長編小説 | ナノ



 Le précipice est sous la glace


Y

斜陽を見つめるラビの服の袖を軽く引き「ごめんね」と口唇を形作る。
シモンの性格は悪気無く場を引っ掻き回して唐突に去っていくと分かっていたのに。声を失っていなければ困惑させずに済んだだろう。
「気にせんでいいさ。ちょっとびっくりしたけど。……良い友達なんだな」
彼は口角を上げ、寛容な事に少しも意に介していないようだ。シモンの無邪気な性分も理解してくれたその厚情に安堵し深く首肯する。
「……。コレ、先にアリスの家に届けに行くか」
シモンが用途も告げずラビに無理矢理渡した荷物は、私の家族に向けての土産物だろう。
彼は帰ってくる度、様々な郷土品や食物等を手渡してくれる。気を遣わなくていいと遠慮してもこまめに譲ってくれるのだ。それにしても今回は今までに無く大量で、普段の倍近くはある。
大荷物を終始ラビに持たせる訳にはいかない。「私が持つ」と意思表示するも丁重に断られてしまった。
ラビは一歩引き「案内ヨロシク」と行く先を私に委ねた。
どちらにせよ目的地は同じであるし、もう時期到着する。彼は引いてくれなさそうなので、有り難く任せた方が負担にならなさそうだ。
「ありがとう」と込めて頬を緩ませ頷き、宿へと向かった。

見慣れた外観の前で立ち止まり、振り返って到着を示す。
シモンと会う前に少々彼に遊ばれた仕返しのつもりで、彼の表情を伺いながら「実は此処が私の家だった」と悪戯心を携え笑って見せる。
宿と私を見つめる彼の面持ちは、きっと一驚に染まる筈と予想していたのだが、寧ろ正反対であった。
他愛ない遣り取りに不釣り合いな程、底深い物寂しい色を彼は隻眼に湛えている。出会って間もない人間に向けているとは思えない愛惜めいた瞳に、鼓動が跳ねた。
しかしその表情は即刻、柔らかに切り替わり「ここがアリスん家?」と爽々とした声音を発した。
見間違えたのだろうか、そんなはずは無い。と内心で当惑しながら鈍い動作で頷く。対する彼の返答は「そんな偶然もあるんだな」と笑みを浮かべながら一言零れただけであった。
淡泊な表面の裏に深い意味を内在しているようで、無性に胸が締め付けられる痛みを覚えた。
「なら丁度良かったさ。ほら、入ろうぜ」
詮索する隙を与えず、何事も無かったかのような晴れ晴れとした声音に、私は理由無き心残りを振り払って扉に手を掛けた。

中へ入ると、広間の待合用の椅子に腰掛けた黒い外套を纏う二人の男性と目が合う。反射的に笑顔を向けると、背格好が小さく目の周りを黒く色取った独特の人相をした年老の人は、読めない表情のまま挨拶を返した。
一方の長い黒髪を後頭で結った、ラビと歳が近いように見受けられる男性は鋭い目つきで此方を睨む。
黒髪の彼の強い警戒の視線が私を越えて背後に伸びる。同時に、ラビが短く声を上げた。
すると彼は立ち上がって此方に伝わる程に強い怒りを胚胎した形相で早々と歩み寄る。怒れる眼はラビに向けられているようだ。
恐らく二人の間にいるのは危険な予感がして、すかさず右へ逸れた。
黒髪の彼が横切る際、外套の左胸にラビが付けているものと同じ銀の十字が白く光を反射させていた。間違いなく彼はラビの同行者である筈なのに、そうは思えない随分と険悪な様子に圧倒されながらも、二人の動向を見守る。

「あはは、お待たせ……」
「のこのこ女を連れ帰ってくるとは、いい度胸だな」
軽く弾ませるラビの声を、眉根を険しく寄せる彼は今にも掴みかかりそうな低い唸りの声で遮る。
「違う、違う!遊んでた訳じゃねーんさ」
ラビは距離を縮める彼を制止しようとするも、両手が塞がっている所為で、少しずつ壁に向かって後退していく。

