一生傷




 どんなに素気無い態度を貫いていても、レオンティウスは毎日のようにスコルピウスの元へとやって来た。

「兄上!」

 呼ばれた声に思わず振り向いてしまったスコルピウス。視界に飛び込んできたレオンティウスが駆け寄ってくるその姿に、思わずといったように口元から漏れた舌打ちの音。
 一度反応を返してしまったのだから、聞こえない振りをするのは最早不可能というもので。かくなる上は、呼び止めた者の用を済ませ立ち去るのが最適な取るべき手段と判断し、身体ごと向き直ってレオンティウスが辿り着くのを待った。
 元々相手をする気は毛頭無いのだから、笑顔など見せる事はしないし、あまつさえスコルピウスの視線はレオンティウスへと向けられてすらいない。
 午を過ぎ、幾許か和らいだ日差しと爽やかな風が相まって、夏季の乾燥した空気は随分と心地良く。風と戯れるかのように揺れる木々の緑が日差しを受けきらきらと輝く様が、俗世の汚泥とは無縁のように見えたスコルピウスの眼差しが、僅かに和らいだ。
 折角心地良い陽気にあてられ心が和らいでいるのだから、このまま何事も無く自らの部屋へと戻れていたらどれ程に良かった事か。だが、現実はそんなスコルピウスのささやかな願いなど聞き入れるつもりは無いようで。スコルピウスの傍までやって来たレオンティウスの存在そのものが如実にそれを表していた。
 恐らくどこか別の場所でスコルピウスの姿を見かけ、慌てて追いかけて来たのだろう。俯いて乱れた呼吸を整えようとしているレオンティウス。そんな幼子の頼りない小さな肩を見下ろすスコルピウスの眼差しに、一瞬前までの柔らかさは欠片も無い。

「何の用だ」

 いつもレオンティウスが話し出すまで何も言わないスコルピウスが先に口を開いたのが余程珍しかったのか、レオンティウスは弾かれたように顔を上げ、スコルピウスの顔を凝視したまま固まっている。
 いくら待てど何も言わないレオンティウスにスコルピウスの眉間に皺が寄る。それがレオンティウスの意識を呼び戻す切欠になったのだろう。レオンティウスが焦った様子で、意味もなく両の腕を振った。

「あ、兄上。あの、今日は、一緒に―――」
「すまないが私は忙しい。急ぎの用事でないのなら、失礼する」

 幼き瞳に宿るのは、スコルピウスに対する純粋な好意。その瞳も、いつかは己のように世間を知り、歪む時が来るのだろうかと思いながら、スコルピウスはいつものように最低限の、しかも随分と他人行儀な言葉を用いてレオンティウスの誘いを素気無く断ると、用は済んだとばかりに踵を返した。
 背中に向けられている視線を感じながら、その表情が悲しそうに歪んでいるであろう事を知っていても、スコルピウスは欠片の罪悪感すらなく、故に歩調を緩める事はしない。
 相手は幼い子供、しかも半分とは言え確かに血の繋がった兄弟であり。更にはスコルピウスに向けられている好意は誰の目にも明らかなのだが、スコルピウスにとってその存在は厄介この上ないもとしか考えられず一度だって優しく接した事は無い。ともすれば、その無防備な細い首に手を添え、一思いに…。そんな暗い感情すら抱いていた。だが彼の今までの生活環境を鑑みれば抱くのも致し方ない事とも思える。


「また、弟君のお誘いを無碍になされたのですか」

 自室の扉を開け、身を滑り込ませた途端にかけられた声。しかしその声色に責めるものは含まれていなかった為、僅かに眉間の皺を深くしたに止めると、スコルピウスはややぞんざいな態度で相手の向かいに据えられた椅子へと腰を下ろした。

「別に、私などが構わずともあれの周りには人が溢れている。お前の弟もいるのだから、私は必要ない」

 話は済んだとばかりに手を振ると、スコルピウスは興味の対象をあっさりと変更した。
 机の上に広げられている羊皮紙に視線を落としそれに意識を集中しようとすれば、スコルピウスの意識が完全にそちらへと向けられる前に絶妙と言っても過言ではないタイミングで視界の端、仕方ないというように肩を竦めるポリュデウケスに、スコルピウスは顔を上げ目を眇める。

