自由を掴む為に






 教会からの大きな通りは僅かに傾斜がある下り坂となっていた。その通りの両脇には、人の群れ。まるで街中の者達が集っているかのように、そこは人で溢れ返っていた。
 それもその筈、もうすぐ聖女と名高いかの女性がこの大通りを通って門の外、つまり嫁ぎ先へと向かうのだから。 彼女の姿を一目見ようと集った者達は、その時を今か今かと待ちわびていた。

 教会に近い側にいた者達から漣のようなざわめきが伝播する。
 理由が分からない者達は、婚儀の列が来たのかとあたりを付け、我先にと身を乗り出し教会の方を振り仰ぐ。
 その視界に飛び込んできたのは2つの影。それは2人の人間だった。
 状況が良く把握出来ない者達も、その2人が酷く焦った様子なのだけは一目で見て取れた。
 大通りを真っ直ぐ凱門へと向かって駆けて行く2人に対し、向けられる好奇の眼差し。だが、彼等はそれに気付く様子も無く駆ける足並みも弛む事は無い。その視線は、唯ひたすら前に。


 後ろから聞こえる鎧同士がぶつかる音。初めは聞こえなかったその音が耳に届いた時、エリーザベトの心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
 それはエリーザベトだけではなく、その手を繋ぎ走っているメルツにも聞こえている筈で。だが、ただひたすら前を見、足を進めるメルツが振り返る様子は無い。
 それでも緊張しているのだろう。繋がれている手の平が、じんわりと汗をかいているのを感じる。
 離されてなるものかと言わんばかりに力を込めている手。痛い位のそれは、メルツの抱く想いと危機感を表しているようにも思えた。
 揺るぎないその後姿に頼もしさを感じながら、もしここで捕まってしまったらと思うと娘の胸中は穏やかではいられない。
 折角あれ程切望していた願いが叶い再会する事が出来たと言うのに、再び彼と引き裂かれるのは嫌だった。
 だが、もしここで捕まってしまったら、今度こそ永遠の別れが待っている事は明白で。メルツに至っては、ともすればその命さえ危ぶまれるだろう事は想像に難くない。
 このまま逃げ切りたいと思うのが本音ではあったが、もしそんな瞬間が訪れた時は、自らが犠牲となってもメルツを逃がしたい。約束を果たそうと会いに来てくれた。それだけで十分なのだから。
 エリーザベトは決意を胸に、メルツの手を握り返した。

 そんなエリーザベトの悲痛な決意を知ってか知らずか、メルツは前だけを見つめていた。


 迫り来る追っ手を何とか振り切り、2人は狭い路地裏へと身を滑り込ませた。そこは門から左程遠くはない場所にあり、慎重に周りを窺うメルツの視線の先には、遠目ながら一部の隙も無く閉じられている門扉が、はっきりと確認できた。どこかに抜ける隙間は無いものかと路地の奥の方へ視線を向けてみるも、そこはどうやら行き止まりになっているらしく、通り抜けるのは不可能のようだ。
 焦って動いても碌な事にはならないと頭では分かっていたが時間をかければ事態が好転するかといえば、それは有り得ないとしか言いようがない。
 だが、今すぐ何処かへ移動するのも不可能である事は、メルツ自身良く分かっていた。
 踵の高いヒールを履き、更には動き辛さには定評のあるウェディングドレスを纏ったまま走り続けていたエリーザベトは、メルツの腕に縋り激しく肩が上下している。
 少し考えれば判るのに、逃げる事に夢中でエリーザベトに対する配慮を失念していたメルツは彼女に対し申し訳なく思ったが、謝るより先にそれに気付いたエリーザベトに大丈夫だと言われてしまえば、言おうとした言葉は結局形にする事は出来なかった。
 このまま逃げ続ければ、彼女へ更なる負担を負わせる事になるのは自明の理であり、迷走すればするほどそれは大きくなっていく。ならばそうならない為にも、速やかにこの危機を脱する方法を見付けなくてはならない。メルツは何度も大通りと路地へ視線を転じながら、僅かな可能性も見逃すまいと目を凝らした。

 一方、そんなメルツの気遣いに気付いていたエリーザベトは、荒い息を必死に整えようとしながら、足枷になってしまっている今の現状を打破できる術はないかと必死に頭を巡らせていた。
 だが、どんなに考えたところで、2人が無事門の外へと脱出できる可能性は余りに少ない。
 エリーザベトの眼差しが、今はもう立派な青年へと成長を遂げたそのかんばせへと向けられた。
 生きていてくれただけで嬉しかったのに、彼は会いに来てくれた。
 夢に見たそのままの姿で、自分を迎えに来てくれたメルツ。聖堂の入り口にその姿を見止めた瞬間の胸の高鳴りは、今も尚治まっているとは言い難かった。それ程に、エリーザベトにとってメルツの存在は大きかった。
 そんなメルツが、自分のせいで危機に陥るかも知れない。そう考えただけで、エリーザベトは血の気が引いていくのを感じた。何とか彼を逃がす方法は無いのだろうか。そう思考を切り替えれば、まるで用意されていたように浮かぶ手段。
 諦める事に慣れてしまった思考は、この状況を打破する最も有効的な手段を即座に弾き出す。それはまるで、他人事のように。