私は意を決して黒髪の彼の袖を掴んで引っ張った。場を収めるには微塵も役に立たないだろうがせめてもの抵抗だ。
瞬時に射抜くような双眸が向き、邪魔するなと言わんばかりに睨み付けられる。怒鳴られても、手を挙げられてもいないのに、怯えて逃げたくなりそうだ。
けれど、喋る事は出来なくとも私の思考は読み取り易いらしいので、きっと弁論を頭で唱えれば誤解であること位なら彼にも伝わる筈。
懸命に目を逸らさず意思を伝えるべく小さく首を横に振って訴えた。

「言いたい事があるなら口に出せ」
あっさりと希望は潰えた。彼の怒りに怪訝を混ぜてしまっただけではなく、無闇に部外者が介入したことで苛立ちを増長させてしまった。
更に困った事にその矛先は一直線に私に向いている。身振りで訴えても、ふざけていると捉えられ返って逆効果かも知れない。
私は最適な対処を考えあぐねて硬直してしまった。
「ユウ、アリスは……」
壁に追いやられていたラビが「ユウ」と呼ばれた彼と私の間に急いで割って入り、口を開いた。
しかし続く筈の言葉は、私の背後から発せられた別の声で遮られる。

「お客さん。この子は声が出せないんだ」
振り返ると、アジュールが如才ない微笑みを二人に向けていた。
痺れる空気から解放された私は一歩程引いて彼等から遠ざかったが、代わりにアジュールが怒りを受けてしまったらどうしようかと、恐る恐る双方を交互に見ながら冷や汗を額に感じた。
「彼女はうちの宿で働いているんだ。荷物を持ちきれなくて困っていた所を彼が助けてくれたんじゃないかな」
アジュールは黒髪の彼に微笑んで告げ「そうだろう?」と、和やかにラビに問いかけた。
一方のラビは、突然現れた助け舟を呆けた表情で見ていたが、直ぐさま好転を呑み込んだようで大きく何度も頷く。
アジュールは流れる振る舞いで、ラビから紙袋を軽々受け取る。
「これで誤解は解けたね」と二人に諭す様な語気で言い放つ。主導権をいつの間にか奪われてしまった彼等は言葉を失っていた。
「納得出来ないなら、続きは外でやってもらっても良いかい?」
完璧なまでの作り笑顔に、眉間に皺を寄せたままの彼は仕方無さそうに息を吐き「騒いで悪かった」と言い残し、入り口へ歩き出す。
「どこ行くんさ」と声を掛けるラビに不満気なひと睨みを返し、それ以上の詮索を許さず扉の向こうへ行ってしまったのだった。

Z

場を収めてくれたアジュールの服を軽く引き、笑みを向ける。穏やかに眼を細める彼に「私も荷物を持つ」と意思表示するが「ありがとう。でも平気だよ」と柔らかく断られた。
アジュールやラビの眼には余程私は軟弱そうに映っているのかも知れない。どうしたら役に立つと思って貰えるのかと口唇の先を少しすぼめて考え出した折柄。

「迷惑を掛けて申し訳ない」
突然現れた錆声の方を見遣ると、奥にいた老人がいつの間にか私達の傍に移動していた。
気配の無い動きに私だけではなくアジュールの濃紺の瞳も瞬いていたが、彼はゆっくり首を横に振り穏やかな表情で返答した。
「酔っ払いの喧嘩に比べたらなんてこと無いよ」
「それにしても、話を合わせてくれて助かった。ありが、と……?」
張り詰めていた空気も解けて、ラビが安堵の声を出したが、次第に語尾が詰まり疑問を孕んだまま途切れてしまう。

その理由を眼にした瞬間、思わず息が止まった。
先程の争いを牽制する笑顔とは打って変わって、明らかに厭った面持ちでアジュールはラビを睨みつけている。
元々温厚な彼が苛立つのは稀だ。例え気分を害する事があっても声や表情からは読取らせない。
幼い頃に一度だけ、私は彼を怒らせてしまったが、その際の怒りは私の思慮の浅さを諭そうとする諭しであって、害意のあるものではなかった。
そして、それ以来柔らかな表情を崩すアジュールを見た事がない。何故こんなにも敵意に満ちた剣幕をラビに向けているのか、全く分からなかった。
「此方こそ。この子の手助けをしてくれて、どうもありがとう」
彼は抑揚無く淡々と述べ、足早に奥の部屋へと去ってしまった。

