2
詳しい説明もなく森へと分け入るワルターの背を、メルツは訝しげに見、それでも置いて行かれる事のない様にと追いかけた。薄暗い森の中、ワルターはランプのほのかな明かりひとつで、それでも迷う事無く歩いて行く。
ワルターに連れられて辿り着いたのは、一つの墓標。暗い森の中、そこだけがまるで光を放っているように見えたのは、墓標を囲むようにして植えられている真っ白な花々の所為だろうか。
メルツの足が、無意識に止まる。表情は驚愕に彩られ、その眼差しは食い入るように目の前の墓標へと向けられている。
心臓が嫌な音を立てて波打っていて、メルツは不自然に乱れる呼吸を整えようと、服の上から心臓のある辺りをきつく握った。
チャリ―――
微かに鳴る音は、ともすればメルツの意識を再びあの狭間へと導いてしまいそうで、だが目の前の現実に耐え切れず、メルツはその導きにそのまま意識を委ねそうになる。その時、
「ソフィお嬢様、メルツ君ですよ。覚えていらっしゃいますか?」
墓標に語りかけるワルターの声に、メルツの身体が可笑しい位に跳ねる。
その墓標は予想していた者のものではなく、その母親のものだった。
メルツの内心の動揺に気付く事無く、ワルターは振り返るとメルツを招き寄せた。
彼女のものではなかったとはいえ、彼女の母親の墓の前に立てる程落ち着けていなかったメルツは、殊更ゆっくり足を進めると、長い時間をかけて距離を詰め、ワルターの隣へと並び立つ。
「…お久しぶりです。奥様」
自然と漏れたのは、当たり障りの無い台詞。こんな状況で気の利いた事など言えず―これが『メルヒェン』であったなら、もっと何か言いようがあったのかもしれないが―目を閉じ、黙祷する。
「…エリーザベトお嬢様がいなくなってしまって以来、ソフィ様の容態は日増しに悪くなっていき、最後は眠るように…」
ワルターは墓標を見つめたまま口を開いた。その声音は悲哀に満ちていて、どんなに悲しかったのか、ありありと分かった。
メルツは、ワルターの声が僅かに震えているのに気付いていたが、気付かない振りをし、墓標を見つめる。
「…奥様には、とても良くして頂きました」
外へ出さず屋敷の奥で大切に守り慈しんでいた少女を幼さゆえとはいえ勝手に、しかも夜の森の中などという危ない場所に連れ出していたメルツに、それを知っていながら優しくしてくれた女性。
『エリーゼのお友達になってくれたのね。私はこの娘の母親よ。宜しくね、メルツ君』
静かに微笑む女性だった。精神を病んでいると知ったのはいつの事だったか。心穏やかになるようにと持って行った薬草を渡した途端、涙を流しながら抱きしめられた事は、今でも記憶に新しい。
傍目から見ても彼女の周りは優しさで溢れていた。彼女の詳しい家庭の事情など知りもしなかったが、そんな事は関係なく彼女を守り慈しんでいた彼等は血の繋がり云々ではなく、確かに家族であった。
だからこそ、彼女の母親の死は悲しいと同時に、その時傍に恐らく彼女がいなかったと考えられる状況が、酷く不可解だった。
だが、何となくおいそれとそれを聞くのが躊躇われた。それがかの家族を崩壊に導いてしまった事実があると思われるだけにそう感じたのかもしれない。
「エリーザベトお嬢様は…」
だから、幾分落ち着いた声でワルターが話し出した時、話させてしまった罪悪感に、心が痛んだ。
ワルターの話は、メルツに軽くはない衝撃を齎した。曰く、彼女はかつての選帝侯の娘であり、それ故に城へ引き取られたというのだ。
「では、彼女は今…」
「はい、お嬢様の兄上に当たる方の外腹の娘として、かの城で暮らしておられます」
淋しげな声色のワルター。しかしメルツはその意図を汲む余裕はなかった。
無理もない、それほどまでに手の届かない場所に行ってしまったなどと、誰が想像しただろう。これでは、一目会う事すら不可能だ。それに―――
「……では、彼女は、もう…」
美しく成長したであろう彼女を傍に置きたいと考える者など、掃いて捨てるほどいるに違いない。
「いえ、ご結婚はまだ。ですが……ライン伯、現プファルツ選帝侯との婚姻の儀が、近々予定されております」
頭を殴られたような衝撃が走った。
半ば覚悟していた事とはいえ、こうして目の前に突き付けられると締め付けられるように胸が痛んだ。
遅かったのだ、何もかも。折角母親が送り出してくれたというのに。これから自分は何を支えに生きていけば良いのだろう。
メルツは余りの衝撃に気が付かなかった。そんなメルツの様子を探るように見ているワルターに。
「メルツ君。君はどうしたいですか?」
最初の衝撃から立ち直れないでいたメルツは、ワルターの問いかけに、一瞬何を言っているのか理解できなかった。
だが、何とかそれをこれから自分がどうするのかと聞いているのだと解釈し、逡巡の後、口を開いた。
「正直、どうして良いのか分かりません。でも、ワルターさんや、況して彼女に迷惑をかける事はしませんので、ご安心下さい」
本当は、後悔の念に苛まれ今すぐ大声で泣いてしまいたかった。だがそれをするとワルターに迷惑がかかってしまう。それはメルツの本意ではない。ならば今すべき事は、一刻も早くこの場から立ち去る事。
「ワルターさん、色々と教えていただき、ありがとうございました。お蔭で何も分からないままさまよう羽目にならなくて済みました」
深々と頭を下げ、振り切るように踵を返すと、森の奥へと向かって歩き出す。
かつて母親と二人で暮らした家は、まだ存在しているだろうか。あそこは特に人が来ない場所にあったから、泣こうが喚こうが誰にも迷惑をかけずに済むだろう。足早に、家の方向と思われる方へ歩き出す。
「…君はそれで良いのですか?」
しかし、背中に投げかけられた問いかけに、メルツの足が止まる。
仕方がないではないか。相手は選帝侯の一人に数えられる人物。どうあっても勝ち目はない。それに、それを承諾しているのなら、彼女もその人物との婚姻を望んでいるという事で、メルツの望みは彼女を不快にさせる可能性が大いにあるのだ。
頭の中で回る言葉たち。だがメルツはそれを声に出す事が出来ない。ひとたび言葉にしてしまったら、溢れる思いのまま、ワルターにぶつけてしまうかも知れない。そんなのはただの八つ当たりだ。
唇を噛み締め、襲い来る激情に耐えるメルツの様子に、ワルターは悲しそうに眉を寄せた。
「…お嬢様は、この婚姻を望んではおられません。お嬢様は、君が居なくなってから…君が死んだと聞かされてから、まるで抜け殻のようになってしまわれました。今のお嬢様はただ言われるままに従うだけの人形です」
それでも、君はそんなお嬢様を放っておかれますか?と。ワルターは静かに語りかけた。
ワルターの言葉の意味を察したメルツは、弾かれるように振り向いた。驚愕に見開かれた瞳からは、涙が止め処なく流れ落ち、頬を濡らしている。
ワルターは、そのまま固まっているメルツに近付くと、隠しにしまってある手巾を取り出し、差し出した。
「君は、昔から我慢する事が上手な子でしたね」
固まったまま動かないメルツの手を取り手巾を握らせると、ワルターは自分より幾分高い位置にあるメルツの頭を優しく撫でた。
久方ぶりに感じた温もりに、メルツは手巾を顔に押し付ける。そして、溢れ出る涙を止める術を知らぬまま、久方ぶりに感情のまま声を上げて泣いた。
[前 | 戻 | 次]
|