短編小説 | ナノ

▽ Nuit de Naples

1

早朝。同室で未だ眠りこける師を起こすことなく部屋を出る。
老体の癖に寝坊助な祖父を起こすのが日々の慣行の一つであるが、一日位はすっぽかしても問題はないだろう。何より今日は休日を貰っているのだから。
そんな言い訳を頭に浮かべながら、外へ向かう。手の内に握った小瓶と共に。

高々と此方を見下ろす木立の下を進みつつ、うっかり鍛錬中のユウに遭遇して機嫌を損ねないように道筋を選ぶ。
陽光を遮っていた木々が避けるように開けた空間に辿り着くと、周りよりも一層背の高く太い樹の許に腰掛けた。
掌を開き、大人しく収まっていた小瓶を掲げる。陽射しが透けて透き通る薄い橙が煌めく。
――別に、期待してる訳じゃない。
明らかに思い浮かべた言葉の真逆の行動を取っている癖に、往生際の悪い否定を中の液体に向けた。

2

……昨日終えたばかりの任務の際、アクマの攻撃から救ったのが調香師だった。
巷では有名な人物らしく、且つ随分太っ腹な気性の男で、彼は是非命の恩人に何か礼をしたいと願い出た。勿論断ったが、それならば未だ世に出す前の一級品にして渾身の出来である商品を受け取って欲しいと手渡されたのが、この小瓶だった。

十八年の歳月で自ら香水を身に付けた事はない。自分には必要のない物だという認識が強かったから興味がなかったのだ。旅先で勧められたり貰うことはしばしばあったが、その全ては破棄してきた。
身嗜みの一つだとか香りを楽しむだとか魅力の表現の一つだとか、人それぞれに身に付ける意図があるのだろうが、オレがこれまでに接触してきた香水という物は、総じて性的な主張の意味合いが強かった。
下世話な話、自分自身はそんなものをつけなくても寄ってくるものは寄ってくる。何なら相手の匂いがいつの間にか擦り付けられているので、香りを味わうならそれで十分だった。
そんな偏見と、隠密行動が多い身に匂いを纏うだなんて索敵の格好な的になりかねない危険性を鑑みれば、煙草の臭いが染み付いている方がまだましな気がした。

そんな意見を今まで曲げることなく生きてきたというのに。
馬鹿な自分は魔術師のような男の口車にまんまと乗せられてしまったのだ。
あの調香師は随分と押しが強く、香水を無理にオレの掌に乗せたが、それでも突き返そうとすると上品に頬笑んでこう言った。
「貴方の恋人は、オレンジやベルガモット、バラの香りは苦手ですか?」
「……香りは魔法です。この香りは、その方を更に貴方の虜にしてみせるでしょう」

3

その言葉を信じている訳じゃない。そういう訳じゃないが……。
餌を待っている犬のように朝からそわそわと急いて期待を胸中に染めつつある自分を嘲笑する。
――めちゃくちゃ期待してんじゃねェか。

朝からこの場所に来たのは彼女が訪れる時機を狙ってのことだし、なんなら朝からジジイを起こさなかったのは寝起きの一吸いの臭いをこの身に浴びないようにする為だ。しっかり香水を忘れず握りしめて来ておきながら、言い訳も甚だしい。
極め付けとしては、こんな気分でいながら香水を付けるのを今更躊躇っているのだから、ため息が出る。
あの調香師は随分と自信ありげに「虜にしてみせる」だなんて言ってのけたが、彼女が気に入るかどうかがあの男に分ってたまるかという気が起きてきたからだ。
もしもオレに近づいた途端、彼女が怪訝な顔をしたら。そんな深慮がつい今になって広がり始めていた。

――やめた。盛ってると思われてもなんだし。朝飯でも食いに行くか。
そうして立ち上がって歩き出した時、木々の先から緩やかに揺れる秋らしい色味の裾らしきものが一瞬見えた。ゆっくりと歩きながらそちらへ向かうと、今は未だ遭遇したくはなかった姿が現れた。
「見つけた。ラビ!おはよう」
しかし、普段のこの時間なら動きやすい鍛錬用の服を着ている筈なのに、今の彼女が纏っているのは、上品な形と丈のワンピースだった。

「……よお。アリス。朝の鍛錬は休み?」
「ううん。ユウがご機嫌斜めでね。すぐ終わっちゃったから着替えてきたの」
機嫌の悪いユウとの鍛錬なんて自分なら想像もしたくない。獣を威殺せそうな気配を湛えた人間と少し前まで剣を交えていたとは思えない位、彼女は一日の始まりらしく清々しい笑みを浮かべている。
その清艶な微笑みが内包する感情も、わざわざ服を変えてまで此処にやって来た理由も、聞くのは野暮だろう。