驚きの余り、聖職者である彼等と話をしたいと伝え損なってしまった。もっと容易く事が進むと想定していたが、少々難しくなりそうだ。
「なんか風当たりがきついな……」
ラビは肩を落としぽつりと精神的な疲労の息を洩らす。
「到着して早々に居なくなったと思えば。彼方此方で面倒事を起こしているのではあるまいな」
すかさず追い討ちの如く、老熟した声の主は厳しげな視線をラビに向けた。項垂れていた彼は顔を上げ私と視線を交錯させると、訴える口調で私に同意を求めた。
「そんな事ねェよ。な?」
上手く答えなければまたラビが有らぬ疑いに叱咤されてしまう。間髪入れずに何度も首を縦に振って大きく同意を示した。会話が出来ない私は彼の気苦労を労わることはできないので、微力ながら力になりたかった。
ラビは満足気に笑顔を浮かべ、対する年嵩の彼は溜息こそ吐きはしたものの言及の気配はない。分かってもらえた様子に胸をなで下ろした。
すると、黒々と顔料で縁取られた眼差しは唐突に私へと移った。
緩みも顰めもせず、微動だにしない顔色は内心が読めない。私のしつこい程に首を振る姿を見て、落ち着きが無い奴だと呆れているのだろうか。

そんな当惑を余所に、ラビが声を発した。
「じじい。後でアリス……、彼女から町の事件と例の現象を詳しく聞かせてもらおうと思ってんだけど」
その提案に初めて老齢の彼が表情を見せた。訝しげに眼を細めたのだ。
「“悪魔”だけじゃなくて、“イノセンス”が関わってる可能性が出てきた」
ラビが険難を包含した低い声音で告げる。黒い縁の眼差しはどちらの言葉に反応したのか定かではないが、穏やかな空気を一変させて張り詰めた気配を纏う。

「悪魔」は彼との会話で耳にしたが「イノセンス」という単語は初めて聞く。これも彼等にとって重要な暗号のひとつなのだろう。
年嵩の彼は得心がいったようで、また無表情に戻っていた。
「解った。……では時間を取らせてしまうが、其方の都合が付き次第、事情を聞かせて頂こう」
視線を交えた双眸に向かって頷く。すると、冷然な眼はアジュールが去っていった部屋の奥を一瞥する。
「その際には、あの青年も同席するのだな?」
彼等との対話に於いて、筆談しか出来ない私だけでは心許ない。
その為アジュールにも一緒に居てもらおうとつい先程までは腹案していたものの、今は躊躇している。

アジュールが見せた態度は恐らく、何らかの勘違いから生じた憤りだろう。
話せばその怒りを解消出来るとは思うが、理由無く苦々しい態度を向けられたラビにとっては抵抗があるのではないだろうか。
明確に肯定せず、おずおずとラビに視線を向ける。
「ユウの威嚇で慣れてるし、オレの事は気にしなくていいさ」
目が合うやいなや、彼は衒いもなく明るく言い放った。ユウと呼ばれる彼には少しも伝わらなかったが、やはり私の思慮は容易く見通されてしまうようだ。
彼の笑顔に背を押され、軽くなった心緒は首を縦に動かした。
彼等と別れた後、早急に部屋から筆記帳を持ち出してアジュールの許へと向かった。

[

廊下を進んでいると、壁に背を預け憂げに眼を伏せているアジュールを見つけた。
駆け寄る足音に気付いた彼は此方に顔を向ける。敵意と怒りは余韻すら残っていない様子だが、曇った表情で私を正視していた。
芳しくないことに、ユウとラビはアジュールにとって好印象とは言い難い。しかし彼等は咎められるような事などしてはいない。上手く伝えて同席を了承してもらわなければと、使命感に気を引き締める。

