最も憂鬱な日






 通りには様々な屋台が所狭しと並び、店を冷やかしながら歩く人々は皆、笑顔を浮かべている。
 通りに面した家々の窓には色とりどりの布がかけられ、そこここで翻る2種類の旗は、今日のめでたき日を象徴してるかのように、風にその身を靡かせている。街は、この上も無い歓喜に沸いていた。

「お姫さま、けっこんするの?」

 無邪気に笑う子どもに、子どもの母親もまた嬉しそうに頷きで答える。

「そうよ、世界で一番綺麗な花嫁さんになるのよ」

 きっとお綺麗でしょうね。と、母親は王城の方へと眼差しを向ける。そのうっとりとした呟きに、子どもは益々目を輝かせるのだった。


 一方、城のとある一室では、朝から一部の隙も無く飾り立てられた花嫁が一人、部屋の中央に設えられた椅子に腰掛けていた。
 香油を擦り込み細かく編まれた髪は高い位置で纏められ、豪奢でありながら繊細な造りの、花嫁の髪色と似た、柔らかな金色のティアラが飾られている。身に纏うのは、なにものにも染まっていない純白のドレス。裾に施された細かな刺繍は、凡そ人の業とは思えぬ程で。耳朶を飾るのは大粒の真珠。そして、品位を失わぬ程度に開いた胸元にもまた、何連にも連なるそれが鎮座していた。俯く花嫁の顔に掛かるヴェールは、最高級のシルクで。質感を損なわない程度に入れられた刺繍は、花嫁の姿をなによりも美しく引き立てている。
 まるで御伽噺のお姫様もかくやと言わんばかりの姿は、さぞや見る者の心を奪うことだろう。
 しかし、間違いなく誰よりも美しい花嫁となった娘は、他の誰よりも暗く沈痛な面持ちで、今日という日を迎えたのだった。
 娘の美しさを引き立てるように施された化粧。ほんのりと色の乗せられた艶やかな唇からは、溜息ばかりが漏れていた。
 今にも泣きそうな、しかし泣くまいと自らを律するその姿は痛々しく、まるで刑の執行を待つ死刑囚のようだ。

 娘は顔を上げ、久方ぶりの格子越しではない空を見る。
 恋焦がれるような眼差し。その先にあるのは空、では無くあの幻のような夢の中、ほんの一瞬垣間見たかの人の姿。立派に成長した、かつて少年だった彼。それが結婚と言う現実から逃げ出したいが為、己が作り上げた願望だったのだという事は先刻承知ではあったが、一度合間見えた記憶は夢幻(ゆめまぼろし)であったとしても、己の中に強く刻み込まれている。
 それ故に考えてしまうのだ。何故、花嫁となった己を迎えるのが彼では無いのか、と。彼がもうこの世にいない事などは関係なく、現実を突き付けられる度に心が逃げ出し、辿り着くのはいつもそこだった。あからさまな現実逃避ではあったが、そうしないととても心が保ちそうに無かった。
 未だに夢を見ている自分を、兄はもう習慣のように哂い、詰る。
 娘は何を言われたところで既に何も感じなくなっていた。それどころか、己の諦めの悪さに自身を嘲笑う事も一度や二度ではない。

 余りに辛い現実に、いっそ彼と出逢わなければ良かったのだろうか。そう思った事もあった。
 この狂おしいまでの恋情を知らなければ、何の遺恨もなくザクセン家の、貴族の柵を厭う事もなく、今頃自分の立場を受け入れそれなりの幸せを見つけ、貴族の血に連なる者としての役目を果たせていたのだろうか。
 そうしたら兄も厭うのではなく、少しは自分を認めてくれ、それなりに『家族』になれていたのだろうか。そんな風に考えた事が確かにあった。
 でも―――

「それは、『私』じゃないわね…」

 その度に、娘は諦めにも似た吐息を漏らす。 
 今まで生きてきた時間が、それに連なる記憶があるからこそ今の自分があるのなら、それを経ていない自分は、もうまったく違う存在であると言える。
 どちらが幸せなのかなどという事は、考えるだけ無駄というもので。
 今の娘にとって彼は自らの生そのもので、それが無い自分は生きてさえいないのだから、己が己として在る以上、彼への想いはなくてはならないものではないのだろうか。
 詮無い事をと思いつつ、それでも燻り続けるその想いは、娘の心を益々縛り付けるばかりだった。

 ぼんやりとした眼差しの、視界の隅で揺れるベールに娘の意識が思考の淵から引き戻される。
 後数刻もせぬ内に、娘は今までの自分ではなくなってしまう。窮屈な鳥籠に押し込められ、満足に啼く事も叶わないのだろう。
 今までも、窮屈である事には変わりは無かった。だが、この鳥籠は、身体の自由こそ無かったが、心はいつでも自分のものだった。兄に何と言われようと、自らの思うまま、昔に想いを馳せる事が出来たのだから。
 でも、もうすぐそれも叶わなくなるのだろう。羽根を毟られ、唯一人の為だけに囀るものと成り果てた自分が、容易に想像できた。