「何だ」
「いえ、今頃落ち込んでいらっしゃるであろう弟君を慰める為に、我が弟が四苦八苦しているだろうと思うと、その苦労が偲ばれまして」

 スコルピウスは、おどけた様子のポリュデウケスを一瞥したまま片眉を跳ね上げた。羊皮紙を見る為前屈みになっていた上体を起し、背もたれへと完全に身体を預けると、足を組み僅かに生え揃った髭に触れながら口元を歪める。

「ふん、実際私があれに構えば、あれの周りの者達は良い顔はしないだろう。そうなれば、お前の弟の苦労は倍増する。寧ろ感謝して貰いたい位だな」

 スコルピウスがレオンティウスの傍へ行く―正確にはレオンティウスの方が近付いて来るのだが―ただそれだけで、周囲が緊張に包まれるのは嫌と言うほど感じていた。何せレオンティウスはブロンディスの加護を受け、言うなれば神が認めたこの国唯一の正当なる王位後継者。それに引き換えスコルピウスは、所詮堕ちた王族、とでも言えば良いのか。如何にスコルピウスが努力をしようとも、神がスコルピウスに手を差し伸べる事はなく。レオンティウスが誕生すると同時にその地位までも奪われた、この国にとって必要の無い、否厄介な異物とも言える存在に成り果ててしまった。
 それでなくても、スコルピウスはレオンティウスが生まれるまでの、決して短くは無い時間、次代の王として目されていた存在であり。それ故に、神託によって奪われた地位に未だに執着している可能性は充分にある。そう思われていた。
 そして、それはスコルピウスの中に確かに存在していて。だが、それはどうにもなりようがない事であり、今こうして周囲の危機感を煽らないように―恐らく無意識なのだろうが―気を配っているスコルピウスの気遣いに、ポリュデウケス以外、気付いている者が果たしているのだろうか。
 レオンティウスの一番傍にいるカストルは気付いているだろう。だからこそ、スコルピウスの傍に行きたがるレオンティウスのお目付け役を担えるのだ。
 だがいくらそれとなく引き離しても、レオンティウスは何をどうしたのか目敏くスコルピウスの姿を見かけては話しかけ、素っ気無くされては落ち込むを繰り返している。
 レオンティウスにとって一番身近な家族なのだから、懐きたがる気持ちも判らないのではないのだが、それがスコルピウスの立場に波紋を呼ぶ結果に繋がるとなれば、微笑ましく見守るだけでは済まされない。
 今夜にでも、カストルともう一度話し合う必要があるな。そう結論を出し思考の淵から意識を引き戻せば、僅かな隙にスコルピウスは完全に目の前のものへと意識を集中しているようで、こうなれば余程の事が無い限りは戻る事はないだろう。
 適当な時間に呼び戻さなければ、スコルピウスは食べる事さえ忘れてしまう。今まで幾度かそうして力尽きたスコルピウスの姿を目の当たりにしていたので、自然ポリュデウケスの視線は窓の外へ。太陽の位置から時間を確かめ、そっと席を立つ。
 邪魔をしないように、だがいつでも声をかけれる位置へと移動したポリュデウケスに、気配に敏感なスコルピウスは気付かない。
 それ程の集中力と熱意を持っているスコルピウスの姿に、その必死さを垣間見たような気がして、ポリュデウケスの表情は曇る。
 スコルピウスの手元にあるのは、遠くは無い過去ポリュデウケス自身が出陣した戦の記録。仰々しく飾り立てられた物ではなく、実際経験した者自身の記した記録が欲しいというスコルピウスの希望に沿うべく、ポリュデウケスが用意したものだ。
 スコルピウスの熱心さは、裏を返せば彼自身の立場の危うさを表していて。必死に何かを得ようとするその姿が、痛ましく感じられた。
 ポリュデウケスよりも遥かに歳若い青年の肩にかかる重圧はどれ程のものだろう。今のスコルピウスに、余裕は無い。レオンティウスが生まれ、第一王子として擁立された瞬間、スコルピウスの過去は黒で塗りつぶされた。経歴などは一切の意味を持たず。その立場故要職に着く事も叶わず。宮殿で監視下の元飼い殺されているのが現状で。政の中枢に手を伸ばす事を禁じられたスコルピウスに残されたのは、その腕と類稀な才を持って国の安定に尽力する事だけ。しかも喩えどれ程の功績を残そうと、それがスコルピウス自身の評価に繋がる事は無い。
 だが、それでも何もしないよりはと、文句も言わずただ黙々と打ち込む姿が時折酷く辛そうで。いっそ何もかも放り投げてしまえれば楽になるのに、幼き頃より植え付けられた自尊心は、それを易々と許してはくれなかった。
 スコルピウスに擦り寄った者達は、同じ口でレオンティウスを称え、スコルピウスを貶すのだ。そしてそれを知っていながら、何も出来ずただ傷付けられただけのスコルピウスは、諦める事を学んだ。自分の心を守る為には、他のものを捨てるという選択しか残されてはいなかった。
 ポリュデウケスは知っていた。あの日、第一王子の誕生と共にスコルピウスが手離したものを。
 その中には、ポリュデウケスも含まれていて。だからレオンティウスが第一王子に据えられた後、定刻通りに現れたポリュデウケスに零れてしまうのではないかと思うほどに目を見開き、次いで何を思ったのかさっさと出て行けと言わんばかりに扉を閉められそうになった時の事は、今でも昨日の事のように覚えている。