「あの連中と何があったんだ」
開口一番のアジュールの問い掛けは予想していた通りだった。
ラビと教会で出逢ったことは伏せ、町中で道に迷っていたので道案内をしていたのだと説明する。
道中彼が聖職者である事と、この町での目的を知り、彼等に助力を乞うつもりだという思惑を伝える。
アジュールは「そういう事か」と息を吐き、徐々に眉間に寄せられていた皺が柔いだ。
「何かに縋りたい気持ちは分かるけど、あの連中はどう見ても怪しい。話すのは構わないが、簡単に信用しては駄目だ」

私を諭そうとする真剣な眼差しは、いつになく濁りも無く清廉だ。しかし彼がこの眼差しを向ける時、その心の内にあるのは決して否定ではない。寧ろ協力する意思があるのだと私は識っている。
どうしたらその藍銅の透き通りを映した輝きを宿せるのだろうかと、改めて感心する。すると彼は私の瞳を覗き込み、仕方なさそうに笑った。
「聞いてないな、全く…。物騒な事件に巻き込まれても知らないぞ?」
額を指先で小突かれ、私は「ごめんね」と口唇を動かし、頬を緩ませた。
「付き添うよ。仕事が大方片付いたらあの人達に会いに行こう」と、期待を裏切らない言葉を返してくれる彼に、口の端をこれ以上持ち上がらない程に感謝を示す。
「甘やかしすぎかな……」とため息混じりの彼の呟きは聞こえない振りをした。

「そういえば。さっき持ち帰ってきたシモンの土産は、全部お前宛だよ」
「あいつの事だから、何も言わずに押し付けてきただろう?」と呆れと親しみが融和した面持ちでアジュールは続けた。
「お前が戻るよりも前に、土産を持って挨拶に来たんだ。…でも、お前の声の話をした途端、別人かと思うくらい狼狽えだしてね」
直後、雷に打たれたように何かを思い立った様子で宿を飛び出していったのだそうだ。アジュールが言うには、必死に薬草やら滋養に効果のある食物から香、霊的な装飾等、あらゆる物を掻き集めたに違いないとの事だ。
普段と変わらず掴み所のない態度からは、そんな経緯があったとは想像が付かないが、アジュールがそう言うのなら間違いは無いだろう。
しかし、それ程に心配してくれていたというのに、単調な別れで彼を送り出してしまった。その後悔を帳面に書き示す。
「出発は明日だから、少し早起きすればきっと見送れるよ」
いつも明け方に発つから明日も同じだろう。と続けて優しい声音は自責を軽やかに拭ってくれる。
それなら今日のうちにシモンへ送る感謝を書いておこう。今まで書いた事など無かったが、手紙というのも良いかもしれない。そう逸る気持ちに高揚していると、宥めるように彼の手の平が頭に触れた。
「でも、今日はまだまだやる事が沢山あるからな」
彼の言う通り、聖職者達への相談も控えている上に、まだまだ宿の仕事を終えるにも早い。大きな返事の代わりに、気を引き締めて確と頷いた。

\

夜、宿の仕事が落ち着いた後。
両親には簡単に成り行きを説明したが、アジュールの説得で休んでもらう事にした。
ラビ達の居る客室はアジュール私の二人で訪ねた。

部屋には三人が集っており話し始めに、其々簡素に名前を伝え合う。
老齢の彼は名を持たず「ブックマン」と呼称されると教えられた。
黒髪の彼はどうでも良さそうに口を閉ざしていたので、ラビが「ユウ」と紹介するも、心底不満気に「カンダ」と自身の名を訂正した。
「いいじゃんユウで」と呟くラビを彼は一瞥して、殺気立った気配を向けている。この二人の遣り取りは日常茶飯事ではないかと思えてきた。

ユウが苛立たしそうに催促の眼を此方に向けたので、挨拶は早々に切り上げ、時系を追ってまずは私の症状についてアジュールが簡単に説明をした。
次いで失踪事件の発生に話題が切り替わろうとする合間に、ブックマンが制止する。
「この町には万病に効く治癒の泉があると聞くが、その水は試したのか?」
呈された疑問に、アジュールが首を横に振ると、ブックマンとユウの表情に怪訝の色が広がった。

