伸ばした指のその先に





 肌を撫でる冷たく湿った風の感触に、スコルピウスは瞼を押し上げた。火を落とした室内は暗く、人の気配は無い。一度起き上がり窓の方へと視線を向けるも、闇の中、一部の隙も無く閉じられたそれが開いた様子は無かった。
 そのまま再び身を横たえる事無く寝台から抜け出すと、起き抜けとは思えないしっかりとした足取りで窓へと歩み寄る。元々浅かった眠りのせいか、再びの睡魔が訪れる気配は無い。
 窓の外ではいまだ降り続く雨が、夜の闇をなお一層暗く、重いものへと変えていて。いつもなら柔らかな光を身に纏い、夜の闇の中で確かな存在感を醸し出しながら浮かぶ月の姿も、厚く垂れ込めた雲のせいでその姿を確認する事は叶わなかった。
 本来なら感謝の念を抱く筈の冬期の僅かな水の恵み。今はそれが、昼間の出来事が未だに脳裏にこびり付いている為なのか不吉なもののように思われ、スコルピウスは気温のせいではない寒気を感じた。


 不意に、スコルピウスの部屋の前に一つの気配が生じた。既に条件反射のように、右手が無意識に腰を探る。だが、求める感触はそこには無い。いつもそこにある物は今は寝台の敷物の下に隠されていて。残念ながら、手を伸ばして届く距離でもなかった。
 常であれば、いくら自室であるとはいえ己の立場を考えれば寸鉄帯びぬ状態がどんなに危険であるかを考慮し決して犯さない筈の失態に、スコルピウスは僅かに舌打ちを漏らした。が、この後の起こりうる可能性とそれに対する対処に思考を巡らせる前に、そこに在る気配の持ち主が誰であるかを探り当てたスコルピウスの身体から、緊張の強張りが消える。
 それもその筈、扉の前に佇むその人物の持つ気配は、スコルピウスにとって馴染みのもの。警戒するべき類のものではなかった。スコルピウスがそれに気付いたのを見計らうように、小さく扉を叩く音が微かに響く。
 いつもはこちらの都合などお構い無しに、その風体が示すに相応しい大きく響く音が、今はまるで正反対に控えめな、まるで侍女のものより更に小さい。
 スコルピウスは訝しげに眉を顰めたまま、いつものように入室の応えを返そうとし。だが声が音として発される前に口を閉じ、極力足音を殺して扉へと歩み寄る。
 スコルピウスが気配に酷く敏感な事を知るポリュデウケスは、彼の前でよく気配を絶つ事がある。それは、集中するスコルピウスの邪魔にならないよう配慮するが故であり、このようにまだ姿も見せていないのに気配を断つというのはおかしな話。常に暗殺云々の可能性に身を晒すスコルピウスの事情を見知っているポリュデウケスは、スコルピウスがそれを厭うているのを十分に理解していて。故に、常の態度がどうであれスコルピウスが真に厭う事をわざとやるような事は決してなかった。
 それが今正に、スコルピウスが厭うその最たるものをやってのけるポリュデウケスに、それだけの理由があるであろう事は容易に想像がつくというもの。
 ポリュデウケスが、スコルピウスに対して何らかの意志を伝える為、例えばスコルピウスに危険を促す意図があるとも考えられたが、その理由がこの行動に結びつくかと思えば寧ろ逆。万が一にもスコルピウスがポリュデウケスの気配に気づけなければ、危険の度合いは跳ね上がる。
 扉の前に着く僅かな時間、巡る思考が辿り着いたポリュデウケスの行動の意味。
 それはまるでスコルピウスに対してではなく、その他全てに対し警戒しているかのようではないか。というものだった。
 そこに思い至ったからこそ、スコルピウスは声をあげる事を控えた。部屋の中には確かに人はいなかったが、寝ずの番をする者はスコルピウスの声に反応し、いつこの部屋に来るとも限らない。ならば、ポリュデウケスが人目を憚る要因が何であれ、それを妨げない為には自らが動くのが一番だった。

