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「はい、お待ちどう!」

 いつの間に注文していたのだろうか。テーブルの中央にどん、と置かれたのは皿に山盛りになった料理。盛んに湯気を上げる様子は、出来立てである事を表していて。食欲を刺激する臭いにメルツは、そういえばこのところまともに食事をしていなかったと思い出した。
 死なずの身であった時分は栄養を摂取する必要も無かったので、どうも食に関する欲が乏しくなっているのが原因であろうとは気が付いていたのだ。その為、なるべく気を付けるようにはしていたのだが、彼女のいる街に近付くにつれ、そちらにばかり気を取られてすっかり失念してしまっていた。その証拠に、存在を主張するように腹部から潰れた猫の鳴き声のような音が鳴る。

「何じゃ、随分腹が減っておったようじゃの。この店は見かけは小汚くて窮屈じゃが、料理人の腕は確かなんじゃよ。これは儂がいつも頼んどるもんなんじゃが、これが中々に美味い。ほれ、遠慮せんと」
「あ、はい。では頂きます」

 促されるままに、メルツは料理を皿に取り、一口。

「わ…美味しい」
「じゃろう」

 飾り気の無い純粋な賞賛に、老人は満足そうに頷く。自覚はなかったが、余程お腹が空いていたのか、あとはもう黙々と料理を平らげていった。
 老人は自分の分に手を付けるでもなく、そんなメルツの様子を終始嬉しそうに眺めていた。

 並べられた料理が粗方胃袋に収まり、人心地ついたメルツは新たに出された飲み物を片手に満足気に息を吐いた。

「もしかしたら足りんのじゃないかと思うたが、どうやら間に合ったようじゃの」

 呵呵大笑する老人に、メルツは食に没頭した己を恥ずかしく思いながら、頷いた。

「はい、お恥ずかしながらここのところまともに食事をしていなかったものですから、つい…」

 言い淀むメルツに、老人は

「生きる為には何よりも、まず食べる事じゃ。それに腹か減っていては、いざという時動けなくなってしまうからの」

 まるでこれからメルツが何をしようとしているか察しているような台詞に、どきりとした。と同時に、この人の良さそうな老人が自分に声をかけたのも、何か意図があってのものなのではという疑念が頭を擡げる。もしメルツの意図に気が付いているのなら、これ以上この老人と関わるのは危険なのではないのか。
 メルツは立ち上がる口実を見付けれないものかと、店内へと視線を巡らせ、固まった。
 気付かぬ内に随分と店も混み合っていたようで、結構な人数がそこここでグループを作り、楽しそうに笑いながら杯を重ねている。皆今日と言う日がめでたいと言い、彼女の幸せを口にしながら。

「…兄さんや」

 メルツの肩がびくりと跳ねる。咄嗟に表情を取り繕う事が出来ず、一瞬視線を交わし、直ぐに顔を伏せた。泣きそうに歪んだメルツの表情を目の当たりにした老人は、深い溜息を吐くと腕を伸ばし、メルツの頭を慰めるように撫でた。

「儂はな、昔何度か聖女様をお見かけした事があるんじゃよ」

 メルツはその意味を理解すると驚愕に目を見開き、弾かれたように顔を上げた。その瞳に強い光を見た老人は、メルツの頭を優しく叩き、腕を引っ込める。話の続きを求めるメルツに、老人はゆっくりと瞬きをし、再び口を開いた。

「ある方の要望で、城に行った時の事じゃ。偶然お見かけする機会があってのう。聖女様はそりゃあ愛らしいお方じゃった。お小さいながら候女様としての品というものをお持ちでのう…」

 婚姻の儀を理由に呑み、はしゃぐ周りの者達を見回しながら、老人は懐かしそうに口を開いた。
 それに対し、メルツは膝の上に置いた手を強く握り俯く。脳裏には、分かれた頃の少女の姿が。外のもの全てを興味深そうに眺めていたあの星を宿した瞳。メルツが訪ねて行く度、花が綻ぶような笑顔を浮かべて迎えてくれた。そんな彼女を愛さない人間はいないと、断言できる程彼女の周りは常に光に満ち溢れていた。

