2






「よう、どうした。こんな夜中に」

 案内された船室は殺風景な、だが清潔感のある部屋だった。2人が同じ部屋である事には、この状況から見れば文句を言う気も無かった。
 やはり相当疲れが溜まっていたのだろう。それぞれベッドに腰を下ろすと、程なくして睡魔が襲って来た。何とか抵抗しようとしたものの、途中から抗う気力すら無くなって、誘われるままに微睡に身を委ねたのが出航前。眠りから眼を覚ました時、もう既に室内は暗く沈んでいた。

 随分と中途半端な時間に目覚めてしまったメルツは、向かいのベッドで安らかな寝息を立てるエリーザベトの様子を眺めながら、まんじりともせぬ時間を過ごしていた。が、どう足掻いたところで再び眠る事は不可能に近いと思い直し、立ち上がった。夜風にでも当たればまた違うかもしれない、などと思いながら。

 廊下には、必要最低限の明かりしかなく。随分と暗く沈んだ中を、しかし夜目が利くメルツは危な気ない足取りで、昼間案内された道順を逆へと辿る。
 程なくして目的の扉が目の前に現れ、軋む音をさせる木戸をなるべく音を立てないように押し開けば、噎せるような潮の香りと頬を撫でる涼しげな風に、益々目が冴えてしまう。
 明らかに失敗だったそれを、しかしすぐに戻るのも勿体無いような気がして、夜の海に視線を向けたメルツに、かけられた声。
 振り返った先には予想通り、船長である男の姿が。

「眠れないのか?」
「え、ああ、はい」

 昼間の不躾な態度は何だったのかというような柔らかな声色に、メルツは酷くぎこちない返事を返してしまう。
 そんなメルツの様子に気付いているのかいないのか、男は揺れる甲板の上を、危うげない足取りでメルツの方へと歩いて来る。

「船酔いは、してなさそうだな。嬢ちゃんは、まだ寝てんのか?」

 男はメルツの傍まで来ると、顎を擦りながら月光に照らされたメルツの様子を繁々と眺めた。メルツが頷きで返すと、男は「そうか」と目を眇める。

「具合悪くなったら言えよ、船酔いは体力を奪うからな。無理はしない方がいい」

 昼間の男とはまるで別人のようで、メルツは戸惑いが隠せない。困惑の表情を浮かべるメルツの様子に、その理由に思い至った男は、苦笑を漏らし両手を挙げた。

「昼間は悪かったな。世慣れてねぇ坊ちゃんのあんまりな態度につい苛々しちまって。別にお前さんらに何かしようって気は端からねえよ」
「……」

 思わず疑わしい眼差しを向けてしまったのだろう。男は頭を掻きながらどうしたもんかと口の中で呟き、結局何も言う事無くメルツに対し背を向けた。

「まあ、信じろなんて事は言わねぇよ。どうせお前さんらを陸に運ぶまでの短い付き合いだ。もう声もかけねぇから安心しな」

 そのまま、元の位置へと戻るべく立ち去る気配を見せた男に、慌ててしまうメルツ。何故なら、最初の時ならいざ知らず、メルツの中の男の印象はもう既にそれ程悪くは無くなっていて。確かにあの言い方に腹を立てたのは事実だったが、あれはメルツに対し何か忠告しようとしていたのだろうと思う事が出来たから。それに、

「あ、あの!」

 立ち去る男の背中に投げかけた声は、存外大きくなってしまい。メルツは忙しなく辺りを見回すが、どうやら近くに人はいないようで、ほっと胸を撫で下ろした。
 男は、まさかメルツの方から話しかけられるとは思っていなかったのだろう。驚く様子こそなかったが、小首を傾げメルツを見た。

「どうした。何か欲しいもんでも…ああ、メシか。飯係の連中はもう寝ちまってんだよなぁ。何かすぐに摘めるもんでもあれば良かったんだが…気が利かなくてすまねぇな」
「いえ、そうではなくて。えっと、昼間貴方が言った事を僕なりに考えてみたのですが、どうしても答えが見つからなくて。それで、その…」