 音を出さないよう気を配り開けられた先には、一人佇み頭を垂れるポリュデウケスの姿が。こんな夜更けに何の用なのかと問いかけようと口を開くも、ポリュデウケスがそれを遮るように極限まで潜められた声を出した。

「殿下、夜分に失礼致します」

 緊張と警戒の入り混じった空気を纏うポリュデウケスの様子に、やはりただ事ではない何かがあったのだろうと察したスコルピウスは、ポリュデウケスの緊張が伝播したかのように息を詰める。

「…何があった」
「………最後のご挨拶に参りました…」

 躊躇いがちに発せられた言葉は、スコルピウスに少なくはない衝撃を与えた。その意味が理解出来ないからではなく、分かり過ぎる位理解しているが故の衝撃。
 つまり、ポリュデウケスは双子の命を救う為、今の立場を捨てようと言うのだ。この国には、もう既にレオンティウスという神に認められた存在がいる。ならば、不吉な神託の御子を生かしておく必要はどこにも無い。寧ろ次代の王たるレオンティウスの傍から危険を排除するという名目があるのだ。彼等は喜んでそれを為すだろう。
 国の思惑など関係なく、幼い命を救おうとする動きは、普段の彼なら寧ろ喜ばしき事と捉えたかも知れない。だが、それを実行するのが他でもないポリュデウケスであるという事が、スコルピウスには重要だった。彼は己にとって数少ない、守るべき存在であり。握った手の内から零れ落ちて行くそれは、きっとスコルピウスに止める事など出来ないだろう。故に、痛みを訴える心を綺麗に無視し、スコルピウスはただ頷いた。

「…そうか、息災であれ」

 スコルピウスの表情は、ここ数年でもう見慣れてしまった諦めを含んだもので。この世の酸いも甘いも噛み分けたようなそれは、スコルピウスの年齢を考えるとまったく相応しくないものであり。それを目にする度に、ポリュデウケスの中怒りと悲しみが湧き上がる。スコルピウスという人間を理解する者が傍にいなくなってしまったら彼はどうなってしまうのだろう。己の心を曝け出す相手がいないここでの生活は、今まで以上の速さでスコルピウスの心を蝕んで行くだろう。諦める事を前提に生きている今の状況だけでも良いものとは決して言えないというのに…

「…恐れながら申し上げます。殿下は、ご自身が今置かれている状況をどう思われているのですか?」

 初めてとも言える、スコルピウスの内に踏み込んだ質問に、スコルピウスの眉間に皺が寄る。今までその心情を慮ってか、滅多に核心に触れるような質問をされた事はなかった。

「何をどう言ったところで、何かが変わるわけでもない」

 不快気に表情を歪ませながらの素っ気無い一言。それはスコルピウスにとって純然たる事実であり、これからの日常における当たり前の事でもあった。
 ポリュデウケスとの邂逅がこれで最後という核心があったからこそ、答える気になったというもの。そうでなければにべもなく気って捨てていたに違いない。
 ポリュデウケスは、餞別とも言えるその言葉に、意を決したように顔を上げ、スコルピウスの眼差しを真っ向から受け止める。

「失礼ながら、私にはどう贔屓目に見たところで、奴隷とさして変わりがあるようには見受けられません」
「…黙れ」

 容赦のない一言に、スコルピウスは唇を噛む。ポリュデウケスから初めて突き付けられた言葉は、スコルピウスの心を抉る。

「誰よりも聡い貴方のことです。気付いていながらも敢えて知らぬ振りを続けておられるのだろう事は重々承知しているつもりです。ですが殿下、貴方はこの状況を甘んじて受け入れ一生を過ごす事が本当に最良の選択であるとお考えなのですか?」
「黙れと言った筈だ!」

