独り哂い





 自分が特別な存在であるという過信は、それを向ける周囲の思惑を知ってしまった途端、脆い土壁のようにあっという間に瓦解した。

 幼き頃より、王のただ一人の御子として次代の王足るに相応しくあるようにと施された教育は、スコルピウスにとって己という存在を確固たるものにする為に必要なものだった。
 物事を知り、知識として吸収していく事に才能を見出していたスコルピウスは、それが喩え必要の無い事であろうとも、貪欲に求める事を止めようとはしなかった。
 今思えば、その時にはもう既に気付いていたのかも知れない。周囲を取り巻く者達の中に渦巻く、黒くどろりとした欲望に。

『スコルピウス殿下がいずれ玉座に着かれた暁には…』
『殿下はいずれ、勇者と呼ばれた父王をも凌ぐ賢王となられるのでしょうなぁ』

 彼等の声に多分に含まれる甘言という名の毒は、スコルピウスの心をじわじわと侵食していった。幼さ故に気付けないまま流され続けるそれは、スコルピウスに自尊心を植え付け。唯一であると囁かれれば、スコルピウスの胸の内に湧き上がる、ほの暗い喜び。

 十を数えた年に初陣を果たしたスコルピウスはまるで待ち侘びたかのように、その後次々と目醒ましい功績を挙げるようになる。そうなってくれば、取り巻きと呼ばれる者の数は益々増えていき。
 まるで砂糖に群がる蟻の如く寄って来る輩に、熱病に侵されたかのように振るわれる弁に、スコルピウスは酔いしれた。幼いながらも希代の名君になるだろうと目されるのは、酷く心地良く。スコルピウスは冷静になれば見えてくるであろう矛盾に蓋をして、積極的にその事象を受け入れていた。
 ブロンディスの加護を受けていないスコルピウスを陰で笑っていた者達も、デミトリウス王が彼の功績に徐々にその存在を認め始めた途端、手の平を返したように媚びへつらい、スコルピウスの元へと擦り寄ってくる。
 だが成長すると共に己自身、嘘で塗り固められた仮面を被るようになったスコルピウスは、そこに潜む欲望を知る。彼等の笑顔の下に隠れる歪んだものを。彼等は邪気のない笑みを浮かべながら、上辺だけの忠誠をスコルピウスへと捧げるのだった。
 スコルピウスは、頑愚な己を呪い、周囲の全てに憎しみにも似た情念を抱いた。
 それはスコルピウスの中にいつまでもしこりとなって残る事となる。しかし、それを幼さ故と笑ってはいけない。そこで生きるしか術の無かった少年に、一体何が出来たというのか。
 勇者と呼ばれた父王は、例え血の繋がりがあろうとも国の頂点に君臨している雲の上のような存在で。それ故に、市井の者達のような身近にいるべき人では無かった。
 対して母は、スコルピウスを生んでからもただ『女』でしかなかった。スコルピウスを、王との繋がりを持つ為の人形と思っていたに違いない。いつだってその瞳は、唯王一人に注がれていて。スコルピウスは、一度も母親らしい事をしてもらった記憶が無かった。
 周りの口さがない者達は、母親は気が触れたに違いないと噂をしていた。
 だが、スコルピウスは誰よりも身近にいたからこそ知っていた。王への想いが強すぎた故に、その想いを初めて抱いた時間に心を置いてきてしまったのだと言う事に。
 家族の情を知らないスコルピウスにとって、己に向けられていると思っていた周囲の言葉に縋りたくなってしまったのも道理というもの。
 恨むべきは環境であり、スコルピウスに他の場所など存在する筈も無く。それ故に、そこで生きる以外に道は無かったのだから。

 だからこそ、彼らの本意はスコルピウスに少なくは無い衝撃を与えた。スコルピウスは気付いてしまったのだ。彼等が見ていた己という存在が、単なる器でしかなかったという事実に。彼等の中に、スコルピウスという一個人は欠片も存在してはいない現実に。それに気付いてしまったスコルピウスの中に芽生えた、暗い感情。
 耳ざわりが良いだけの、愚かしい言葉の数々はスコルピウスに人そのものへ不信感を抱かせる結果となった。
 こうなると厄介な自尊心は、スコルピウスから甘えを奪い。表面を取り繕う事だけが上手くなった。勉学に打ち込む事で少しでも己自身を見て欲しいと思ったのは既に過去の事となり、スコルピウスは幼き身でありながら、育むべき健やかな心を歪めてしまう結果となったのは必然であり。
 鬱屈とした心の内を解消する術を得られぬまま、スコルピウスは暗澹たる幼少期を過ごしていた。

 その結果スコルピウスは、人間というものは所詮己の利ばかり追い求める生き物であり、いくら善人と言われている者だとて面の皮を一枚剥いでしまえば欲望が剥き出しになるものなのだと、そう認識するようになった。
 そして、スコルピウスがそうではない人間もいるのだという事実に気付くまでは、暫しの時間を有するのだった。


