新たな目覚め






 意識を引き戻される感覚に、男は夢の終わりを悟り、瞼を上げた。
 どこか焦点の合っていない眼差し。ぼんやりとした様子から、男の意識はまだ完全に醒めてはいないようだ。
 意識を失っていた間に居た、夢なのか現実なのか良く分からない酷く曖昧な世界。闇一色の中、堕ちてくる魂を待つでも無く、どこかに向かっていた。珍しく、自らの足で歌姫の元へ。
 男はゆっくりと立ち上がると、辺りへ視線を巡らせる。
 見覚えのあるそこは、意識を失う寸前まで居た場所であろう。移動した記憶が無いのだから、間違いない筈。なのだが、男はどこかちぐはぐな印象を受けた。その正体は分からない。また、正体に気付く為の材料も無い。
 男が足元に視線を落とせば、そこここに、見慣れた血色の野薔薇が咲いている。
 さほど広くは無い範囲に蔓を伸ばした野薔薇は古井戸の側面に絡みつき、まるで血飛沫のように転々と花を咲かせている。
 黒ずんだその色は薄暗い森の闇に重く沈んでいた。

チャリ―――

 花に触れようと腕を伸ばした拍子に、鎖が鳴る。
 男は服のあちこちから覗いている鎖に視線を落とし、次いで森の木々を見た。
 いつでも薄暗い森の只中、木々は黒い影を纏い佇んでいる。時折伸ばした枝葉が風に撫でられざわざわと音を奏でていた。
 鎖の音、風の音、木の音、そして自身の音。
 屍揮者は生きながらにして死んでいる存在。それでも、今ここに存在しているという事実が、現実に在るという事が、音としてその存在を表している。それは心臓が動いて、それによって奏でられる脈動という名の音ではなく、そこにある事によって周囲へ与えた影響が音になっているに過ぎなかったが、それでも今この瞬間、ここに存在している証になっているのは事実だった。
 己の存在についてなど、こうなってから一度も考えた事はなかった。寧ろ、何故今こんな事を考えているのかが不思議だった。
 唯淡々と役目をこなすだけの日々、こんな事は考える必要もなかったのに。
 男は己の思考に疑問を抱きながら、改めて野薔薇へと視線を落とした。さして大きくも無い野薔薇、血色の花弁、周囲に伸びた弦。
その存在を確かめるように視線で辿って行くと、辿り着く井戸。そこで男はある事に気が付いた。
 てっきり野薔薇は弦を伸ばしたがゆえ、井戸に絡み付いているのだと思っていた。だが、よくよく見ると、起点は寧ろ井戸の周りである事が分かる。
 それは井戸の周りを囲んでいて、綺麗に円を描いている。それは、この野薔薇が自然に生えたものではなく、誰かが手ずから植えたものだという事を示していて。一体誰がこのような人気の無い場所に。そんな疑問が頭を擡げた。
 下草を踏みしめ井戸の傍へ。伸ばした指先は今度こそ、花弁に触れる。
 まるで全てを拒絶しているかのようにひんやりとした花弁。撫でるように指を滑らせれば、ベルベットもかくやと言わんばかりの滑らかな手触り。
 随分と懐かしい感触。何時の事だったか、幾度と無くこの感触に触れる機会があったような気がする。
 それが一体いつの事であったのかなど説明できる筈も無かったが、男の胸に去来したこの感情は、容易に消え去る様子も見せなかった。
 そういえば、あの世界から弾き出されるほんの一瞬前、闇ではないまったく逆の白を見た―――ような気がした。
 それは、儚い幻のように揺らぎ、だが酷く心を掻き乱されたような気がする。あれは一体何だというのだろうか。
 男は夢の余韻が残っているかのように僅かに痛みを訴える胸に、そっと手を当てた。
 この感情と、あの時の感覚はどこか似ているような気がする。
 痛みと悲しみ、だがその中に酷く甘やかな物が混じっているこれは一体何なのだろう。考えてみても、まるで思考に蓋がしてあるかのように、まったく纏まらない。誰かに助けを求めるように、困惑気に辺りを見回す男の眼差しは、迷子の子供の様に見えた。
 そんな男の瞳が、野薔薇の中に埋もれている片割れの人形の姿を捉えた時、平素の冷静さはどこへやら、酷く慌てた様子で人形の元へと駆け寄だした。踏み荒らされる野薔薇も意識に上っていないのか、視線は唯ひたすらに人形へと向けられている。
 人形の傍らに膝を付いた男は、それまでの取り乱しようは何処へやら、殊更ゆっくりと手を伸ばした。しかし、指先が僅かに揺れているのを鑑みるに、心情は冷静とは程遠いようで。
 何かを恐れているのか、幾度かの躊躇いの後、やっと人形の身体を抱き上げた。
 その瞬間、人形の瞼が音を立てて開き、青色のガラス球に男の姿が映る。

「っ…」

 男が何事か声を上げようと口を開き、しかしか細い音が漏れるに留まっていると、人形は、一度ゆっくりと、まるで悲しんでいるかのように瞼を伏せ、しかし直ぐにはっきりと意志を持って男を見上げた。

『メル』

 人形から聞こえてきた普段とはまったく異なる落ち着いた声。男の肩が面白い位に跳ねる。

「かあ、さま?」

 驚愕に見開かれた瞳は、信じられないものを見ているかのようだ。

『やはり、記憶が戻ってきているのね』

 男に対し、人形は哀を滲ませた声を上げる。

「何故?母さま。どうして、何?」

 混乱しているのだろう要領を得ない様子の男。人形はその小さな手を男の頬へと添えた。

『メル、よくお聞きなさい。私はもう貴方の母ではない。そんな資格は無いの。私の闇がイドを呼び、貴方をこんな風に作り変えてしまった。ごめんなさい、ごめんなさいメル』

 涙を持たない人形。それでも男の目には、人形が悲しみ涙を流しているように見えた。

「そんな事、母さまは母さまです」

 久方ぶりに会い見えた母が悲しんでいる様子なのが嫌なのか、男は必死に言い募る。だが、母である人形は、きっぱりと首を振った。

『いいえ、私が憎しみに囚われなかったら、貴方がこんな姿になる事は、屍揮者になる事は無かったの。それに、この子も闇に染まる事は無かった』

 人形の手が、そっと自身の胸に手を当てる。男は混乱した頭の中、それでも不思議に思った事があった。

「そういえば、何故母さまはエリーなのですか?」

 それは本来の人形の名。男が人形を本当の名で呼んだ。それは、偽りの仮面が剥がれた瞬間でもあった。











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