 周囲への漏洩を考慮し、極限まで押し殺された声。だが、それがかえってスコルピウスが抱く苦しみを明瞭に浮かび上がらせていた。
 そんな事は言われなくとも、誰よりスコルピウス自身が考え、自覚している事だ。だが、だからといってどうすれば良かったというのか。
 頑是無い子供のように泣き叫び抗うには、スコルピウスは幼少期より精神面において大人であり、生き抜くためにはそうでなくてはならなかった。もっと己の欲望に忠実であったなら、今此処にスコルピウスという存在は無かっただろう。
 生きているのだ、人並みに願う事もあった。だがそれを表に出す前に、別の自分がその可能性を否定する。そうなればもう、何も言い出す事は出来ず。ただ許された小さな箱の中、与えられる自由を精一杯生きるしかない。
 歯を食いしばり、必死に己の中の激情に耐える姿に、ポリュデウケスの表情が痛ましげに歪む。上に立つ器量を持ち、しかも一度は王にと目されていたというのに。虚飾にまみれたものではあっても、忠誠を誓われ仰ぎ見られる場所から一気に奈落へと叩き落され、後は従順な人形のように生きてきたスコルピウスという人間。市井の者達に比べれば、よほど良い暮らしなのかも知れないが、個を認められず過ごす生に、一体どれほどの価値があるというのか。
 自身が哀れむべき立場にはないと重々承知の上で、それでもまだ自分の半分も生きていない子供が誰にも縋らず、一人苦しむ様は痛々しかった。
 飼い慣らされるのを良しとする程愚かでは無い彼が、この立場に甘んじる生に嫌悪を抱きながら、絶望に俯き闇に身を染めそうになる自らを戒め生きる姿に、何故他の者達は気付こうとしないのか。

 このままでは近い将来、スコルピウスの心は壊れてしまう。国を憂い、民を想う気持ちを捨て去り、憎しみに身を染め生きる悪鬼になる可能性だって少なくはなかった。幼少期より見守ってきた彼を、そうなると分かっていながら放り出す事など出来る筈がない。

「…殿下、殿下も共に参りましょう」

 ポリュデウケスの懇願に、虚を突かれたスコルピウスの顔から表情が抜け落ちる。何を言われたのか、一瞬理解が追いつかない。ポリュデウケスと共に行く。それは即ち王宮からの出奔。
 言葉の意味を理解するにつれ、スコルピウスの表情が徐々に驚愕に染められていく。

「…出来ぬ」

 反射的に口をついて出たのは、否定の言葉。掠れたその音は、遅れてやってきたスコルピウスの脳にじわじわと侵食する。そうだ、無理なのだ。己が為すべき役目を果たす為には、ここに居続けなければならない。
 己の言葉を必死に飲み込むその姿は、スコルピウスが己の願望とは違う部分で縛られているように見えた。
 ポリュデウケスは戸惑うスコルピウスの中にある本当の想いを感じ取り、何とかこの状況を打破できないものかと考えあぐねる。

「殿下が躊躇う理由とは何でしょう。貴方は今の状況が決して良いものではないと分かっているのに、その状況から抜け出す事を厭われる。それでは、殿下自らが望んでいる事態と捉えられても仕方がないとは思いませんか」

 初めて気が付いたというように、スコルピウスは何度か瞬きを繰り返す。気付かない内に囚われる事を容認していた己に気付き、目が覚める思いがする。それは、決して短くはない生活の中、受け入れてしまっていた呪いの様な呪縛から逃れた瞬間だった。

「貴方がいなくなった事で困る者達など放っておけばいい。どうせ自らの欲に取り付かれた愚かな者達なのですから。そんな輩に気を使いながら生きるより、貴方が望む事を、自由を手に入れても良いではないですか」

 力強く言い切るポリュデウケスに、スコルピウスの眼差しが揺らぐ。本当に良いのだろうかと戸惑いにも似た表情を浮かべれば、頷くポリュデウケスが視界に入り、スコルピウスも思わず顎を引いた。
 それを了承と取ったポリュデウケスが思わずといったように破顔するのをみて、スコルピウスはもう一度、今度は自分の意志で頷いた。

「私も、お前達と行こう」

 向かう先に何があろうと、どんな苦労が待っていようとも後悔はしない。そう思いながら。











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