 また呆れられるのだろうかと思いながら、尻すぼみになりながら言うメルツに、男は「ああ、あれか」と言ったきり口を噤むと、思案するように胸の前で腕を組み、視線を海へと投げた。
 メルツは居心地の悪い沈黙に苛まれながらも、男が口を開くのを待つ。
 暫しの思案の後、再びメルツを見る男の眼差しは僅かに冷たいものが含まれていて、メルツは知らず息を呑む。

「お前さんにとって、あの嬢ちゃんがどんなに大切なのかは良く分かった。だがな、肝心の嬢ちゃんの気持ちを考えたら、あんな言い方は出来ない筈だ」
「え?」

 メルツは良く分からないといったように首を傾げる。そんなメルツに対し、男はやれやれと言った体で肩を竦めた。

「良いか兄ちゃん。自分の立場になって考えて見るんだな。もし嬢ちゃんが、自分の身を省みず、ただお前さんに生きていて欲しいからと身を投げだしたら、どうする?ありがたいって思うか?」
「そんな!」
「思わない、だろ?嬢ちゃんだってそうなんだよ。お前さんが自分はどうなっても良いっつった時の嬢ちゃん、泣きそうだったぞ」

 メルツは男の発言に、はっと息を呑んだ。それは、まだ港への足がかりを掴めていない時、エリーザベトが取ろうとした行動そのもの。あの時自分はどんな気持ちだったか。そんな事は出来ないと、エリーザベトを犠牲にしてまで生きていても仕方がないと、そう思わなかったか。

「僕は、何て酷い事を…」

 エリーザベトの気持ちを考えないで、己の気持ちを押し付けた自分を恥じる。少し考えれば分かる事なのに。言ってしまった事はなかった事には出来ない。メルツはあの一言がエリーザベトをどんなにか傷付けてしまったかと思うと、後悔で胸が張り裂けそうだった。
 酷く落ち込むメルツの様子を見つめていた男の口元に笑みが浮かぶ。

「どうやら、お前さんは大丈夫みたいだな」
「え…?」

 呆然と顔を上げれば、満足気に頷く男がいた。男は徐に手を伸ばすと、自分より幾分か低い位置にあるメルツの頭に手を置き、髪を乱暴にかき混ぜる。

「あれを間違いだって思えるなら、次から同じ間違いを繰り返さなけりゃ良い。ちゃんと嬢ちゃんを大事に思ってるお前さんなら出来るだろうさ」

 言うなり男はメルツの頭から手を離し、その手を振り追い払うような仕草をする。

「話は終わりだ。大分身体が冷えただろうから、風邪ひかねえよう気を付けな」

 いっそ素っ気無いほどの態度。しかしまったく不快に思わないのは、男の纏う空気がどこまでも優しかったからだろう。豪快に笑う男はあっさりと身を翻し去って行った。
 唯呆然と男の背中を見詰めていたメルツは、ふと我に返ると、慌てて居住まいを直しその背に向かって一度深々と頭を下げる。上げた顔は吹っ切れたように晴れ晴れとした表情が浮かんでいて。踵を返して船内へと向かうその足取りは、軽やかだった。


 メルツはエリーザベトを起してしまっては申し訳ないと、極力音を立てないよう気を付けながら扉を細く開けると隙間から身を滑り込ませ、再び慎重に扉を閉めた。神経を使った一連の行動に詰めていた息を吐き出し、自分にと割り当てられているベッドの方へ向き直る。と、

「エリー…ゼ?」

 視線の先にある、自分のベッド。その隣に並んだエリーザベトが眠っていたベッドの上に身を起している白い影。暗闇の中、ぼんやりと浮かび上がっているエリーザベトは、ベッドの端に腰かけたまま、何事か考えているのだろうか、顔を伏せている。
 まさか起きているとは思っていなかったメルツは、軽い驚きを感じながらもそっと名を呼ぶ。すると、その声が聞こえたのだろう、弾かれたように顔を上げるエリーザベト。船室に僅かに差し込む月の光を受け、その頬を流れる幾筋もの雫がキラキラと輝いていた。
 エリーザベトは、静かに泣いていたのだ。