「じゃが…」

 言いよどむ老人の声に視線を上げれば、哀しげに表情を曇らせた老人と目が合った。

「聖女様の心からの笑顔を、儂はとうとう唯の一度も拝見する事は叶わなんだ。いつだって悲しみに耐えておられるように、痛々しい笑顔を浮かべていなさった」

 胸が、締め付けられるように痛んだ。その痛みに名前を付けるのならば、罪悪感と呼ぶのがしっくり来るだろう。
 記憶を取り戻してからと言うもの、メルツは常にある一つの事柄について自分を責めていた。それは、あの時警戒せずにあの男達を母の元へと導いてしまった己の愚かな所業。あの時、もっと自分の置かれている立場を理解していたら、母が死ぬ事も己が囚われる事も無かった。そうすれば、彼女や、もしかしたら彼女の母親にも、もっと違った未来があったかもしれないのに。

「だからの、儂は一度で良いから聖女様の曇りの無い笑顔を見てみたいと思うのじゃ。幸せだと微笑まれる聖女様は、さぞかし美しかろうて」

 この国に生まれ育った者として、彼女の幸せを願わぬ筈が無いのだと、老人は語った。
 メルツとて、彼女の幸福を願って止まない者の一人だ。だから、こうして遠く離れたこの地までやって来たというのに。
 正直、彼女に会う事に一遍の躊躇いも無いと言ったら嘘になる。彼女が本当に結婚に異論が無いのなら、今すぐこの街を出るべきなのだという事も十分理解しているつもりだ。
 もしや、この老人はそれを暗に言い含めようとしているのかも知れない。

「何故、そんな話を?」

 僅かに震える声。老人は恐らく気が付いた事だろう。情けなくても虚勢を張る事はしない。
 はっきり言って、これは危険な賭けだった。老人の返答次第では、メルツは追われる身になるかもしれない。そうなれば、地の利の無いメルツは圧倒的に不利であり、何れ捕まるだろう。そうして辿り着くのは、真の別れと、闇。彼女に会えないのであれば、それでも良い。メルツの思考は既に半ば闇に傾いていた。
 警戒の色を含んだ探るような眼差しに、老人は怯む様子もなく、やんわりと笑みを浮かべた。

「長く生きてると、見えてくるものもあるんじゃ。儂は、残念ながら結婚が聖女様の幸せだとは到底思えなくてのう。否、相手が聖女様自身が望まれた方なら文句も無いのじゃが、今回の相手は到底そうだとは思えんのじゃ」

 予想していたものとは違う返答に、メルツは虚を突かれ目を見開いた。

「聖女様には、心に決めた方がおると風の噂で聞いた事があっての。そして、もうこの世には居られんと言う事も知っておる。じゃがな、今日兄さんに会って思ったんじゃよ。聖女様が唯一と定めた相手が、こんな澄んだ眼差しをした若者であったら良いのに、とな」

 メルツは、老人が人々の口から彼女の話題が出る度に過剰に反応するメルツを観察し、恐らくは何かしらの確信を持って言っているのだと察しがついた。その慧眼に返す言葉が見付からない。
 同時に、そこまで彼女を想っている存在がワルター以外にもいた事がどうしようもなく嬉しかった。
 彼女の今までが孤独だけではなかった事に、救われたような気がする。

「ご老人…」

 だからこそ、そこまで彼女を理解しようとしてくれている老人に身の上を明かさなければと思い至るが、言葉は途中で遮られた。

「儂は唯の老いぼれ。兄さんは、そんな爺の我侭に付き合ってくれた律儀な若者。それで良いんじゃよ」
「ですが」
「何とも固いのう。なら、一つこの爺と約束してくれるか?」

 突然の申し出に、メルツはきょとりと目を瞬かせ、小首を傾げた。それを了承と取ったのか、老人は口を開いた。

「あの方を幸せにしてやってはくれんか」
「っ!?」
「空虚に満ちた笑顔しか浮かべられなくなってしまったあの方を、心から笑えるように守ってやってはくれんか」

 縋るような、眼差し。メルツは暫し言葉を忘れて老人を見ていたが、唇を引き締め、しっかりと頷いた。


 メルツは食堂から出ると、老人に教えられた道を目的地に向かって歩き出した。
 背筋を伸ばし、堂々と。視線の先にその場所を見据えながら。周りの喧騒はもう気にならない。何を耳にしても、その足取りは決して揺らぐ事は無く、心は当に彼女の元へ。
 怖くないと言えば嘘になる。でも、既にそれが足を止める要因には成り得ないのだから仕方が無い。
 足を止める要因になるとすれば、それは彼女自身からの拒絶。そして、それならそれで本望だ。
メルツは逸る気持ちを抑えながら、確実に前に進んで行った。











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