治癒の泉。
それはこの町を豊かにした根源のことで、凡そ六年前に町外れの岩場に聖母が訪れ、その直後神秘の聖水が湧き立ったとされている。
実際、その力は偽りなく何度も発揮されていて、私やアジュールもその奇跡を何度か目にしているので、決して空想の類ではない。
この町の人全員が泉の奇跡を周知していると言っても過言では無いだろう。
治癒の噂は町中に留まらず、旅人から町の外、延いては国外にまで広がり、多くの救いを求める人々が泉の力を受ける為、泉を目当てに挙って訪れるようになった。
また、この泉には度々聖母が現れると流布している者もおり、聖域として世間から周知されつつもある。人の出入りが激しくなった町は急速に活気付いていった。

しかし、町の中の人々しか気付いてはいないが、近年神秘の効力が失われ始めている。
一度、両親が泉の力に頼るのを控えないかと相談を持ちかけたが、その願いは叶わなかった。
町の住人が承知したところで、恐らく外部の人々は易々と受け入れない。
泉の力が弱まっているという状況も、全ての人が信用するとも限らない。
この町が画策して泉の奇跡を独占しようとしているなどと喧伝されようものなら、最悪の場合町の衰退に繋がる事を懸念していたからだ。
泉の使用を制限しながら町の発展や信頼を維持するなどという画期的な案も無く、今は黙って見過ごす他無い状態だ。
結果、せめて理解を共有する者だけでも、緊急性の高い怪我や病でなければ泉に頼らないようにしようと暗黙の内に決まった。
そんな経緯で泉の力を使えば治っていた病かもしれないが、生死を争う程の症状では無い。
泉に頼るという選択肢は私には初めから無かったのだ。
そんあ事情を彼等へ丁重に説明をした。

……けれど、これは私にとって表向きの理由に過ぎない。
勿論、町や泉の事情に嘘は無い。しかし私があの泉の想起や頼りを拒む理由は、別にある。
泉が湧き出たのが母が亡くなった翌日であった。
その際に泉の力を知り、偶然に思えず初めは母との繋がりを覚えて頻繁に岩穴へ通って流水を眺めていた。
神秘の力が宿っていると世に知られてしまい、誰かの病を癒す度に淀んでいった泉を眼にした時、不意にそれでも湧き出でるのをやめない姿が酷く痛々しく映って以降、私は泉に近付けなくなった。

まるで、母が病に蝕まれていく姿を再び見せられているような気がしてならなかったからだ。
枷のように母を苦しめ続けた私の罪を、忘れさせぬようにと。
私の家族はそんな苦悩を察していたようで、私の前では決して泉の話はせず、声が出せなくなってからも泉の力を借りようという提案はしなかった。
この理由は情に訴えようとしているかのようなので、あまり自分から説明したくはない。
けれどもしも表向きの理由に納得してもらえなかったら、この個人的な理由も包み隠さず伝えるつもりだった。
しかしそんな心配を余所に、険しい視線と反して案外あっさりと聞き入れられたので、胸を撫で下ろした。

再び話を戻して、私の身体の異常が表れてから一月後に起こった失踪事件について、説明を再開した。
そうして全てを話し終えた後、失踪者に共通点は無いかとブックマンが問う。
アジュールが性別と時間帯以外は何もないと答えるが、鋭い眼光を湛えた眼差しは「例えば、彼等の失踪前に必ず接触していた人物がいる、といった事は?」と徐に私に視線を飛ばした。
その瞬間、彼等は既に多くの情報を知った上でこの町に、この宿にやってきたのだと直感した。
そして、恐らく私は疑いを掛けられている。
今まで彼等が私達から引き出した情報は、私が偽ろうとしていないかを探るための尋問であったのだ。

思わず息を咽頭の奥へ押し込める。私に関わった人々が姿を消しているのではないかという疑念は、胸の内に抱いたまま、家族にすら話していない。
町人全員分に聞き回ったような確実で甚深な情報を一体彼等はどうやって得たのだろう。
自己報告により潔白を主張した所で、私という人間を知らない彼等からしたら、彼等が得た情報以上に信用に足る材料を提示しない限り、私が最も怪しい人物という事実は払拭できないだろう。