 帝王学などというものは、結局民をどのように操り使うかの術を学ぶためのもので。民草の為にという一言は、それがやがて利益に繋がるからこそ吐ける詭弁。
 スコルピウスは家庭教師の講釈を聞き流しながら、気取られぬ様に視線を窓の外へと移した。
 窓の外に広がる暖かな陽気に照らし出された色とりどりの花々。その間を縫うように忙しなく翅を震わせる蝶の翅から落ちる燐分が、その情景に更なる光を加味していた。
 室内にいるには勿体無いと思える外の風景に、スコルピウスの意識は半ば以上外へと逸れていた。だが、

「随分と身が入られてはいないようですが、今日の講義はそれほどまでに退屈ですか」

 どうやら完全に気付かれていたようで、スコルピウスは心の中で舌打ちを一つ、慌てる事無く視線を目の前の人物へと。しかめつらしい表情で、だがどこか物珍しそうにスコルピウスを眺めている様子から、どうやら怒ってはいないようだ。
 日々プライドの高い教師陣に囲まれているスコルピウスにとって、その反応は意外だった。
 そういえば、この人物だけは最初から他の者達とは違っていたような気がする。今までの者達は、皆スコルピウスを敬いながらも教師である以上は己の方が上なのだと誇示する空気を纏っていたように思う。そんな彼等にそれ程までに己を一廉の人物と思いたいのかと冷めた目で眺めた事は一度や二度ではなく。しかし、この教師は己がいかに教師というものから遠い位置にいるのかという事を語るところから初め、知略に長けているとは言い難いといってやれば、正にその通りだと頷く始末。対処に困ってしまった事は記憶に新しい。
 ならば何故スコルピウスの教育係になったのかと問えば、自身の置かれている立場上、致し方なかったのだと眉を下げる男の姿に、一気に警戒心が拭い去られ。今まで関わった者達とは明らかに毛色が違う男に、僅かな興味が首を擡げた。
 それが、アルカディアの双壁と謳われた男、ポリュデウケスとの最初の邂逅だった。

 ポリュデウケスには、スコルピウスの武術指南役であると同時に己の持てる知識、つまりは生きた用法術を伝授するという任が課せられていた。
 実際、己の質を高める事が唯一であったスコルピウスにとって、生きた教科書ともいえるポリュデウケスの存在は有難かった。だが過去の兵法を学ぶ上で、どうしても関わってくるその後の統治や辿った歴史。果ては王としてあるべき姿へと話が繋がって行った途端、数瞬前まであった高揚は一気に形を潜め、酷くつまらないものに感じてしまうのだ。
 王になるに必要な知識であるのは重々承知の上で、上辺だけで話をやり過ごしていたのは紛れもない事実。他に成り手がいないのだ、スコルピウスは最早惰性といっても良い程度の認識で、その現実を受け入れていた。

 だが、そんなスコルピウスの認識を覆す事態が起ころうとは、その時の彼は思いもしなかっただろう。
 何も己でなくても良かったのだと、寧ろ自分はいつでも挿げ替えのきく代わりでしかなかったのだと知ったのは、アルカディア第一王子の誕生。



 正妃イサドラが身篭ったという噂は瞬く間に宮殿内を駆け巡り、スコルピウスの耳にその事実が届いた時、周囲は既に準備を始めていた。
 正当な血を継ぐ御子の誕生なのだ、とまるで己の手柄のように吹聴する者達に冷めた眼差しを向けるスコルピウスは、どこかで高を括っていたのかも知れない。
 出産の日に近付くにつれ、生まれる御子がどうやら男子であるようだと実しやかに囁かれるようになってから、周囲の者達の態度があからさまに変わっていった。だがスコルピウスは、そんな者達を胸中で嘲笑っていた。
 故に、恐らくこれは罰だったのだろう。神を信じる事すら止めてしまったスコルピウスに対する、神々からの。


 その日は、朝から天を突く晴天で。皆、新たな命の誕生を天におわす神々が祝福しているのだと囁きあっていた。
 しかしいよいよというその時、事態は一変。今まで雲一つ無かった空に見る間に暗雲が立ち込めたと思えば、凄まじい轟音が辺りに響き渡ったのだ。今までに無いそれに人々は戸惑いを隠しきれないようで、恐怖に身を震わせる者、原因を探ろうと動き出す者と、反応は様々だ。

 スコルピウスは、自室の窓からその一部始終を見ていた。そして、その音が齎した何かをも既に察しているようで。年齢には似つかわしくない老成された眼差しが向けられているのは、かのブロンディスが祭られている神殿。凄まじい音を轟かせながら走った一条の光は、確かに其処へ至る軌跡を描いていた。
 ブロンディスの祝福、雷を制する者。スコルピウスの脳裏を過ぎるのは神託の一部。

 生まれたのが正しく男児でしかも待ち望んだ神に認められた御子となれば、宮殿内に立ち込めた熱気は凄まじく。喜びに溢れる宮殿内で唯一人、スコルピウスだけは静寂を纏ってそこにいた。
 沸き立つ周囲から完全に切り離されたスコルピウスは、胸中がかつて無いほどに冷え切っているのを感じていた。彼はその事象を目にしてはっきりと加護とは何であるかを悟り。そして、己が持っていた全てをこれから一つ一つ剥ぎ取られてゆくのだろうという事を、どこか他人事のようにぼんやりと考えていた。










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