短編小説 | ナノ

▽ Cacher la averse

木枯らしに冷やされた硝子の扉を開けると、内側から漏れ出てきた暖かく湿気を帯びた土の匂いに顔を撫でられ、思わず息を止めた。

「わあ…本当に暖かいんだね」
肩越しに覗いて驚くアリスの方へ振り返ると、早く中に入りたそうにこちらへ視線を突き刺してくる。
戯けて紳士さながらの仰々しい所作で擬似熱帯へと手引きしたものの、彼女はそれに対する反応よりも初めて見る物への好奇心が勝っているらしく、微笑みと一言の礼を返して早々に室内へ駆けて行ってしまった。

そこに佇むだけで彼女の感心を独り占めする、鉄で形作られた硝子張りの建築物は、つい先日教団の敷地内に建てられた温室だ。
科学班曰く、寒冷地では入手し辛い熱帯地域に自生する薬草の栽培と研究が目的らしい。
今はまだまともな草木が占めているようだが、近い将来、人間と共存するには極めて危険な植物の巣窟になる予感がする。
その為、今日は安全が保証できる内に休日を利用して、二人で見学をしに来た次第だ。

新入りの巨大な恋敵に何か恨み言の一つや二つ言ってやろうと、中に入って辺りを見回し遠い頭上を仰ぐ。
何十本もの鉄の骨組みが曲線を描く、高い硝子屋根の更に向こうには、黒を滲ませた雲が広く空を覆っていた。
晴れていればきっと、天井に青空や白雲が写し取られたと錯覚する未知の景色が見られるのだろう。今日が薄暗い曇り空でまだ良かったのかも知れない。

自身も初めて目にする温室を純粋に楽しむべく、施設内の何処かを探索している彼女を探しながら草木を眺める。
外の木々は紅葉を終えて枯れ落ちているというのに、目前に広がる熱帯の植物は盛んに花や実を付け生きづいている。
室内は常に蒸気により湿度と温度が一定に保たれている。とはいえ、透明な壁を隔てただけの空間は、まるで別世界同士が切り貼りされたようで、視覚を楽しませた。
アリスがオレを置いてけぼりにするのも悔しいが頷ける。

一人で植物観察を楽しんでいると、俄かに柑橘類を想起する香りが鼻先を掠めた。
何処からだろうと左右を確認していると、右の通路を進んだ突き当たりに華奢な背中を見付ける。
心を引かれる順序があっさり切り替わり、首を向けている先へ迷わず歩みを進める。少し香りが濃くなったような気がした。

「面白いもんでもあった?」
後ろから彼女の顔を覗き込むと、顰めていた横顔が和らぎ、尖り気味の口唇を開いた。
「この草、もしかして雑草…かなぁ」
その眼前にある植物は、根元から細い葉が何枚も彼女の背丈近くまで伸び茂り先端をしならせていた。花や蕾のようなものは無く、周りと比べても葉の長さ以外は地味なので確かに一見巨大な雑草に見える。だが手を横いっぱいに広げても尚広く同じ植物が群生しているので、本来この場所に植えるべき草である事は間違いない。

「それはねェと思うけど…気になんの?」
「この葉っぱからいい匂いがしてる気がするんだよね」
首を傾げながら左右に動き、触れないよう葉先を観察しているのは、某室長が仕入れた危険な植物の可能性を危惧している為だろう。
だが今の所は怪しい草木が植えられていないと、既に科学一班の室長監視役の面々から聞き込み済みだ。
何せそれを確認した上でアリスに温室の新設情報を聞かせて興味を持たせたのだから。今日は貴重な二人きりの休暇を楽しむ算段なので、安全であってもらわなくては困る。

長々垂れる葉を摘んで鼻先まで近づけてみると、先程から感じていた香りが広がる。見た目からは全く想像がつかないが果実の様に爽やかで不思議と落ち着く香りだ。

「触っても大丈夫?」
怖々と眉尻を下げた彼女が、弱く袖を引っ張ってきたが「ダイジョブ、香草だった」と眼前に葉を伸ばしてやると、躊躇いなく近づいてきた。
あれ程警戒していたというのに、オレの言葉を疑い無く受け入れる彼女に心配と優越感を密かに感じていると、解りやすいほど晴れ晴れとした笑みが向けられ、不要な考慮は吹き飛ばされた。

納得したのかと思えば「でもこの匂い、何かに似てる…なんだろう」と別の疑問に頭を悩ませて始める様子に、適当な果物の名前や作り話でも出して嘘を信じ込ませてみようか、などとくだらない悪戯を考える。
彼女の溢した問いに、同じく悩んでいる振りをして灰色の天井を見上げ、どう戯れてやろうかと思考を巡らせていると「この草、隠れんぼに最適だね」と、突拍子も無く彼女が目を輝かせるので、彼女の中で先程の謎はこの十数秒の間に一体どう処理されたのかと首を傾げる。

