再会…と思いきや
途方に暮れたように、その場に立ち尽くす男、メルツの眼差しが向けられているのは、大切な少女が住んでいた屋敷。
楽しいと思う感情をくれた大切な少女との約束を果たすために―寧ろ彼女との思い出があったから、彼女への想いがあったからこそ、『イド』からの開放が果たされたのだ―やって来たのだが、既に人が住んでいる様子はない。
ずっと時間の感覚など必要の無い状態に身を置いていた為か、あれからどれ位の時が流れてしまったのか想像も付かないが、自分がもう青年と呼ばれてもおかしくない姿に成長している事を鑑みるに、可愛らしい彼女もまた妙齢の女性へと変貌を遂げていてもおかしくはない。
再会したならば何と言おうか。そんな事を考えながら、幼い時分の微かな記憶を頼りに何とか辿り着いたそこは、誰も住む者がいなくなった為なのだろう。廃墟と化した、かつて屋敷であったもの。
自分の考えの甘さに、メルツの口から自嘲的な笑みがこぼれる。
少女と別れてから何年も経っているのだろうに。いくらこんな片田舎に住んでいるとはいえ、彼女は貴族の娘。少し考えれば、分かることではないか。
実際、貴族社会というものがどんなものであるのかなど、身を以って知っている訳ではなかった。だが己自身、かつてはフォン・ルードウィングの名を冠していた。それに、幾度と無く高貴な身分と呼ばれる者達の復讐を手伝ってきた身。世間の常識と呼ばれるものくらい目にする機会もあったというもの。
彼女とて、既に嫁いでいてもおかしくは無い筈なのに。
そんな事すら頭を過ぎる事はなく、彼女なら、あの純粋な少女ならば、何時までも自分を待ってくれているのだと何故思ったのか。
心を吹き抜ける冷たい風。
痛い……いた…い……イ…タ……イ…………
ああ、己の中で何かが蠢いている。
それは体内を蹂躙し、やがて己という殻を突き破り外へと。そうなれば、再びこの身はあの闇の中へ堕ちていくのだろうか。
抜け出す事が出来たというのに。そんな己の努力を嘲笑うかのように、闇は何時だってすぐ傍にあるのかもしれない。
それなのに、指一本動かない。否、動かすことが出来ない。抗う気力すら、沸いて来なくて。今はないぬくもりに、自然と目頭が熱くなる。
あの時こうしていれば、もう少し早く真実に辿り着いていたら……それでも、どうにもならないことだったかも知れない。でも…
「あい、たい……」
ポツリと漏れた呟き。震える唇の振動に、目尻に溜まった雫が頬を滑り落ちる。
脳裏に浮かぶ最後の記憶は泣き顔だった。今でも鮮明に浮かぶそれに、でも本物ではないそれに、心がますます痛みを訴える。
己の不甲斐なさに沸きあがる怒りは、けれど次の瞬間には泡のように消えてしまう。
今の自分はただの抜け殻。追憶の中に身を沈め、流れ行く時を否定してただそこにあるだけ。
故にメルツは自分の考えの甘さと、余りに様変わりしてしまった屋敷の様相に、これからの事を考える余裕すらなく立ち尽くしていたのだ。
「誰か、そこにいるのですか?」
呆然としていた彼は近付いてきた気配に気付く事も出来なかった為、そう声をかけられて、文字通り口から心臓が飛び出しそうになった。
こんな森の中、しかも人が住まなくなって久しいだろうこの場所で、自分以外に人がいた事に驚き、メルツは慌てて涙を拭うと振り返る。
彼に声をかけたのは、初老といって差し支えない、一人の男性であった。
恐らくは旅の途中であると推察できる男性の身なりは、しかし薄汚れた印象はなくこざっぱりとしていて、片手にランプを下げてこちらに不審気な眼差しを向けている。
メルツは何と言ってこの場を切り抜けようかと思考を巡らせていたが、ふと男性にひっかかるものを感じ、その正体が掴めぬまま口を開きかけた状態で不躾に男性を凝視している。
自分を見るなりそのまま視線を動かすことなく固まっているメルツの様子に、困惑気に眉を寄せた男性は同じようにメルツを見返し、何かに気付いたようにはっと息を呑んだ。
