そして少女は顔を上げる






 何度見ても清々しい位に晴れ渡った空。しかし娘の心はどんよりと曇り、正に正反対といっても過言ではない。
 だが、そんな事は然したる問題ではないとでも言うように、早朝から娘の部屋へとやってきた見覚えのない者たちは、淡々と自らの仕事をこなしている。
 誰一人として口を開く事無く続けられる行為は、娘の中に初めてこの城にやってきた、自分が「フォン・ザクセン」となった日の事を思い起させた。



『お迎えにあがりました』

 彼と入れ替わるようにやって来た見知らぬ男達の手によって、少女は鳥籠から有無を言わさず連れ出された。
 男達は言葉こそ丁寧であったが、少女や、まして少女の母の意志を気にかけてなどくれず。まるで荷物か何かのように馬車へと押し込まれ、一人連れてこられたのは見た事もない立派な城。豪奢でありながら重厚な作りの城壁は、見上げる少女を拒絶しているかのようで。
 外からの侵入者を許さない、恐らく鉄製であろう門は、戸惑う少女の目の前でゆっくりとその口を開いた。
 完全に開いた門を両脇にたった男達の手によって半ば強制的にくぐらされながら、少女は巨大な怪物の顎門(あぎと)に自ら飛び込もうとしてるような錯覚を覚えた。


 城の一角にある部屋の中に放り込まれた少女は、そこに控えていた侍女達に囲まれた。
 何故このような事態になっているのか分からず、咄嗟に抵抗してみるも多勢に無勢、少女はあっという間に着ていたドレスを剥ぎ取られ、隣室に用意されていた浴槽の中へ。
 少女とて貴族の身分。人の手による湯浴みなど、それこそ物心がついた時から、いや、生まれた時分より行われているが故、慣れている筈のものであった。
 しかし、この侍女達はいつも世話をしてくれる者達ではなく、しかもここは慣れ親しんだ屋敷ではない。
 見ず知らずの者達から施される馴れている筈の行為がこんなにも恐ろしいものである事を、少女は初めて知った。
 何故このような扱いをされるのか、何度も何度も周りの者に問いかける声に、しかし反応が返って来る事はなく、それが少女の精神を徐々に疲弊させていった。
 少女の心情を他所に、侍女達は淡々と少女の支度を整えていく。
 湯浴みから始まり、窮屈な下着、着た事もない上等なドレス、それに合わせた靴や装飾品、そして初めての化粧。
 大人への一歩とも取れるそれは、普段の少女ならば興味も持てたかもしれない。しかし、今の少女にそんな余裕はある筈もなかった。
 全ての作業が終わった時、少女はもう立っているのがやっとで。精神的な疲労は少女から気力というものを根こそぎ奪い去ってしまっていた。

 結果的には、それで良かったのかもしれない。

 少女が最終的に辿り着いたのは、謁見の間と呼ばれる場所。
 少女に向けられる不躾な視線に、だが少女はその時点で精も根も尽き果てていた為、碌に相手を見返す事も出来なかった。
 それを、恐らくは従順な態度と取ったのだろう。相手は―後にそれが自分の兄だと知ったのだが―少女が反応しないにも関わらず、一方的に話を進めていく。
 そうして結局は一度も言葉を発する事無く終わった初めての対面で、少女はもう二度とあの優しい鳥籠に戻れない事を悟り、逃れられない運命を呪った。

 そのたった一回の面会で、実の兄が己に対し良い感情を持っていない事は思い知らされた。
 生き別れになっていた妹との再会の場だというのに、欠片も優しさのない物言いと冷ややかな視線。どんなに鈍い人間であろうと気付かぬ筈がないあからさまな態度。初めこそそんな兄の態度に恐怖や悲しみを抱いたものだが、人間とは慣れる生き物であり、何度かそんな兄と対面している内に、何故そんなにも憎まれなくてはならないのかと考えるようになった。

 数日に一度設けられていた兄とのお茶の席で、少女は思い切って聞いた事がある。
 何故、そんなに憎んでいる自分を引き取ったのか、と。
 初めてまともに口を開いた少女に、少女の兄は僅かに目を見開き、直ぐに鼻を鳴らして目を眇めた。
 曰く、仕方が無かったのだと。
 確かに死んだ筈の娘が、テューリンゲンの魔女の手によって現世へと舞い戻り、深い森の中、隠れるように生きている。そう報告を受けた時、真っ先に考えたのはもう一度、他の誰にも知られない内に黄泉へと送り返すという、有体に言えば暗殺という手段だった。少女の兄はそうはっきりと言い放った。
 何の感情も込められていない声色に、少女は無意識の内に膝の上に置いた手を固く握った。
 だが、結果的に少女は生きてここにいた。それは兄がその手段を講じなかったという事で。少女はそこに至るまでの兄の考えが知りたくて、視線を逸らす事無く言葉の続きを待った。
 だが、そんな少女の態度が気に入らなかったのか、不機嫌に拍車がかかった兄は次々と辛辣な言葉を吐き出した。
 一度は黄泉路を渡ったとは言え、紛れも無く正統な血を持つ少女を殺めても良いものかという忠臣達の進言により、結局はその手段を講じれなかった事。
 その血の正当性が故、利用される事が無いようにする為には、手元に引き取るしか道が無かった事。
 母親は出奔した時点で排斥されており、既に亡きに等しい存在となっていた。そして少女もまた、その死は正式に民へと流布されており、名を刻んだ墓碑も存在している。そのような理由から、少女を妹としてではなく外腹の娘として引き取った事。
 仕方なく引き取ったが、母親を許すつもりは無いし、況してや少女を認め愛しむ気は欠片も無い事。
 淡々と語られる事実と、そこに含まれている兄の抱く感情に、少女は埋められない溝を思い知らされた。
 その後は、何を聞き何を思ったのかはよく覚えていない。唯、刺々しい空気に苛まれながら、心の中で必死に彼の名を呼び、助けを求め続けた事だけは覚えていた。