「……あのね。一つお願い。もうちょっとだけ、ここで休憩していかない?」
本人が意図しているのか。彼女だからこそ、この目にそう映るのかは分からないが、上目に可愛らしく訴えられて断れるはずがない。大人しく先ほどまで居座っていた場所に戻ったのだった。

4

隣り合って座る彼女との距離はいつも通り、腕と肩が触れそうで触れない距離だ。
もしかしたらオレを探して歩き回っていたのだろうか。空を仰いで細く息を吐いた彼女を見下ろす。

今日は互いに休息を与えられている。だから朝食を終えたらこの一日だけ、ゆっくりと過ごそうと約束をしていた。
落ち合う予定の時刻にはまだ早いというのに、こうして朝から二人だけの時間が出来上がった。それはつまり二人揃ってすぐにでも相手に会いたくて仕方がなかったという結果だ。
そう思い始めると、傍の小さな姿体がどうしようもなく愛おしくて堪らない。
柔らかな髪が、白い滑らかな肌が、仄かに色付く口唇が、触れたくなるように煽り立てているのだと錯覚さえする。これでは「虜」になっているのはオレの方だ。
……けれども、反対に彼女にこんな感情を抱かせたら。その時この清廉な眼差しはどんな風に欲を宿すのか。
諦めたばかりだというのに、気付けば小瓶に手を伸ばそうとしてる自分がいた。

「……あれ?」
唐突にそう言ったアリスはこちらを見上げる。そして目が合うや否や、何かに気付いたように口を僅かに尖らせながら此方に体を傾けた。
淫靡な思惑に気付かれたのだろうか。平然を取り繕って、反対に彼女の疑問を窺う。
「今日は……煙草のにおい、しないんだね」
思わず肩が震えそうになるが、押し留めて「ジジイ禁煙でもしたんかね」と誤魔化した。しかし、彼女の視線は納得していない。お見通しだと言わんばかりに悪戯っぽく笑みを浮かべていた。
「何か隠してる顔だね?」
こうなったらしらを切っても無駄だ。無理やり隠し通そうとして余計な憂慮を彼女に抱かせたくはないので、観念してポケットにしまい込んでいた小瓶を取り出して、彼女に手渡した。

「香水?」
アリスはまるで初めて見る物を眺めるように瞳を輝かせながら見つめている。そしてオレが先刻そうしたように光にかざして「きれいだね」と楽しげに観察していた。
「これ、どうしたの?」
「貰った。……この前アレンに煙草臭いって文句言われてさ。アリスにも臭いって思われてたら嫌だったし丁度良いなーと思って」
最もらしい嘘で下心を隠す。恐らくこの程度なら彼女には気付かれない。

「気にしなくても良いと思うけどなぁ。私は君の匂い、好きだよ」
思いも寄らない言葉だったので聞き違えたのかと目を瞬かせた。
「会ってすぐは煙草のにおいが残ってるけど……一緒にいるうちに少しずつ薄くなっていって、一番近くになった時、やっと君の匂いが見つかるの。それが好き」
相変わらず衒いもなく不思議な事を言う彼女に自然と笑みが出る。
一言もそうとは言っていないが、まるで、いつも懸命にオレを求めているのだと言ってくれているように都合良く聞こえたからだ。

アリスは小瓶を返しながら「ね。折角だから新しい君の香り、試してみて」と顔を覗き込んでくる。
その眼差しは純粋な好奇心と期待に満ちて、あどけなく煌めいている。首を縦に振る以外の選択は自分自身が許さないだろう。

5

彼女の熱い視線を受けながら、小瓶を開けて一滴だけ指先に落とす。
調香師は手首や耳の後ろなど、体温が高い場所につけるのがいいだなんて言っていた。軽く手首に付けて、両方の腕を合わせて雫を馴染ませる。
しかし僅かに指先の湿りが残っていた。耳の後ろは匂いに酔いそうな気がしたので頸に付けておいた。
仄かに柑橘の香りがかすめる。調香師の言っていた「オレンジ」とはこの匂いだろうか。その果物の香り以外にも何かが混ざっているようだが、よく分からない。けれども爽やかで軽やかな、この森の中の景観が似合う心地よい香りだった。