しかし、私にはパトリック達に姿を消して欲しいだなんて願望も、実行する超自然的な力も無い。
彼等の失踪は別に原因が有る筈だと伝えようとするも、アジュールの手が交錯する私とブックマンの視線を別つ。
「この子は無関係だ。無闇に巻き込もうとするな。……それにあんた達は聖職者だろう。探偵ごっこでもしているつもりか?」
「相違なく職務を全うしている」
「職務?子供が何人もの失踪事件に関わっている、なんて有り得ない仮説を立てる事が?」
「いや、“悪魔”が関連している可能性の立証だ」
ブックマンの低く嗄れた声が室内に不穏の余韻を滲ませ、慌ててラビが何かを発言しようとしたが、それを待たずにアジュールは早々と立ち上がり、私にも席を立つよう促した。
「馬鹿げている。行こう、アリス」
彼の剣幕が余りにも尖鋭で、私はただ大人しく従った。余程彼等と私をこれ以上接触させたくないらしく、私を先に入り口へと進ませた。
僅かに振り向いてみるものの、前を向く様にとの厳しい声音と、アジュールの身体に阻まれてしまう。
大人しく従って部屋を後にした。

]

自室に向かって歩く途中、段々と私は自身が疑われている焦燥よりも、やけに気が立っているアジュールの様子が気掛かりだった。
俄かに背後の足音が聞こえなくなった。
後ろを見遣ると、蟀谷を押さえて項垂れる彼の姿が数歩後ろに有った。覚束ない足取りで前に進もうとしているが、今にも倒れ込んでしまいそうだ。
狼狽しながらも彼の身体を支えると、一瞬その重みを強く身体に受けた。壁に身体を預けながら体勢を立て直した彼が、弱々しい声調で「すまない。頭に血が上って……」と告げる。
もしかしたら今日は一日体調が優れなかったのかもしれない。
苦し気に細められている瞳を覗き込む。
気にする事はないと言う風に微笑んで見せると、健気に彼も口角を持ち上げた。

アジュールを支えながら、慎重な足取りで部屋まで辿り着き、なんとか彼を寝台に横たわらせた。
急いで薬を取って彼の元へ戻った。暫く彼の傍にいようかと考えていたが「少し頭が痛いだけだから、心配いらない」と言われた。
「お前も今日は休んだ方がいい」と彼は無理に笑顔を作る。
私が居座れば返って気を遣わせてしまい、気が休まらないかも知れない。
「朝、様子を見に来るからね」と書き記し自室に戻ることとした。

アジュールの部屋を出て直ぐ、廊下で何かを探している様子のラビと鉢合わせた。
私はどんな態度を示せば良いか分からず、彼が気を悪くする事を顧みず、目を逸らして通り過ぎようとした。

「あんな言い方してごめん。オレらはアリスを疑うつもりじゃねぇんさ」
物悲しげで哀訴すら帯びていると感受する声音に、足を止めずにはいられなかった。
「それなら、貴方達は何を突き止めようとしているの?」と皮肉ではなく、純粋な疑問を紙面に示す。
私が疑わしいと思える相応の情報を持っているのなら、探りを入れずにはっきりと指摘しても良い筈だ。

彼は瞳を彷徨わせ、しかし意を決したように私の眼を見据えるが、言葉が紡がれるよりも先にその面持ちに悲嘆めいた歪みが表れ、押し黙る。
遂に彼は私の問いには答えず「ごめん」とだけ残して立ち去ってしまう。彼が置いていった寂寥を孕んだ廊下に、私も取り残されたまま。暫く動くことが出来なかった。

]T

翌日。夜が明け切らない時刻に目を覚ました。
昨晩は部屋へ戻ったものの濁った心持ちではシモンへの手紙を書ける訳もなく、大人しく寝台へ潜り込んだ。
眠りから覚めても、空気を入れ替えるように容易くは感情の淀みは冴え渡らない。
シモンに感謝を伝えるという趣旨の見送りの予定だったが、今は純粋に彼の明朗で屈託のない声を聴きたい。
急いで身支度を始めた。