「殿下、何をなさるのですか」

 流れるような動きからの暴挙に、辛うじて反応できた自分を褒めてやりたい。
 閉められる寸前、咄嗟に持っていた荷物を差し入れ、次いで身体を押し込むように室内へと踏み入れば、押されて数歩後ろに下がったスコルピウスの痛みを含んだ眼差しとかち合った。
 暫しの沈黙の後、スコルピウスは諦めたように嘆息を漏らし、ポリュデウケスに背を向けた。そして、話しかけるべきか否か考えあぐねているポリュデウケスに対し、温度をどこかに忘れて来てしまったかのような声を漏らす。

「父上もお人が悪い。何も顔見知りに押し付けなくても良いだろうに。ああ、もしかしたら私が抵抗した時の事を考えられたのか。そうだな。お前なら私程度、易々と抑えられよう」

 最初、意味が分からず呆然と立ち尽くしていたポリュデウケスだったが、その意味を理解するなり目を見開いた。
 こちらに一瞥も向けぬまま、早口で捲くし立てるスコルピウスに、誤解だと言いたいのに声が上手く出ないポリュデウケスの口からは乾いた音が漏れるだけで。

「まだまだ知りたい事は山とあるが、仕方が無い。知識は持って逝けぬからな」
「…っ、殿下!」

 振り向いた眼差しは酷く大人びていて。諦めの様を色濃く宿した表情に、漸く搾り出せた声は、事の他大きく響いた。
 スコルピウスは己の存在の危うさを良く理解していた。故に、これから起こるであろう事を想定し、覚悟を決めていたのだろう。だがその相手がポリュデウケスであった事はスコルピウスに軽くは無い衝撃を齎し、だがそれも仕方がないと割り切ったようだ。
 ポリュデウケスはそんなスコルピウスの心情が手に取るように分かり、心の内に渦巻く激情に声が震えそうになるのを、腹に力を入れて抑える。

「…何か誤解をなさっているようですが、私はただいつも通り講義をしに来ただけです。もしや、今日はそんな気分ではないとでもおっしゃるつもりですか。ですが、体調がお悪いのでしたら兎も角、気分で講義をすっぽかそうとなさるのは感心しませんな」

 顰めつらしい顔を作り、わざと何でもない風を装うポリュデウケス。スコルピウスの考えている事を知りながら、あえてそこには触れない事で関係はないのだと、そんな事を考える必要は無いのだと強調する。
 そんなポリュデウケスの努力が功を奏したのか、暫く探るような眼差しを向けていたスコルピウスは、ポリュデウケスの様子に嘘は無いと判断したのだろう、漸く眼差しを弛め。今度は理解出来ないというような表情を浮かべた。

「何故…」

 どう問いかけて良いのか考えあぐねているのか口ごもるスコルピウス。対してポリュデウケスは持っていたいたかのように口の端を引き上げた。

「言いませんでしたか。私は元々人にものを教えるのには向いていないと。ですからスコルピウス殿下のように察しの良い方でないと、碌に教師面も出来ないのですよ」

 快活に笑うポリュデウケスに、虚を突かれたかのように目を見開き、次いで思わずといったように破顔したスコルピウスは、

「そうか…」

 と一言言ったきり、黙り込んだ。

 結局数刻遅れで始まった講義中、スコルピウスがこの件に関してこれ以上追求してくる事は無かった。だが、以後ポリュデウケスに対し僅かではあるが思うままに振舞っている様に見えたのは、恐らく希望的観測だけではないのだろう、と。
 それは、ポリュデウケスがスコルピウスを個として見ている事に気が付いたからでは無いだろうか。









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