「まさか……君は、メルツ君…かい?」
「えっ!?」
言い当てられた名に瞠目したメルツを前に、男性はだがその考えを打ち捨てるように首を振る。
「いや、そんな筈は。あの子は確か死んだ筈…」
顔を伏せ、痛ましげに呟く男性の姿に、正気に返ったメルツは慌てて口を開いた。
「いえ、その通りです。僕はメルツ・フォン・ルードウィングです」
焦った様子のメルツに、男性は「ああやはり」と言ったきり、酷く懐かしそうにメルツの顔を眺めている。
「立派になられましたな」
男性の声音には、過去への郷愁が滲み出ていて、メルツはそんな男性の事を思い出せないのが何だか申し訳なく、男性と目を合わせる事が出来ない。
「そういえば、どうして生きているのですか?と言うのも失礼な話ですが、確か風の噂で…」
不自然に言葉を切った男性の目が悲しそうに、痛ましげに歪んだので、メルツは笑おうとし、失敗した。
「はい、僕は運良く無事でしたが、母は…」
「そう、でしたか…」
悪い事を聞いてしまったと言うように口元を押さえる男性に、メルツは気にするな首を振ってみせる。
「もう、随分昔の話ですから。ただ、その所為も あってなのか、どうやら僕は記憶喪失だったようなのです」
真実とは違う、だが他にどう説明すれば良いのか分からず、曖昧な説明になってしまったが、男性は、その意味を飲み込むなり痛ましげに眉を顰めた。
「それは…」
母を無くした上に、その記憶まで無くしてしまうなど、運が悪いなどという簡単な言葉では済まされない不幸に、男性は言葉を無くしてしまう。
「でも少しずつではありますが、思い出せるようになってきたので、気にしないで下さい。ただ…」
戸惑いの眼差しを向けるメルツに、そこに含まれているものを感じ取った男性は、ああ、と声を漏らした。
「そうでしたか。なに、私もこんなに老いさらばえてしまいましたから、気付かないのも無理の無い事、お気になさらずに。私はワルターです。ソフィ奥様やエリーザベトお嬢様に仕えさせていただいていた、ワルターですよ」
その名は、メルツにとって忘れてはならない一人であった。
「ワルター…さん?え!?あ、僕、ごめんなさい!」
酷くあせった様子のメルツ。男性、ワルターはそこに昔の幼い少年の面影が重なったように見え、ふっと頬を綻ばせた。
「最初に申し上げましたでしょう。お気になさる事はないのですよ。それより、何故ここに?」
ワルターの眼差しが何かを探るような色を帯びたのを感じ、メルツの背筋が無意識に伸びる。
ワルターの疑問は尤もであり、背後の屋敷の状態から鑑みるに、メルツの存在は厄介と認識されていてもおかしくはない。それでも、今更どの面下げてと詰られても、例え会話を交わす事すら儘なら無くても良い、一目会いたいと思う気持ちを分かってもらいたい。だからこそ、メルツはワルターの視線を真っ直ぐに受け止める。
「僕は…約束を、果たしに来ました」
「……」
「今更と思うのも当然でしょう。僕だって逆の立場ならそう思ったかもしれない。唯の我侭でしかない事も十分承知しています。それでも叶うなら、一目だけで良い。会いたいのです。そうしないと、僕はもう一歩も歩けないのです」
必死になってしまうのは無理からぬ事。彼にとって彼女は唯一の光であったから。
ワルターは、ともすれば泣き出しそうなメルツの表情に、不安げに揺れていながらも必死に訴えかけてくる眼差しに、とうに忘れて久しい悲しみや怒りといった負の感情以外のものが揺さぶられるのを感じた。
「お時間が宜しいようでしたら、少しこの老人に付き合っていただけますか?」
「え?は、はい」
「では…」
ワルターはランプの光量を確認すると、屋敷に背を向け歩き出した。その口元に、穏やかな笑みを宿して。
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