「……どう?」
「さっぱりしてて案外いいかも知んねェさ」
そう言いながらアリスに向けて手首を差し出すが、彼女はそれを通り越して首筋に顔を近づけた。
「本当だ。君に合ってるみたい」
小声で呟く息がくすぐったい。小さく笑って身動いだ隙に、するりと彼女は隣から正面に移動して、そのままオレの体の中心にぴったりと収まった。
頬に彼女の柔らかな髪が触れる。つい先程まで滞留していた香水の香りに、花を想起させる彼女の髪の淡い匂いが交じった。
扇情される欲を宥めるように彼女の背に手を回し、緩く抱く。

「随分大胆な嗅ぎ方すんだなー」
「ここが一番良い香りがするかなって思ったの」
随分気に入ったのか興味深いのか、彼女は首筋に顔を埋めて動かない。言葉を交わして気を紛らわそうとしても、いよいよこっちの辛抱が持たなくなりそうだ。肩に手を添え直して軽く互いの体を離した。
「それはいいけど、ちょっとはオレの気持ちも考えてくんない?」
押し離されて名残惜しがる面持ちの彼女にそう伝えると、疑問を表情に浮かべながら首を傾げて「ラビの気持ちって?」と純粋な瞳を向けてくる。
「言ってもわかんねェよなぁ」

大体予想はしていたものの、ため息混じりに零し、彼女の頬に手を添えた。
拒否する気配がなかったのでそのまま顔を近づけ、彼女の柔らかい口唇を押し潰さないように自分のそれで軽く触れる。
探るように二度、三度と触れ合わせると、今度は彼女から近づき触れて来た。腰に腕を回して逃げられないように抱き、食むように重ね合わせる。遠慮なく彼女の口内に舌先を潜り込ませ、濡つもの同士を絡ませたいと誘う。控えめに応じる彼女に合わせて優しく交わった。
徐々に激しさを増すに連れ、唇が離れる間に凄艶な吐息で息を継ごうとするのを追い掛けて塞ぐ。

そんな口元だけの触れ合いを堪能しながら、頬に添えていた手を緩く舌を這わせるように首筋に滑らせ、指先で頸をくすぐった。アリスは甘えるように喉を鳴らして笑う。
そして腕の中で身動ぐ度、自分に付けた香りが甘さを含んで香り立つ。熱を潜めた体を抱き締めると髪に残る香りではなく、彼女自身の匂いを感じた。
自分の肌の匂いを乗せた香水が、彼女の肌が持つ芳しい匂いと交わったら。一体どんな香りが出来上がるのだろう。
馥郁たる香りに包まれて微睡む午後を迎えた時、彼女はどんな表情で、どんな眼差しを向けるのだろう。
それを確かめたくて仕方がない。
昂りを押さえつけながら、平然を貼り付けて、彼女の目を覗き込む。

6

「分かってくれましたか」
「やりすぎ、だけど。分かった……かも」
彼女は顔を赤らめて恥ずかしそうに囁きながらも、何故か再びオレに向かって体を傾けて来たので、やんわりと制止する。
「ちょっと待て。全然分かってないだろ」
「そんなことないよ。でも。ここじゃなきゃこうして君の近くにいられないでしょ?」
「……だから今の内に君の香りを分けてもらって、部屋に持って帰ろうと思ったんだ」
言っていることは可愛らしいが、どうも彼女は鈍い。

「オレの事は連れて帰ってくんねーの?」
今日は共に過ごすと約束をしてるというのに。それどころか、今すぐにだって誰よりも近くで通じ合える仲だというのにも関わらず、どこか鈍感でずれている彼女の思考に対し不満を表に出した。
すると彼女は「その考えはなかった!」と言わんばかりに目を大きく開いたのだった。

本当は拗ねたり怒った振りをして、もっと恋人同士らしいやり取りに積極的になって欲しいと伝えたかったが、素っ頓狂な表情に堪えきれず笑いが溢れてしまう。
それを見て余裕そうに目を細めている彼女に、不意打ちで口付けた。
その意図が分かっていない様子で呆気にとられている彼女を抱きかかえて、立ち上がる。

「それじゃ、辛抱強くないアリスの為に、二人きりになれる場所に行くとするか」
「い、今から?」
「……ダメ?」
窺い見つめると、たちまちアリスはこれ以上ない程に顔やら耳やらを紅潮させて硬直してしまった。
しかし、顔を隠すように首に腕を回してしがみついてくると、耳元で至極小さな声で「ダメじゃない」と答えた。それを聞き届けて彼女を横抱きにしたまま歩き出す。

「ねえ、ラビ。このままでいいの?疲れちゃうよ」
「いいんじゃねぇの?アリスすぐへばるし、丁度いいだろ」
「……。後悔しても知らないから」
「楽しみにしてる」
背後から追いかけてくる風が、仄かに花の柔らかな香りを纏って擦り抜けていった。

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