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 突如、男の足元から、光が膨れ上がった。

「っ!?」

 男は人形を引き寄せ、自身の瞳を腕で庇った。暴力的なまでの白は男と、その腕の中の人形を飲み込んだ。かと思うと、それは急速に収束し、数瞬後には、まるで何事も無かったかのように、卵の殻が割れるような軽い音と共に消え去ってしまった。
 何も異常が無い事を肌で感じたのか、男は掲げていた腕を下げ、ゆっくりと目を開け、飛び込んできたものに息を呑んだ。
 先程まで確かにあった筈の野薔薇が無くなっている。否、正確にはあの毒々しいまでの血色はどこへやら、咲き誇る野薔薇は全て白で塗りつぶされていた。
 時間にしてほんの数秒。しかし、その些細な時間で変わってしまった光景。
 何か既視感を感じる。このような事が、そう遠くない過去にもあったような気がする。人形を抱えていない方の手を己の額へと伸ばす。何か、あった筈だ。それを思い出さなければならない、そう強く感じた。

「―――あ…」

 男はかすかに掴んだ記憶の糸を手繰り寄せ、己のものである記憶を取り戻そうと自らの内を探っていたが、不意に蘇ってきた詳細な記憶に、思わず声を漏らした。そうだ、

「エリーゼ…」

 意識を失う前、確かに彼女との思い出が脳裏を過ぎった。井戸の周りに植えてある白い野薔薇は、彼女との夢のような日々で幾度と無く手ずから彼女の髪に飾ったものだ。それに、闇から引き戻される最後の時、感じたあの白は彼女ではなかったのだろうか。そう考えれば、あの時感じた胸の痛みにも説明が付くというもの。
 一つ思い出した事により、次々と蘇ってくる記憶。母親と二人で過ごした森の家の事。彼女と共に過ごした沢山の思い出。彼女との別れ。それに、

「僕は、死んだ…?」

 見知らぬ男の手により井戸へと投げ込まれ、その身が奈落へと落ちていく情景までもがはっきりと蘇る。時間にすればほんの数秒の事が、何時間にも感じられたような気がした。

『いいえ、貴方は死んではいないわ』

 皮肉な話だけれど。と、母である人形は語り出した。その内容は、正に皮肉としか言いようが無く、男が辛うじて人間としての生を残していられたのが屍揮者となった故の事だったのだから。

「母さま、僕はどうしたらいいのでしょう」

 記憶が戻ったからなのだろうか、その様子は酷く幼く映る。無理も無い、彼が本来の彼ではなくなった時、彼はまだ少年と言っても良い年齢だったのだから。突然その時まで意識が引き戻されたのだ。中身と外見が食い違っているのも当然というもので。
 しかし、今まで辿ってきた記憶を無くした訳ではない男にとって、己の行ってきた所業はどうあっても軽く流す事など出来なかった。その為に存在していたのだから仕方が無かったのだと割り切れる程、彼は軽薄な人間ではない。彼は、幼い自分より自身の事より周りの人間の事を優先するような優しい子供だった。その上、世界の作為も、況してや世間の悪意など知らぬままであったのだから。
そんな息子に屍揮者というものを背負わせてしまった母親は、酷い後悔の念に苛まれながら、それでもそんな息子の様子を黙って見つめていた。

「僕は、とても酷い事をしてしまいました…」

 復讐を促したが故に人生を狂わせてしまった人々に。そして何より魂を穢してしまった歌姫達に。
 男は途方に暮れた眼差しを人形へと向ける。そんな息子の様子に、母親は酷く胸が痛んだ。

『…償いがしたいの?』

 静かな問いかけ。てっきり頷きが返ってくると思ったのだが、予想外にも男はきっぱりと首を横に振る。

「一度穢れた魂はそう簡単には輪廻の輪に戻る事は出来ないって、昔母さまがおっしゃっていました。だから、僕はそんなに簡単に償うなんて言えません。でも、叶うなら彼等の魂が安寧の中浄化できる手伝いが出来ないでしょうか?」

 真っ直ぐな、穢れの無い眼差し。イドは、彼の本質までを汚す事は敵わなかったらしい。

『そうね…』

 また、母子2人身を寄せ合って生きて行くのも良いかも知れない。愛しい我が子と共にいられるのなら、贖罪という苦難の道のりも耐えられるだろう。だが―――

『貴方には、守らなければならない約束がある筈よ』

 あの娘が『お友達』を渡してくれていなかったら、こうして再び愛しい我が子に会い見える事は無かった。それに、

『愛シテルワ、メル…』

 人形に宿りし娘の欠片は、イドに支配された事により、記憶を塗り替えられ、殺意を唄うだけのものと成り果ててしまったが、我が子に向けられていた愛だけは決して手放す事は無かった。
 そんなにも想ってくれる相手がいて、彼も約束という名の誓いを立てる程に想いを寄せていたのだから、それは守られるべきものであって欲しい。
 哀しみの連鎖はここで断ち切るべきなのだ。罪を負うのは己一人で十分。愛しい我が子には、今度こそ心通い合わせる相手と手に手をとって、幸せになってもらいたい。
 その為にも、彼を無事送り出してやらなくては。それが母として出来る唯一の事なのだから。

『良くお聞きなさい』

 静かな決意を宿した真っ直ぐな眼差しに、男の背筋が自然と伸びる。

『私はもう貴方と共に在る事は出来ません。私と貴方の道は、ここで別たれる。貴方は貴方を待っている人の元へ向かいなさい』
「そんな、母さまはどうなるのですか?」
『私は…』

 人形は一旦言葉を切ると、地面に降りようと身を捩る、それに気付いた男が人形の身体を丁寧に下へと降ろした。
 人形は、腕を持ち上げ纏うドレスのスカート部分を払う仕草をし、再び顔を上げた。

『私は、これから哀れな歌姫達の元へ。その魂を浄化してあげなければ』
「なら、僕も!」

 必死な様子で言い募る男に、しかし人形はきっぱりと首を振る。

『貴方を連れて行く事は出来ない。私がこれから行く場所は、生ある者が行く事が出来ない処。貴方では、踏み入る事すら叶わないわ』
「でも…」
『それに、貴方にはやらなければいけない事、守ると決めた約束があるのでしょう?』
「っ!」

 人形の言葉に脳裏を過ぎる、彼女の必死な顔。そうだ、己は彼女に誓った。必ず、迎えに行くと。
 でも、母親一人に罪を背負わせて、その上こんな穢れた身で彼女に会うなどという事が許されて良いのだろうか。

『私と共に来てくれようとする、貴方の気持ちはとても嬉しいわ。メル、でも私はそれよりも、貴方が幸せになってくれた方がもっと嬉しいのよ。大丈夫、貴方が自分を取り戻したなら、きっと光は貴方を迎え入れてくれるから』

 どんなに言葉を重ねようと、優しい我が子は己を心配してくれるのだろう。そんな人間でいてくれる事を、どんなに誇らしい事か。そんな彼だからこそ、送り出してあげたいのだ。
 慈愛に満ちた微笑を浮かべる人形は、ゆっくりと両の手を持ち上げる。

『さあ、行っておあげなさい。あの娘が待っているわ。私なら大丈夫、貴方も知っているでしょう?賢女の名は伊達ではなくってよ』

 少しおどけたような物言いに、漸く心が決まったのか、男が人形を見つめ、しっかりと頷いた。

「分かりました。行ってまいります、母さま」

 軽く頭を下げ踵を返す男。彼の性分そのままのよような、真っ直ぐしっかりとした足取り。

『さようなら。愛しい我が息子、メルツ』

 囁く声は余りにも小さく、届く事はなかったが、それで良い、と人形は思った。
 我が子の姿が宵闇に紛れ完全に見えなくなるまで、人形はその場に立ち尽くし、その背を見つめ続ける。まるでその姿を脳裏に焼き付けようとするかのように。
 不意に、人形の身体がまるで糸が切れたかのように崩れ落ち、それっきり、僅かにも動かなくなる。と思えば、人形を包み込むように薄い靄が発生した。 それは、見る間に一人の女性の姿へと形を成す。

『イヤ、イヤヨゥ。メル、メルゥゥゥゥ』

 動く事も儘ならず、狂ったようにうわ言を繰り返す人形の姿を痛ましげに見下ろしていた人影は、その場にしゃがみ込むと人形へと優しく手を伸ばした。

『大丈夫、あの子はちゃんと貴女の元へ辿り着くわ。だから、それまでお眠りなさい』

 宿った魂の欠片は、時の流れと共に昇華され、彼女へと還って行くだろう。そうなれば、この器は再びあの闇に利用されないとも限らない。一度闇に染まってしまったこの人形は、闇を受け入れるのに相応しいものと成り果てているだろうから。

『貴女がいてくれたお陰で、あの子は独りではなかったわ』

 ありがとう、と。母として、感謝の気持ちは尽きない。だからこそ、二度と悪意に染まらないように、この『お友達』も何れは浄化してやらねばならない。
 テレーゼ・フォン・ルードウィングは、我が子を抱くように、人形を抱きしめ、立ち上がる。
 そのまま、もう見えなくなった我が子の立ち去った方向へと、祈るような眼差しを向けていた。
 










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