 大通りを窺い見るメルツの意識をこちらに向けようと、エリーザベトは己を庇う様に回されている腕の袖をそっと引いて囁いた。

「どうしたの、エリー…」

 すぐに気が付いたメルツは振り返り、エリーザベトへ視線を向ける。呼びかけようとした声は、だがその視線と交差した瞬間中途半端で途切れてしまう。
 エリーザベトは何も言わず己を見つめるメルツの、昔から変わらない澄んだ瞳に目頭が熱くなるのを感じた。
 だが、感情の高ぶりのままに零れ落ちてしまいそうなそれを堪えやり過ごす。今それをするのが得策ではないと知っていたから。
 変わりにエリーザベトはとびきりの笑顔を浮かべた。それは、あの無為の時の中で浮かべていたものとは違う、メルツと共にある時浮かべていたもの。

「ありがとう。約束を守ってくれて」

 だからもう良いのだ、と。メルツが生きていて、己との約束を忘れずにいてくれた、それだけで十分なのだと。エリーザベトは今の気持ちを伝える。本当は、このまま2人で逃げ切れればどんなに良かった事かと思わないでもなかったが、メルツに迫る危険を考えれば、そんな我侭は言ってはならない。そう、最初の約束だって元はと言えば、己の我侭から派生したものなのだから、これ以上優しい彼を振り回してはならないのだと、エリーザベトは強く己を律する。

「エリーゼ、僕は…」
「私が出て行って、お兄様に謝ればきっと大丈夫だと思うの。メルは、兵が私に気を取られている間に逃げて」

 震えそうになる声を必死に張り何とか言い切ったものの、視線は徐々に地面へと向かう。虚勢を張るのは得意な筈なのに、あの城で培われてきたものはそれ位しかないのに、このままでは気付かれてしまう。彼は人の感情を察するのがとても上手かった。

「お兄様だっていくら何でも私の命までは取らないと思うし、彼だって―――っ」
「エリーゼ!」

 何とかメルツを安心させようと焦って並べていた言葉を遮られ、視界にメルツの服が飛び込んで来たと思えば、数瞬後、エリーザベトの身体はその腕の中にすっぽりと収まっていた。
 込められる腕の力は痛い位で、状況を上手く把握出来ずにいるエリーザベトに対し、メルツは離したくないと言わんばかりにいっかなその力が緩む事は無かった。

「エリーゼ。僕の事が嫌いになってそう言うんだったら、僕は大人しく身を引くよ。でも、それが僕の為を思って言ってくれているのなら、僕は君を離したくない」

 耳元に、メルツの声が落ちる。そこに込められた必死な様子がありありと判り、エリーザベトは自分と同じように己の存在を欲してくれているメルツの気持ちが嬉しくて、でもそれがどれほど困難な道のりなのかを冷静に囁く自分がどこかにいて、そんなぐちゃぐちゃな感情に、堪える事の出来なかった雫が頬を滑り落ちた。

「私だって、一緒にいたいわ。でも、どうやっても逃げられそうに無いのよ」

 震える声は、不安と悲しみを如実に表していて、メルツとてそれは同じであった。
 自分はこの街をまったく知らなくて、彼女は街の誰もが慕う聖女。今でこそ逃げるのは兵士達からだけだが、それだって相当大変であるというのに、更にそこに街の者達が加わればメルツには万に一つも勝ち目は無い。そんな事は重々承知の上で。
 それでも、彼女と再会しその手を取った時から、彼女との未来を諦めるなど無理なはなしだった。

 メルツは、己の腕の中に容易く収まってしまう程華奢なのに自分の事よりもメルツの身を案じ、自らを犠牲にしてまで己を護ろうとする彼女を護りたいと痛切に感じた。溢れる愛おしさは留まる事を知らず、彼女を置いて行く事など出来ない。
 2人の気持ちは、互いが互いを大切に想っているという点では同じであった。
 だが、メルツとエリーザベトとでは決定的な違いが一つある。エリーザベトはメルツを大切に想うからこそ自らを犠牲にする事を選び、メルツは逆に己を犠牲にするという考えは無かった。
 それは、彼が相手を気遣う優しさを持っていたからと言うのが一番しっくり来るだろうか。
 自分が犠牲になった結果、彼女を襲う悲しみをメルツは容易に想像できた。彼女が己を想ってくれているのが紛れも無い真実であるのだから。

「僕は、エリーゼがいなければ生きていけないんだ。だから、逃げ切れるまで大変だとは思うけど、それでも一緒にいたいと思ってくれるなら僕と一緒に行こう」

 緊張と共に告げると、僅かな逡巡の後、腕の中エリーザベトが頷くのを確かに感じた。同時にゆっくりと上げられた彼女の腕がメルツの背中にまわされる。
 確かな了承を受け取ったメルツの口元が、安心したように弛んだ。万が一にも有り得ないだろうが、もし拒絶されたらと思うとその胸中は穏やかでは無かったから。



「じゃあ、行くよ」
「ええ、一緒に」

 門は恐らく開かないだろう。ならば選ぶのはもう一つの手段。2人は互いに顔を見合わせる。お互い酷く緊張しているのがありありと分かり、何とか解れないかと浮かべた笑顔はどちらも引き攣ったものとなった。
 2人は互いに頷きあい、再び大通りへと足を踏み出した。しっかりと繋がれた手は、その絆の証だったのかもしれない。











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