 初めて兄からその存在を聞かされた時、何と物好きな人間もいたものだと、生きた屍に求婚するなど愚の極みだと、そう思っていた。
 命じられるまま手紙を書き、だがその内容は、求婚を受け入れる旨のものとは程遠く。
 冷たく、素気無い断りの言葉。心のままに書き連ねた唯一の想い人への想い。そんな手紙を寄越されれば、大抵の人間は呆れ、二度と求婚などする気が起きないだろう。そう思った。しかし、

『貴女が私を見てくれるまで、いつまでも待ちます』

 重ねての求婚と、贈り物。そこに添えられた一文。
 兄がやっと厄介払いが出来ると歓喜のままに言い募る中、娘は初めて理解できない人種に会ったなどと思っていた。
 言葉の通り、ライン伯は決して急かす事はしなかった。
 幾度か繰り返される手紙のやり取りは、いつも優しさに溢れていて。最初の求婚以来、婚姻について言及する内容の文は一切無く、自らが感じた綺麗なもの、楽しかった事などが書き連ねてあった。まるで友達のように他愛も無いやり取りの中、しかし娘が真の意味で惹かれる事は結局唯の一度も無かった。
 どんなに待ってくれても、例え一生掛かったとしても、己の心がライン伯へと向けられる事は無い。
 何故なら、ライン伯との手紙のやり取りをしている時も、何故手紙の相手が彼ではないのかと、そんな事ばかり考えていた。
 ライン伯と過ごす時間も、結局は彼と過ごした時間に思いを馳せる事に費やされて。
 ライン伯と向き合おうとしない娘を、兄は苦虫を噛み潰したような顔で見ていたが、対してライン伯は一度としてそんな娘の態度に不快感を示す事は無かった。寧ろ娘の思い出話を楽しそうに、羨ましそうに聞いていた。


 そんな友達のような関係に終止符が打たれたのは、兄の一言。いつまでも遅々として進展しない2人に業を煮やしたのか、裏で手を回し、婚姻の儀の準備を着々と整えていた。
 その事実を知った時、娘は自分がまったくそのような考えに至らなかった事実に、愕然とした。
 最初はあんなに頑なに拒絶していたにも拘らず、いつしかライン伯に対しある種の友情を感じていたのだと気が付いた、気が付かされた娘は、そんな兄の強引さに反発した。
 ライン伯にその種の感情を抱いてはいず、例えそれが誰であろうと、自身は誰にも嫁ぐつもりは無いのだと言う事を切々と訴えれば、兄はそんな娘の想いを鼻で笑い一蹴した。

『お前が何と言おうと、一度決められた事を覆せるほど、世間は甘くない。その程度の常識も知らぬとは。だからお前は愚かだと言うのだ』

 その後、何を言っても取り合ってくれる事は無かった。
 結局一度流れ始めてしまった時間を止める事は不可能で、娘とライン伯との婚姻は、両国は勿論の事、諸外国にも広く知らしめられる運びとなった。
 勿論そこに至る経緯には、兄の執念ともいえる根回しがあっての事だったのだが、そこまで自分は疎まれているのかと思うと、いっそ何か不測の事態が起こり、儚くなってしまえないものだろうかと模索してしまう自分がいた。
 自ら命を絶つ事が出来ないのなら、いっそ本物の聖人になれないだろうかと、そうすれば兄の面子も保たれるのではないだろうかと提案もしたのだが、兄はそれを、娘がこの事態から逃れたいが為だけに提案しているのだという事を見抜き、決して首を縦に振る事は無かった。
 その後の兄の行動は娘を塔に軟禁するに至り、いよいよ逃げ道を全て塞がれた娘は、それ以上抵抗する術を持たぬまま、今日この日を迎えてしまった。
 いっそ狂ってしまえれば、兄は体裁を気にして娘を外へなど出そうとも考えなくなるであろうに。娘は、彼を心に抱いているが故、そうなる事は無かった。
 鬱屈とした気分が晴れる様子は無く、娘は鏡越しに己の姿を見つめる。まるで見知らぬ者のように、傍目から見れば幸せな花嫁がそこにいた。しかし、どうあっても幸せとはほど遠い事は、娘自身、良く理解してた。
 扉越しに聞こえる複数の足音。どうやらもうすぐ娘にとって断罪の場と同等な、憂鬱な儀式が始まりを告げるらしい。
 娘は、僅かに身を震わせ、拳を握り、きつく唇を噛み締める。口の中に広がった鉄錆の味が、やけにはっきりと感じられた。











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