「あ…」

 息を呑むメルツ。対するエリーザベトは、メルツの姿が目に止まるなり勢い良くベッドから腰を上げ、メルツの方へと駆け寄ろうとした。が、足を挫いていた事が災いし、すぐにその身はぐらりと傾ぐ。

「っ!?」
「危ない!」

 エリーザベトの身体が床に叩きつけられる寸前、何とかエリーザベトと床の間に身体を滑り込ませる事に成功したメルツは、勢い余って床に転がる羽目になりながらも、しっかりとその身体を抱きとめた。
 衝撃で心臓がどくどくと音を立てていたが、どうやらメリーザベトに怪我を負わせるような事態だけは回避できたらしい事に、ほっと胸を撫で下ろす。

「エリーゼ、大丈夫かい?」

 腕の中、顔を伏せたままのエリーザベトにそっと声をかけてみるも、反応が返ってくる事はなく。エリーザベトはメルツの服をしっかりと握り、縋るように顔を押し付けていた。エリーザベトの身体が僅かに震えている事に気付いたメルツは、それが驚き故のものと判断し、大丈夫だというようにその背を優しく撫でる。

「…良かった…夢じゃ、無かったのね…」

 そんなエリーザベトが震える声で囁いた一言に、メルツの動きが止まる。
 目が覚めたら真っ暗な部屋の中、いつものように独りぼっちだったエリーザベトは、全てが夢だったのだと思ったという。そんな状況で、己がいた塔の部屋とは違うという事まで思い至る余裕はなく。メルツがいなかった事で、いつもの幸せな夢を見ていただけなのだと。全ては自分が作り出した幻影だったのだと思ったら、悲しくて涙を堪える事は出来なかったと。そう言って泣きじゃくるエリーザベトの身体を、メルツはしっかりと抱きしめた。己の存在を誇示するように、離したくないと縋り浮くように。
 メルツはあの男の言葉を改めて噛み締める。
 こんなにも己を想ってくれているエリーザベトを、どうしたら独りになど出来るというのか。

 メルツはエリーザベトがある程度の落ち着きを取り戻すのを待ってから、そっとその身を離した。泣いた後の顔を見られたくないのだろう。恥ずかし気に俯くエリーザベトの身体を抱き上げベッドに座らせると、メルツはその前に跪いた。俯くエリーザベトの頬に手を伸ばし、悲しみの残滓を優しく払うと、膝の上に置かれてた手を己の両の手で包み込んだ。

「エリーゼ、これから先、君の傍にいる事を。君を想っていく事を許してくれるのなら、僕は君の傍から離れないと誓う」

 メルツは、エリーザベトの瞳を覗き込むと、ふわりと笑う。今、メルツはとても暖かい気持ちでいっぱいだった。湧き上がるのは、エリーザベトを愛しく想う気持ち。その事が少しでも伝わったら良いと、精一杯の言葉を紡ぐ。

「僕は、エリーゼと一緒にいたい。君と一緒に笑ったり、泣いたり。言いたい事を我慢するのは身体に悪いって母さまが言っていたから、喧嘩するのも良いかもしれないね。そんな風に過ごして行けたら。季節の移ろいを一緒に感じて行けたら良いと思うんだ。僕は、エリーゼが笑顔でいてくれたらそれだけで幸せだから」

 想い想われる相手がいるという事が、こんなにも嬉しいのだと。メルツの頬を流れ落ちた、一滴。暖かな温もりが宿るそれは、メルツの歓喜を如実に表していて。
 メルツの誓いを聞くエリーザベトの瞳からもまた、新たな涙が滑り落ちた。それは先程のものとは全く違う意味が込められていて。

「こんな僕で良いのなら、僕と結婚してくれますか?」
「……っ…」

 上手く声が出てこないエリーザベトは、何度も何度も頷いた。
 何度この日を夢見たことか。メルツが死んだと聞かされても捨て切れなかったメルツへの想い。その恋心が、今漸く実を結んだのだ。
 もう二度と離れることがない二人は、万感の想いを込め、誓いを立てる。それは、やがて訪れる朝の光よりも強く、2人の中で輝き続けるのだった。











[ | | ]







人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -