今、ここに誓う






 誰もいない室内に、一人立つ男。
 脳裏に甦って来るのは、夢にまで見た相手と手に手をとって駆け去る娘の姿。初めて心からの笑顔を見た気がした。そしてそれは強ち間違いでもないのだろう。

「愛だ何だと下らぬ事を」

 吐き捨てた一言は、しかし常の力強さは無かった。
 娘は一度も己を振り返る事はなかった。それは望んだ結果だといっても良い。男は事ある毎に娘を貶し続けた。それは、端から娘に対し愛などという感情は持ち合わせていないという事を相手に示す意味も持っていて。
 娘の存在を知ってから、一度だって家族の情を持った事はない。そして始めて対面した瞬間も、その愛らしい姿に揺らぐ心など無かった。
 寧ろその姿に、重なる面影に、更なる憎しみを抱いたものだ。
 それほどに、彼女は母親に似ていた。

 自らの心を誰よりも理解してくれた母親は、厳格な前選帝侯からの重圧に耐え忍んでいた男にとって、唯一の心の拠り所だった。大好きな母親がいたから、母親が喜んでくれると思えばこそ、立派な選帝侯になろうと心血を注ぎ、努力を重ねる事が出来たというもの。
 彼女にとって自慢の子でありたいと必死に努力してきたというのに、彼女は自分ではなく、よりにもよって黄泉路を辿った妹を選んだのだ。
 お腹を痛めて産んだ子が、自分より先に儚くなった。その事で、どれほどの衝撃を彼女に齎したのかを想像する事は容易くはない。男とて、妹が死んだと聞かされ、大切な家族がいなくなってしまった悲しみに暮れた。
 だが、母親はそれ以上の絶望を味わっていたのだろう。あの他人にも身内にも厳しい父が、そんな妻に優しく接する事は恐らくありえないだろうし、己では幼すぎたが故にその胸中までも推し量る事は出来なかった。唯一人、幼き頃より傍で仕えていたあの老騎士のみが、母親の想い全てを知っていたのだろう。そう考えると、その時傍にいるのが何故自分ではなかったのか、という後悔とも絶望ともつかぬものが頭を擡げ、それは幾度となく男の中に湧き上がっては男の心を蝕んだ。
 何度も男を苛む感情は、やがて男の本質そのものを歪めてしまったのかもしれない。
 その後、男は一切笑う事がなくなり、周りに対し常に線を引くようになった。自分の心に踏み込まれる事が無いように、己の心が揺さぶられる事が無いように。
 しかし、妹の存在に久方ぶりに己の中で沸き上がったものがあった。それは所謂嫉妬という類のもの、だったのかもしれない。矜持の高い男はそれを認める事をせず、憎しみと言う感情でそれを塗りつぶした。故に、彼は血の繋がった妹に対しいつだって負の感情をぶつけ続けたのだ。

 だが―――

 娘はそれでも本質的に兄である自分を嫌ってはいなかったようで、時折背中に投げかけられる視線の中に己を家族として渇望する感情が含まれていた事は気付いていた。
 それが娘の無意識の行動であったろう事は想像に難くない。だがその結果、男の心に波紋を呼んだ事は確かで。
 無意識の内に握り締めた拳は、男の中の何かが露呈した瞬間でもあった。だが、男はそれに気付こうとはしない。僅かに揺さぶられた感情を抑え込むなど男にとっては容易い事で、それは独りだった男の日常がどれ位のものであったのかを垣間見る一端にもなっていた。

「どうした、坊」
「翁…」

 背中に投げかけられた声。振り返らずとも背後にいる人物が誰であるのか、その気配ですぐに気が付いた。何年経とうとも、男がどんな地位に着こうとも、態度を変える事の無い貴重な人物は、相変わらず神出鬼没だ。

「…貴方でしたか。あの娘を逃がす手引きをしたのは」

 兵士達が、逃げた娘を追う際に図らずも進路を妨害した盲目の老人を1人牢に入れたと報告があったが、この老人ならば図らずもではなく完全に意図的なものであったに違いない。
 老人は、責めるような声色に動じる様子は無く。当たり前のように室内に足を踏み入れると笑う。

「さあて、何処にそんな証拠があるんじゃろうな」

 あくまでもしらを切るつもりとでも言うのだろうか、そらとぼける声に男は僅かに溜息を漏らす。全く、この老人には叶わない。本来牢に入れられている筈の彼が、こうして誰に見咎められる事無く自由に歩き回っている事が、それをより明確なものとしていて。

「私は貴方の考えも、そしてあの娘の想いも理解できません」

 老人に語る声は常の力強さは無く。抜け殻のようになってしまった男の姿は、あの厳格を絵に描いたような人物と同一であるとは思えない。

「そうさのう…儂はな、坊よ信じてみたかったのかも知れん。あの娘が抱き続けた想いと、あの坊やの真っ直ぐさを」

 何故なら、老人は痛ましげな眼差しを男へと向ける。男は微動だにせぬまま鉄格子の嵌まった窓を見つめる。その瞳に後悔は無い。男にとっての大切なものは、もう何一つ無くなってしまったのだから。

「あんな脆弱そうな小僧。貴方の心を動かすような何かがあるようには見えませんでしたが」

 真っ直ぐに娘の元へと歩いて来た青年が、緊張で震えていた事を知っていた。情けない、とそう感じたのに。気付けば娘と共に姿を消すまでただ見ていた。2人は己の横をすり抜けて行ったのだから、止める事など容易であったというのに。
 不可解な己の失態に、今更ながら舌打ちしたい気分に駆られる。が、これ以上老人の前で失態を犯したくは無かったので、ぐっと堪える。
 だが、聡い老人はその気配を察したのだろう。喉の奥でくくくっと笑う声が聞こえた。

「坊、お前さんは気付いていないかも知れんが、あの坊やはお前さんの若い頃によく似ておった」
「あんな小僧に似ているなど、侮辱もいいところです」

 心外だというように顔を顰める男に、老人は益々笑みを深める。

「まあ、坊より随分頼りなくはあったが、真っ直ぐな眼差しはとても懐かしかったのう」
「…っ」

 男が始めて老人へと視線を向けると、慈愛の篭った眼差しに言い返そうとした言葉が出てこない。
 慌てて視線を逸らし、悔しげに口元を歪める男の姿に、老人は男に気付かれないようそっと息を吐いた。
 老人は、男がかつて持っていたあの優しい気質を何ものにも代え難い大事なものだと思っていた。父親の眼を盗み、城下を走り回っていた少年の姿は、街の誰からも愛されていたのに。どれか一つに言及する事など出来ず、巡り合わせが悪かったとしか言いようが無い。母親がいなくなってから、少年が少しずつ壊れていったように、老人には見えていた。
 もし少年の妹が死出へと旅立たなければ、もし母親がもう少し強い人であったなら、もし父親がもう少し家族に対して情をかける人物であったなら。
 仮定の話は何の意味も成さないが、それでも思わずにはいられなかった。そうあったなら、少年は父親に似て厳格な、それでも思いやりを失わない人物へとなっていた事だろう。だが結果的に、少年は己の心を守る為に感情を切り捨て、厳しいだけの人物へと成り果ててしまった。
 幼い頃から男を知っているだけに、何も出来ない己を歯痒く思った事もあった。
 しかし、老人は脳裏に浮かぶ娘の姿に笑みを漏らした。
 娘の存在は、男の感情を呼び覚ます良い切欠になったのだろう。始めは負の感情しか持っていなかった男の中に、確かに芽生えた―戻って来たという方が正しいだろうか―感情を、老人は見逃さなかった。
 男が幼かった時分に確かに持っていた真っ直ぐさを持った娘は、男の感情を徐々にではあるが引き出していった。
 男と相対する日常は、娘にとって辛いものであっただろう。しかし娘は喩え想いを寄せていた相手が既にこの世には無いのだと知らされても、気質を歪める事をしなかった。だからこそ、男にとって良い刺激となったのかもしれない。
 老人は、今頃笑い合っているだろう2人の姿を想像し、深い笑みを浮かべた。娘とあの青年が、いつまでも幸せである事を願って止まない。

「翁。あの2人は…いや、何でもありません」

 言いかけて止める男に代わり、老人は男が気になっているだろう答えを告げる。

「恐らくは、もう船の上じゃろうよ。足の速い船じゃ、誰も追いつけんじゃろうて」

 追いかけるのか。と、言外に含んだ問いを正確に察した男は鼻を鳴らす。

「思い通りにならぬ娘など、いたところで何の役にも立ちません。何処で生きようが死のうが、私にはもう関係のない事です」

 冷たく吐き捨てるものの、そこに含まれていたのは、娘を自由にするという男の意思。老人は、満足そうに頷くと部屋を出るべく踵を返す。まだ完全に己の中で整理し切れていないであろう男の心情を慮っての行動だった。だが、そんな老人を男は呼び止めた。

「一つ、聞いても良いですか?」
「何じゃ、久しぶりにこの爺に聞きたい事でも出来たのかの」
「いえ、そういう訳では。翁、貴方は父の騎士だった。父亡き今、貴方が私達にこうして関わるのは、何か命を受けたから、ですか?」
「儂の奔放さを誰よりも知っていなさったあのお方が、そんな命令をする筈もあるまいよ。儂はな、坊。ただお前さん方に幸せになってもらいたかっただけなんじゃ」

 男に剣を捧げる気は無かった。自分にとって命を捧げても悔いは無いと思えたのは後にも先にも前選帝侯唯1人だったから。だが、それとは関係なく大切に想える者達がいて。それは全く別のものだったのだ。
 老人の言葉を受け、男の肩が僅かに揺れる。泣いている訳ではないだろうが、男の中で様々な感情が鬩ぎあっているだろう事は容易に見て取れた。

「…もし、お時間があるようでしたら…」

 振り返った男の口元には笑みが浮かんでいる。随分と久しぶりに見たそれは、酷くぎこちないものだったが、老人はとても満足そうに頷いた。

「そうさの、久方ぶりに昔話でもして差し上げようかのう」
「貴方の武勇伝を聞いて喜ぶ歳ではないのですが…そうですね、偶にはそれも良いかもしれません」


 老人を促して部屋を出る寸前、男は誰もいない部屋の中へ顔を向けた。必要最低限のものしかない殺風景な部屋。いつも暗い顔をした娘が暮らしていた部屋は、酷くそっけない空気を漂わせていた。男の口が僅かに動き、極ささやかな声が漏れる。それは室内に響く事はなく、男は今度こそ部屋を後にした。
 老人が見ていたなら気付いたのだろうか。その唇が「幸せに」と動いた事に。











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