硝子の靴を蹴飛ばして
両開きの扉が開いた瞬間、それまでさざめきの様に室内を満たしていた声が、唐突に形を潜めた。人々の視線が一斉に拝廊へと集まり、そこにいた人物の姿を見止めるなり、誰のものともつかぬ溜息が漏れ聞こえてきた。
人々の視線の先には、純白の衣装に身を包んだ聖女の姿があった。
選帝侯である父親の傍らに寄り添うように立ち、その細い手を差し出された腕に添えている。
どこか神聖な雰囲気を醸し出すその姿に、人々は息をするのも忘れて魅入っていた。
荘厳な雰囲気の薄暗い聖堂の中、花嫁の姿だけが光を纏っているように浮き上がっていたのだった。
花嫁が、一点の染みもない真白な道をゆっくりと進む毎に、ふくらみの無いドレスがまるでその身体に沿うように揺れ、一拍遅れて動く。ドレスの裾は後ろに長く流されていて、床に敷かれた布との摩擦で涼やかな音を落としていた。それはまるで道を更にその純白で清めているようにも見えた。肩のところで断ち切られた袖の代わりに、肘までを覆う手袋が嵌められていて。ドレスの白にも負けない白く滑らかな二の腕が、その間に垣間見えている。
しかし、身廊を進む花嫁の足取りは、重い。まるで自らが重罪人でもあるかのように、人々の視線から逃れるように視線を床へと落として。
そんな彼女の心情に気付く筈も無い民衆は、その姿を緊張の為と思い、美しさと慎ましやかさを兼ね備えた彼等の中の聖女の像に、益々心酔していくのだった。彼等は知らなかった。花嫁である娘が背筋を伸ばし凛と顔を上げている時の、誰よりも光り輝く美しさを。
「笑え」
娘とは違い、堂々と顔を上げ晴れ晴れとした笑みを口元に上らせ歩を進める選帝侯が、徐に口を開いた。
それは本当にささやかな音で、娘以外にその声を聞き取れた者はいなかっただろう。娘は、拒絶の意味も込めて益々顔を伏せた。笑いたくないのでは無い、笑えないのだ。
それなりの覚悟をしてこの場へと立った。それは諦めが多分に含まれたものであったが、それでも娘はそれを選んだ。愛されてはいないとは知っていても、彼に恥を掻かせるつもりも毛頭無い。だが、笑おうとしてもそれは引き攣ったものになるのは明白で、ともすれば泣き顔に変わるであろうそれを人前に晒す勇気も無い。
嬉しくて泣いているのだと、人々が好意的に解釈してくれれば問題は無いのかもしれないが、例えそうなったとしても己の心情を人前で露吐したいとは思わなかった。
しかし、それを知らない選帝侯は、この期に及んで反抗する娘に、忌々しげに舌打ちをした。それははっきりと聞こえてきたが、娘の心はそれに対し痛む事を忘れてしまったかのように静かなものだった。
選帝侯にとの間にある蟠りすら、もうどうでも良くなってしまっている。娘の傷付き過ぎた心は、もう既に絶望すら凌駕してしまっていたのかもしれない。
徐々に近付いてくる、娘にとっては断頭台にも等しき場所。其処に立ったが最期、人としての娘の心は死んでしまうのだ。愛など欠片も存在しない。僅かに感じていた友情だとて、相手がこの状況を受け入れた時点で霧散してしまった。愛の反対は無関心であるとは誰の言葉だったか。正に今、娘の中に相手に対する感情は存在していなかった。
あの時、ライン伯がこんな状況でも己と添い遂げる事が出来るのが嬉しいと言った時、頭を殴られたような衝撃を受けた。そして思ったのだ。裏切られた、と。それは娘が一方的に大切な彼の思い出を共用できる相手であると思い込んでいたのが悪いのだが、それでも娘の何よりも大事なものを踏み躙られた気がした。ライン伯がもし思い出を抱く娘に共感しなかったら、娘とてここまで傷付く事は無かっただろう。だが、ライン伯は娘の話を熱心に聞き、あまつさえそんな娘に理解を示すような態度を取った。娘も、相手に嘘偽りが無いと感じたからこそ友情を感じるまでに至ったのだ。
婚姻の儀の日取りが決まって以降も、ライン伯は相変わらず娘の話を熱心に聞く姿勢を見せたが、決まって最後に同じ言葉を添えるようになった。曰く「2人で彼との思い出を大切にしていこう」といった類のもの。
娘はその言葉に感動するどころか怒りを覚えた。久しぶりのその感情は、ともすれば何もかも壊してしまいたい衝動を、娘に齎した。だが爆発しそうだったそれは、結局一度も行動に移される事は無く、意識的にライン伯の声に耳を塞ぐだけに留まった。だが、彼との大事な思い出を欠片だって渡す気は無かった。それに関してのみ、己は何処までも貪欲であると、娘はつくづく感じたのだった。
そんな己の醜い心が顕現し、自らの身をその感情を抱くに相応しい姿へ変わる事があったなら。そうなれたら、誰もが思わず目を背けるようなおぞましい姿へと成り果てたのなら、もう誰も己を見ようとしないのだろう。兄とて、そんな娘を誰かに嫁がせよう等という気も起きなくなるだろうし、そうしたら朽ち果てる日を夢見ながら、独り心穏やかに逝けただろうか。
