは見張りの者達に見付からぬよう、ポリュデウケスと合流すべく慎重に歩を進めていった。

 それにしても、と。スコルピウスは口の端を僅かに引き上げる。緊張に強張っていた表情が、苦笑を含んだものに変わる。
 それもその筈。ポリュデウケスが合流場所として指定してきたのは、スコルピウスにとって馴染みの場所。滅多に人の通らないそこは、スコルピウスが存分に己として振舞える数少ない場所の一つだった。建物の影になっている為、宮殿の庭のような草花はなく。足の短い草が粗雑に生えているだけで人の目を引くようなものは何もない。だからこそ、スコルピウスが人の目を避けたい時に静かに休む場所と成り得たのだ。
 スコルピウスしか知らないはずのその場所の存在をポリュデウケスが知っていた事に少なからず驚きを抱いたが、宮殿内の誰よりもスコルピウスの傍にいて、そして見ていた彼の事、スコルピウスが人の目を避けて逃げ込んでいたのを知っていて、見て見ぬ振りをしてくれていたに違いない。

 スコルピウスがその場に辿り着いた時、人影はなかった。だがポリュデウケスのものではない、それでいて刺客の類とも思えぬ酷く粗雑な気配を感じ、スコルピウスの視線は自然、そちらへと向けられる。
 予想通り、そこには気配を絶ったポリュデウケスとその後ろに小柄な人影がすっかり旅仕度を整え、雨除けの外套を纏い佇んでいた。気配の主は後ろの人物のものだろう。スコルピウスが視線を向けた途端、乱れた気配にあからさまに緊張しているのがわかる。その事から気配の持ち主がスコルピウスに対し余り友好的ではなさそうだと判断したスコルピウスは、目下の目当てであるポリュデウケスにのみ意識を向ける。今更彼が裏切るような真似をするとは露ほどにも思ってはいなかったが、宮殿内の全ての者達に好人物と捉えられるような態度を取らなかった自覚があるだけに、今すぐ友好的な関係に成れる訳もないのは明白で。ならば今は最優先事項にのみ意識を向けていればそれで良い。

「遅くなった…」
「いえ、こちらもたった今着いたところですので」

 スコルピウスの意図に気付いたポリュデウケスは、それを最良と捉えたのだろう。あからさまに後ろの人物を意識の外に置いたスコルピウスを咎める事無く、応えながら首を振る。その腕の中にごく小さなおくるみを一つ、大事そうに抱えていた。産まれたのは双子であると聞いていたので、恐らくもう一人は後ろの人物が抱いているのだろう。ポリュデウケス以外に人がいるのは別におかしい話ではない。ポリュデウケスが最初からスコルピウスに手を差し伸べる事を決めておらず、最初から決めていたとしてもスコルピウスがその手を振り払っていた場合、ポリュデウケスは二人を連れて逃げなければならなかったのだ。自我のない、僅かな高さからでも落してはならぬ危険物を二つも抱えて逃亡するのは、いくら双璧と謳われた彼でもそうカ簡単な事ではない。もしも彼が一人であったとすれば、もう一人の赤子を抱いていたのは己であったかも知れない。そこに思い至り、スコルピウスは安堵の息を吐いた。赤ん坊など生まれてこの方触れた事すらないのに、それは無謀というものだった。

「殿下…?」
「いや…。それより、宮殿を抜け出す算段はどうなっている」

 スコルピウスが僅かに視線を下げ沈黙したのをどう取ったのか。窺うような声色に、今度はスコルピウスが首を振る番だった。そうして己の考えていた事などおくびにも出さず話題を切り替えれば、ポリュデウケスは神妙な顔をして頷いた。

「見回りの者達の目を掻い潜る必要がありますので、歩きやすい道ばかりではありませんが…」

 ポリュデウケスは調べ上げた警備の穴を説明し、脱出に至る道順を示す。スコルピウスは脳裏に宮殿の見取り図を展開しながら、その道順を当てはめ確認していく。流石ポリュデウケスと言ったところか。その下調べは完璧で、どこにも見落としはないように思われた。だが。

「…恐らく昼間の事があって見回りの者達も平時とは違い冷静とは言えない。とすれば、必ずしも同じ経路で見回るかどうかも知れぬ。上手くいけばいいが、冒す危険は少ないに越した事は無いだろうし、赤子が泣き出さんとも限らん」

 宮殿を取り巻く空気が常とは違うのを肌で感じ、スコルピウスは言い知れぬ不安を抱き可能性を指摘する。そうして言葉にしてみれば、益々何か不測の事態が起こりそうな気がして、打開する策は無いものかと思案を巡らせる。一つだけ、危険なのは最初だけで辿り着いてしまえば後はほぼ安全だろうと言える確実な方法はある。だが、果たしてそれをしてもいいものなのか。そんな迷いがスコルピウスの思考を妨げる。
 己の中の葛藤に、スコルピウスは何度も別の方法を模索するも、その方法よりも安全と言えるものは思いつかない。こうしている間にも危険はすぐ傍まで迫って来ているかもしれない。緊張に強張るポリュデウケスの表情を前に、迷う時間は無いと腹を括る。

「私に考えがある」

 付いて来い、と一言。スコルピウスは踵を返し、どこぞへと向かって歩き出した。
 そんなスコルピウスの言に、ポリュデウケスは後ろの人物と視線を交わす。先程とは違い、今度はスコルピウスの考えを汲み取るのは容易な事ではない。だが、このままこうしていても何かが変わるわけではないだろうし、スコルピウスの危機管理能力の高さは並ではないのはポリュデウケスが良く知っている。恐らく、今の状況より悪くなる事はまずないだろう。ならばと悩んだのは一瞬。すぐに遠ざかって行く背中を追った。











[ | | ]







人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -