道化師の敗北





 いつからだったのか、正確には覚えていないが…。

 いつの日にかを境に、どれだけ邪険にしようとも無邪気に懐いてきたレオンティウスが、どこか遠慮がちな態度を取るようになったのには気付いていた。
 周りがいくら言って聞かせようと全く耳を貸さなかったレオンティウスの心情に、何か変化があった事は明確で。
 恐らくは、幼き頃より聡明と持て囃されていたレオンティウスの事、やっと察したのだろう。己の存在が、スコルピウスを追いやった事実に。

 ただ、スコルピウスに対して視線だけは向けられているのは今も変わらない。だが、好意一色で塗り固められていた昔とは違い、今はそこに強い罪悪感を浮かべるようになった。それもそうだろう。何せ、好意は一方的なものであったかもしれないが、確かにレオンティウスはスコルピウスを家族として慕っていて。だが、そんな相手が己を憎んでもおかしくは無い原因が、他の誰でもなく己自身にあると知ったなら。
 その結果、レオンティウスは気安くスコルピウスに近付く事が出来なくなり、だが慕わしい気持ちを捨て去る事が出来ないままこの状態に至ったという訳なのだ。
 だが、自分の立場を追い詰める要因となったレオンティウスを気にかけてやるつもりなど、スコルピウスには無かった。否、正確にはそんな余裕が無かったと言った方がより正確かもしれない。

 相変わらず、スコルピウスに対する周囲の反応は至って冷めたもので。スコルピウスがどんな気持ちで日々を過ごしているのかなど、恐らく気に留める事すらしていないに違いない。
 よって、スコルピウスは常に緊張を強いられ、自分というものを晒す事をしなくなった。自室にいようが他の人間の気配がある内は、決して寛ぐ事は無く。使用人達にまでそうなので、彼等のスコルピウスに対する評価はお世辞にも良いとは言いかねた。
 だが、そうしなければスコルピウス自身を守る術が無かったのだろう。宮殿内に立ち込める欲望の渦は、スコルピウスを苛み続けた。スコルピウスとて出来るなら己を必要としない者達に囲まれて過ごす日常など願い下げであろうに、重鎮達はスコルピウスに対する自由を良しとはしなかった。
 スコルピウスの才覚を惜しいと思う気持も勿論あるのだろうが、彼等が真に重要視しているのは、スコルピウスの血であることは自明の理。
 神託が解釈という選択の自由を与えられているものである以上、不測の事態に対する対処は常に備えておくべきもの。
 レオンティウスが次代の王であるのは既に王も認めた純然たる事実ではあったが、ブロンディスの加護を受けた身とはいえレオンティウス自身は人という肉から生み出されたに過ぎず、その身体を構成するものの中に非人間的な要素は一片たりとも含まれてはいない。
 待ち望んでいたレオンティウスという存在を前に、彼等は不安を抱いた。曰く、何らかの理由で彼を喪う事になれば、その後はあるのかという保身的観点から。
 そんなありもしない、だが絶対無いとも言えない漠然とした不安が導いた先に、今日のスコルピウスがいる。レオンティウスが生まれる前、スコルピウスは真の王が生まれるまでの代わりだった。それが、今では王がもし何か不測の事態に見舞われ儚くなりでもした場合の保険と成り果て。待遇がどうのという事ではなく、結局のところスコルピウスの立場が改善される要素には成り得なかった。
 ただ、そんな周囲の思惑もありスコルピウスが自身を向上させようと躍起になっている全ての事柄に対し制限が掛けられていない事に関しては、不幸中の幸いと言えるのかもしれない。
 そんな経緯を、聡いスコルピウスの事。気付いていながらあえてそれを甘受しているのは、偏に国を、そしてそこに生きる民を想っての事だった。
 道具としてしか見ようとしない周囲に憎しみを抱き、復讐を果たすべく生きる道もあるにはあった。が、その結果零れ落ちていくほんの一握りの大切なものがあると思えばこそ、スコルピウスは堕ちる事無く踏み止まる事が出来ていた。
 だからこそ、そんな周囲の思惑とは無縁とでもいうように無邪気に笑っているレオンティウスが目障りで、原因は何であれその瞳が翳るに至った今の状況に溜飲が下がったのは致し方ないとも言える。
 だが、そんなスコルピウスの考えを『運命』は良しとせず、更に彼の立場を追い詰める事態が発覚する事となる。
 それは、王妃イサドラの更なる妊娠。

 スコルピウスは、日課となったポリュデウケスとの講義の資料を捜しに向かう途中、偶然拾ってしまった言葉の数々。無駄に良い聴覚は彼等の言葉を余さず拾い上げ、その密やかな嘲りの声ですら的確に捉えてしまった。
 スコルピウスは、そ知らぬ顔で回廊を進む。端から見ればそんなスコルピウスが自分達の浅ましい言葉を耳に入れているとは思えなく。故に彼等の言葉は留まる事を知らない。外にいる時は常に不機嫌であるように見られる原因となっている眉間の皺が、多少深くなったところで誰にも気付かれない。否、そこまで彼の変化に気を配る人間がいない、と言った方が正しいのか。とにかく湧き上がる感情を抑えながら、スコルピウスは自室への道筋を辿る。資料の事などもう意識の端にも上ってはいなかった。

「……随分、おかしな顔をなさっていますね」

 自室に戻ったスコルピウスを一目見るなり、ポリュデウケスは眉を顰め開口一番、そう言い放った。

「………」

 いつもならそんなポリュデウケスに対し何かしらの反論を示すスコルピウスは、しかしポリュデウケスから視線を逸らすと窓の傍に据えられた椅子へと向かい、力なく腰を下ろした。
 明らかにいつもとは様子の違うスコルピウスに、訝しげな眼差しを向けるポリュデウケスは、その全身から発されている拒絶の意志にまるで気付いていないとでも言うように、あっさりとスコルピウスとの距離を詰めると、向かいの椅子へと腰を下ろした。
 すぐさま飛んできた鋭い眼差しには敢えて気付かない振りをする。

 攻防が続くこと、数刻。いくら無言の圧力をかけたところで、ポリュデウケスには何の効力も示さない事で漸く諦めがついたのか、スコルピウスは一度深く息を吐くと、うっそりと顔を上げ、真正面からポリュデウケスを見る。

「…もうすぐ、散々苦手だと言っていたものから解放されそうだな」

 皮肉気に口元を歪めるスコルピウスに、ポリュデウケスは一瞬虚を突かれ、その言葉の意味を悟って僅かに目を見張る。ポリュデウケスがそれと無く伝えようとした事柄を、スコルピウスはどうやら既に聞き知っているようだ。
 どこにでも口さがない者はいるようで、ポリュデウケスはそんな彼等の存在に内心で悪態をついた。
 今のスコルピウスは細い糸の上に立っているようなもので。そんな彼の置かれた立場を理解しようとしない者達に怒りを感じるのは、彼自身を知る一人として当たり前の感情だった。

「それは…私を首になさりたい、と。そういう事ですか?」

 不満気な表情のポリュデウケスに、しかしスコルピウスは変わらず笑みを浮かべたまま。

「私が首にせずとも、周りがそう動く」

 人形には必要の無いものだろう。そう己自身を断じるスコルピウスの瞳は、酷く冷めていた。スコルピウスの中にあるものが、破錠した瞬間。
 それを目の当たりにし、ポリュデウケスは唇を噛んだ。湧き上がるのは、怒りと悔しさ。向けられるのは、スコルピウスを利用することしか考えず、彼自身を個として見ない周囲の者たちへ。そして何より、周囲が思う己の価値を正確に理解し、そこに己を落とし込んでいるスコルピウスに気付いていながら、結局何も出来なかった不甲斐ない自分自身へと。

 この時の会話があったからこそ後の事態が発生したのだという事実を、今のスコルピウスは知る良しもなかった。



 不意に落ちた影に、スコルピウスは空へと視線を転じ、瞳に映る光景が何であるのか理解すると同時に身を震わせた。
 スコルピウスが見つめる中、太陽の姿が徐々に消えて行く。まるで何かにその身を喰い荒らされているかのように。あの人々に恩恵を齎し、その一方で無慈悲で暴力的な光までがいとも容易く飲み込まれていく様は、正に凶事の前兆と呼ばれたるに相応しく。
 その証拠に、蝕を目の当たりにした人々は皆一様に怯えを含んだ眼差しを空へと向け、ある者は闇の侵食から逃れようとするかのように慌てて柱の影へと身を潜ませた。
 倦まざる眼への侵食が齎す意味は、一体何なのか。

『蝕まれし日 生まれる者 破滅』

 スコルピウスの脳裏に閃く断片は、神託を知る者であれば誰であろうと一度は耳にしていてもおかしくはない、古来より脈々と伝え続けられている神託。国を跨いで共通に伝えられているこの神託は、人々が抱く蝕への恐怖心をより強固なものへとさせていった。
 それが神の齎すものである証拠のように、神託はまるで謎かけのようで。受け止める側の解釈でいくらでもその形を変える。そう考えれば、神託は預言と酷く似通った形態を取りながら、まだ人に沿っているものなのかもしれない。
 故に、この神託に対する諸外国の対応もまた、統べる王の考え一つで様々であった。ある国では、身分に関係なく国外追放となり、その身はどこで野垂れ死のうが最早その国とは関係無いという措置が取られていると言う。またある国では、その者の存在が明るみに出る前に、速やかに冥府へと送られる。これはどうやら破滅を抱く存在が、国内に一瞬でも存在した事が知られるのを恐れているらしく、かつて神託により挿げ替えられた王の存在があった事に起因している。
 また、わざわざ破滅の子を王の養子として他国に送り込む国もあるという話だ。その国を滅ぼす為だけに皇子となった子の進む先には、光があるとは到底思えず。結果、幽閉されるならまだ良い方だが、破滅の子と知れた途端に命を絶たれ、冥府へと導かれる事も多いと聞く。
 ポリュデウケスの講義では、公式では知られていない他国の闇の部分を知る機会も多く、語られるもの全てを細部に亘り、否が応でも知識として取り込んできたスコルピウス。結果、その脳内には様々な事例が意識せずとも浮かんでくる。

 この国ではどうだったか。己には関係ない事であるとは分かっていながらもそんな事を僅かにでも考えてしまったのは、宮殿の奥にて今正に産まれ出でようとする命の存在が頭を掠めたからかもしれない。
 スコルピウスは、己の器としての価値がまだ残っているかもしれない事にほの暗い喜びが湧き上がるのを感じ、同時に酷い吐き気を催した。それは、蛇蝎の如く嫌っていた彼等の思惑に僅かながらも縋っていた己の浅ましさに湧き上がった嫌悪感故の事なのか、それとも無垢な命より保身を考えてしまった己の思考に彼等と同じものを感じてしまったからなのか。今だ黒衣を纏ったままの空を見上げながら、口元に上ったのは己に対する嘲りの笑み。
 やがて、再び世界への帰還を果たした倦まざる眼が、音もなく佇むスコルピウスの姿を浮かび上がらせた。











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