「大きいし、いい香りだし、いつまででも隠れていられそうじゃない?」
子供さながらの所感に思わず口出ししそうになったが、余計な事を言うと拗ねてしまいそうなので、その可愛い発想の返事として頭を撫でておいた。
意図がわからず窺いたそうに見上げる無垢な瞳に、仕方がないのでこの話題に幾らか付き合おうと、いよいよ雨粒が降り注いで来そうな曇天を見つめる。

「でもこんな日だったら、オレはすぐ見つけて欲しいけどな」
時機を図っていたのか、言い終わると同時に遠雷が響く。今日の天気はオレに味方してくれていると信じ切っていたが、どうやら違っていたらしい。

実に決まりが悪い。アリスはどんな顔をしているかと横目に窺い見ると、この室内に在るどの植物よりも珍しいものを見た!と言わんばかりに目を丸くしている。
「ラビ…雷怖いんだね?」
「違う。雨に濡れたくないだけさ」
妙な勘違いをされたままでは、後々からかわれることになりそうなので、間髪入れずにきっぱり否定すると残念そうに肩を竦めた。

「私は、もし、雨が降り出しても…」
無邪気な反応ばかりしていた彼女が、徐にオレの右手を取って真摯な眼差しを向けてきたので、同じように視線を返すと、何故か後に続く筈の声が止まる。
音が出ることなく半開きにされた小さな口元は、彼女の頬が紅潮し始めると同時にきつく閉ざされ、真っ直ぐ向かってきていた目線はふらふらと下方へ向かったり左右に振られている。

彼女が言わんとする事は何なのか、全く内容を聞けてはいないものの大体の察しがついた。
脈絡も無く、何を思っての行動か相変わらず理解不能だが、唐突に真面目な雰囲気を作り出し、気の利いた台詞でオレを口説き落とそうとしている模様だ。
そもそも場の空気が全く読めていないし、ついでに自慢では無いがもうとっくに落ちているので、今更そんな事をする必要はない。
ただ、躊躇って困り果てている姿が新鮮でやけに唆られるので、引き続き彼女には頑張ってもらうことにする。

体勢変わらず弱々しく覆っている手を握り返して、此方へ引き寄せる。空いている片手は丁重に彼女の細腰に添え、もう逃げられないから言いかけている事を全部伝えて欲しいな〜。と無言の催促を送る。
するとついに観念したらしく、相変わらず目を合わせてはくれないものの、喋り出しの勢いとは正反対の頼りない語気で渾身の求愛が再開された。
「ずぶ濡れになっても…、君と、二人なら、えっと…」

健気に一生懸命口元をまごつかせる彼女に、内心で「よく頑張りました」と賛辞を送りながら、背を屈めて言葉を塞ぐ。囃し立てるように稲光が瞬き、近付いてきた雷鳴が強く空気を震わせた。

唇を解放して、小さな身体を両腕で包むと、悔しそうに此方へ顔を押し付けてくる。
「うぅ、酷いよ、せめて最後まで言わせてよ」
「残念。時間切れでした」
よくわからない唸り声をか細く上げて服にしがみ付いてくるので、余程恥ずかしさが堪えられないらしい。
彼女の柔らかく細い髪に頬を寄せると、まだ小さく吠えていたので思わず笑みをこぼすと、耳まで羞恥に色付いた顔が勢いよく上がり、恨めしそうに睨まれた。
微塵にも恐ろしさを感じない威嚇に「可愛いからつい。ごめんな」と紅い頬に触れて近づくが「お、怒ってないから、いい!大丈夫!」と制止された。
「誰か来ちゃうかもしれない」と、自分から仕掛けて来たくせに周囲を気にして離れたそうに身を捩るので、名残惜しくも腕の中から解放する。

すると硝子を叩く雨音がひとつふたつと聞こえはじめ、二人で見上げると、透明の天井に幾多も水玉が重なり外の景色を滲ませていた。
急いで戻ろうかと相談する間も無く本降りになってしまったので、一時的な雨かもしれないと判断して暫く留まる事にした。

「向こうに面白い木があったよ」とアリスが言うので一緒に行こうと手を差し出すと、迷わず指を絡め隣に寄り添ってきてくれた。この天候では誰も温室内に入ってくる事は無いだろうから、このまま二人でゆっくり中を回れそうだ。

歩き始めて暫くすると雨脚が更に強まり、打ち付ける音が激しく耳に入る。
止めどなく壁を流れる水の線は内外の視覚を遮断し、まるで二人を隠してくれているようだと思った。

「ずぶ濡れは嫌だけど、雨の日の隠れんぼ。悪くねェかもな」
雨の音に掻き消されるだろうから独り言のつもりで呟いたが、繋いだ指先が反応したので顔を向けると、嫋やかに目元を細めて彼女が首肯した。仄暗い空間の僅かな明かりが作る輪郭がやけに淑やかで歩みを止める。

惹きつけられて動けずにいると、今が絶好の時機だと言いたげにまた一つ落雷がどこかに落ちた。心強い味方に感謝をしつつ、期待を孕んだ面持ちの彼女に影を落としながら目を閉じた。

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