 どのようにして戻って来たのか、少女は部屋に戻るなりベッドへと駆け寄りその身を沈めた。ドレスが皺になると教育係の男爵夫人に叱られるので普段は気を付けているのだが、今の少女にそんな余裕は無い。
 枕に顔を押し付ければ、堪えきれず溢れてくる涙が僅かな熱を持って布地に染みていく。
 止まらない涙、痛みを訴える心に、兄である男に対して期待していた事に気付き、またそれがまったく見当違いであった事を思い知らされた。
 それから娘は兄に対して期待することは止めた。それが、兄にとっても己にとっても最良なのだと、身を以って学んだのだ。



 娘を一人の貴婦人へと仕立て上げた者達が、その役目を終え、形だけの儀礼を示し立ち去って行く。
 娘はそんな者達に感情の無い眼差しを向け見送ると、深々と溜息を洩らした。次いで酷く重い足取りでベッドへと足を向け、身に纏うドレスが乱れないよう気を付けながら腰を下ろす。本当はそんな事を気にするのも億劫だったのだが、ここでドレスを乱してしまえば、再びあの拷問のような時間がやってくるので、それだけは避けたかった。
 それでなくともこれから行われる兄とのひと時を思うと、暗澹たる気持ちが重く圧し掛かってくるのだ。これ以上鬱屈となるのは避けたいところだ。

 娘は俯き、悄然と肩を落とした。
 何度言葉を交わしたところで、己と兄の意思は分かたれたままで。いつまで経っても変わる事の無い平行線は、己も勿論の事兄の精神をも疲弊させているのがありありと分かった。
 それなのに、何故娘の兄は定期的に娘との会話の場を持とうとするのだろうか。
 それが形だけでも家族となろうと努力しているのであれば、娘も少しは救われていたのかもしれない。しかし現実はそうではなく、娘に対する兄の態度は軟化する事は無かった。
 元々人の心の機微に聡い娘は、ある時気が付いてしまった。兄が娘と相対する時間を設けていた理由。それが確認していたのだという事に。
 兄は、いつまでも癒える事のない、娘とその母親に対する憎しみを確かめ、そして常にそれを娘に突き付け続けていた。
 少女を見る、男の冷え冷えとした眼差しには、お前さえいなければという思いがありありと浮かんでいて。
 そしてその度に娘は心に抱いた彼に助けを求め、勘が良い兄はそれに気付いて益々機嫌を損なうのだった。
 兄は殊更彼の存在を毛嫌いしている。彼と出会った事で娘の中に芽生えた恋情を、下らないと吐き捨てて。
『死に損ないの娘が、魔女の子に恋心を抱くなど、笑い話にもならんわ。それに、母上が何と言って縋ったのかは知らんが。お前を生き返らせる等という愚かな事をしおって。どんなに賢女と称えられていようと、所詮は愚かな女でしかなかったという事か』
 娘自身の事ばかりでなく、兄はしばしば彼や、彼の母親についても忌々しそうに語った。
 娘は反論しようと試みるのだが、いつも悉く論破され、叩きのめされる。いつしか、兄とまともに会話する気さえ無くなっていた。
 だが、彼を悪く言う兄の言葉に傷付かないでいられるほど、強くは無かった。
 涙を流すまいと唇を噛み、兄が立ち去るのを唯ひたすら我慢する娘は、何度この身を消し去ってしまいたいと思ったことか。
 

 そろそろ迎えが来るだろうか。
 娘は一度、目を閉じると己を落ち着かせるようにゆっくりと深呼吸をする。
 ここはあの森ではない。かといって、娘を守る鳥籠でもない。ここは、無機質な石で覆われた、己を閉じ込めるための牢獄。
 娘は、気力を振り絞りベッドから立ち上がると、窓際へと向かう。
 今日は朝からあの者達がいた為、小さな友人に会う事は出来なかった。


 狭い窓から空を見上げれば、憎らしいくらい晴れ渡った空の下、自由に飛び回る鳥達の姿。

 私は鳥なの。空を飛べない、唯鳥籠の中から自由に飛び回る鳥達に羨望の眼差しを向けるだけの。
 いつか貴方の元に飛んでいける事を願い、それでも恐らく貴方に会う事はないのだと知っていながら、日々を無為に過ごしている愚かな。
 気丈に振舞えば生意気だと言われ、かといって静かにしていれば面白みのないと言われ。
 誰かの手の平に乗せられ、そうしなければ鳴く事すら叶わない。他の誰から見たってそれは違うと言われるでしょうけど。
 それでも私自身がそれを選んだのだから、私は紛れもない鳥なのよ。











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