そんな淡い期待は、翼廊へと足を踏み入れた途端儚い夢と化した。そう、そんな事はありえない。だっていつだって過去を見る事しかせず浅ましく醜い心を持ち続けたにも関わらず、その心のままの変化は、とうとう訪れてはくれないまま、この場に立ってしまったのだから。
娘は僅かに俯いていた顔を上げ、目の前に立つライン伯が己を見ながら呆けたように目を見開き、次いで照れくさそうにはにかむのを、まるで他人事のように眺めていた。
促されるまま、選帝侯の元を離れライン伯の傍らへと移動する。まるで従順な人形にでもなってしまったようだ。選帝侯がそうしたのと同じように、今度はライン伯が腕を差し伸べる。その腕に触れるか触れないかの瞬間、ライン伯が熱の篭った眼差しを向けているのに気が付いた。
「綺麗だよ。とても」
心からの賛辞と蕩ける様な笑み。やはり駄目だ、娘は酷く落胆した気持ちでそっと彼から視線を逸らした。普通なら真っ直ぐな彼の言葉と眼差しに照れて頬の一つでも染めれれば上々なのだが、大好きな彼が「似合うよ」と言ってくれた時のように、心が沸き立つ気配は無い。恋する乙女を演じる事も出来なかった。
傍らにいる筈の存在が、酷く遠いものに感じた。これから誰よりも近しい関係になる相手なのに、親しみさえ沸いては来ない。
こんな風に世間を欺き、そして誰よりも自分に嘘を吐こうとしている自分を見たら、彼はどう思うのだろうか。2人揃ってこの場を取り仕切る神父の前に並び立ちその口上を聞きながら、そんな考えが娘の中で沸き起こった。
「この両名の結婚に異議あるものは、速やかに申し出よ。異議無き時は、永久に沈黙すべし」
水を打ったような沈黙が辺りに広がる。針の一つでも落とす音をさせれば、それを異議の申し立てと捉えられるのではないかと思っているように、人々は息を殺してじっと耐えている。
そんな中、別の意味で耐えている者がいた。
娘は叫びそうになるのを、意志の力で押し止める。そうしなければ、溢れ出す思いのまま言葉にしてしまいそうだった。私はこの結婚を望んではいないのだと、他に添い遂げたい人がいるのだと。
何度も浅い呼吸を繰り返し、何とか感情を落ち着けようと足掻いている内、神父が異議を唱えるものがいないのを確かめるようにゆっくりと聖堂内を見回すと、やがて次の文言へと移る為、再びその口を開こうとした、その時。
「異議あり!」
誰もが固唾を呑んで押し黙る空間に、その声は事の外良く響いた。
驚きに、娘の身体が跳ねる。まさかこの場で異議を唱える者がいるとは思いもしなかった。娘は咎められる行為である事も忘れ、思わず後ろを振り向き、声の主を探した。そして、
「メ、ル?」
逆光を受けて立つ、夢の中で見た姿そのままの彼が、そこにいた。
突然の闖入者に、咎める事も忘れ固まる周囲の人々を余所に、メルツは婚姻の儀が終わる前は親族が、儀式が終了した後は夫となった者のみが花嫁を連れて歩く事を許された真白き道を、靴音を高く響かせながら進む。その瞳にたった一人、彼女の姿を映しながら。
そんなメルツの足が震えている事実を、一体どれだけの者が気付いていただろうか。こんな大観衆の中、無粋にも踏み込んだのだから、本当は怖くて仕方が無い。それでも彼女の姿を見て、彼女が今正に他の誰かの伴侶となる儀式が行われているのに、口を出さずにはいられなかった。だからこそ、メルツは迷い無く彼女へと向かって歩を進めるのだ。
一方、そんなメルツを見止めた娘の思考は混乱の極みであった。死んだと聞かされた者が、しかも己が夢で見たままの姿で現れたのだ。そうなるのも仕方がない事だった。
本当にメルツであるかは欠片も疑う余地が無い。何故なら、頭ではなく魂が叫んでいた。彼は、己が生涯で唯一人、愛を捧げた相手と同一人物なのだ、と。
衝動のまま足を踏み出そうとした娘の前に、それを庇うように立つライン伯。メルツはその正面まで来て足を止め、探るように見つめてくる眼差しを受け止め、真っ直ぐに相手を見つめる。逸らす必要は無い。自分には疚しい気持ちは欠片も無く、あるのは唯一つ、彼女を心から求めているという気持ちだけだった。銅と蒼の眼差しが交差し、沈黙が辺りを支配した。
長く続くと思われたそれは、ライン伯が先に視線を逸らした事で終わりを告げた。
ライン伯は先程までの緊張は何処へやら、僅かに苦笑を漏らしながら振り返り、娘を見た。
「悔しいけれど、どうやら私の役目は終わってしまったみたいだね」
娘に向かって寂しげな微笑を向けると、身を引き娘の背をそっと前へと押し出した。娘とメルツの間を隔てるものは、もう存在しなかった。
メルツは未だ夢でも見ているかのように自分を見る娘に向かって、手を差し出した。
「迎えに来たよ、エリーゼ」
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