薄暗い町中を静かに駆ける最中、仄かな外灯の明かりが壁際に寄り添うひとつの影を照らしている。
立ち止まり遠巻きに眼を凝らすと、男性がひとり蹲っている。
周りを見渡すが、彼以外町人は居ない。
こんな時間だから、酒にでも酔って気分を悪くしたのだろうか。私だけで彼の助けになれるのかが心許ないが、側まで寄って屈む。
激しく前後しながら息をする肩に手を置いた。

するとその人は咳き込むように顔を上げる。互いを見合わせた瞬間、驚愕に眼を大きく開いた。
苦し気にしていたのはシモンの父親であった。憔悴しきった形相は縋るように私に迫った。
「シモンが……。アリス、シモンを見なかったか」
酩酊している眼付きではない。異様なまでに狼狽する彼に、考えたくもない憶測が脳裏に波を立てる。しかし、私まで取り乱してはならない。
私はゆっくりと首を振り、錯乱しかけている彼を落ち着かせようと、一先ず宿へ緩やかな歩調で誘導した。

広間の椅子に腰掛けさせ、近くの厨房に水を取りに駆けた。素早く戻ると、いつの間にやって来たのか、ブックマンが頭を抱えて呻吟するシモンの父の傍に立っていた。
私に気付き一瞥する黒い眼に怯んだが、今は気詰まりに心痛している場合ではない。
息が整っても未だに視線が覚束ない父親が噎せてしまわないよう、手を添えて少量ずつ水を飲ませる。半分程の量を飲み下し、重々しく絶望した溜息を吐いた。
ブックマンも、そんな彼を労わるように「何が起きたのか、話して貰えないだろうか」と控え目な物言いで声を掛けた。私達とは眼を合わさず地を見つめたまま、彼は茫漠とした様子で話し始める。

明け方、出発時間が近付いたにも関わらず、シモンが部屋から出て来なかった。まだ支度が済まないのかと中へ入ると、そこは蛻の殻になっていたらしい。
明かりがついたまま、書物や窓も開いたままの中途半端な状態で、書き置きすら残されておらず、突然消えたとしか思えない状態だったという。
これまでの事件と酷似した状況に、息子も巻き込まれてしまったのではと、慌てて家中を探し、それでも見つからず、ずっと暗い町中を懸命に探し回っていたのだそうだ。
それでも結局シモンの行方の手掛かりは掴めず、彼の失踪を確信して白痴状態になってしまったのだろう。
彼は私達に向かって、誰でもいいから、どうか息子を見つけて貰えないかと縋り付くように切願した。
ブックマンは「協力しよう」とシモンの父に告げ、私とは一言も交わさぬまま客室へと戻っていった。

シモンは人を驚かせたり悪戯を好む性分だったが、不謹慎な悪ふざけは決してしない。彼の父の必死な様相が、物語っている。彼も得体の知れない怪奇に巻き込まれ、居なくなってしまったと。
……けれど、受け入れたくない。違うと証明したい。
私はどうするべきか、どうしたらシモンを見つけられるのか、焦慮に邪魔をされて思考が全く働かない。頼りの綱であるアジュールが側に居ないことが、更に平常心を削ぎ取っていく。
本来であれば直ちに彼にも知らせるべきだが、昨日の調子の優れない姿を想起すると、まだ体調が回復していない可能性が高い。無理に心労を与えて、彼を苦しめたくはない。
――……。それともまさか、アジュールまで。
突然に胸が騒ぎ立つ。
シモンの父には、暫く此処で休むよう伝え、即座に彼の部屋へ足早に向かった。

休んでいる可能性もある。控えめに扉を叩いた。
反応が無い。居ても立っても居られず、気が咎めたが再度強く叩いて彼を呼ぶ。
いよいよ応答を待ち切れず、取手に手を掛けたその時、内側から解錠する音が聞こえ、扉が開いた。
アジュールは壁に寄り掛かり、俯いて苦しげに立っている。意識が朦朧としているのだろう、言葉を発する事なく倒れこみそうに身体が傾いた。直ぐにその身体を支えるが、昨日とは変わって、殆ど自身で身体を支えられない程悪化しているようだ。
頭一つ分以上ある身長差と男女の体格差の重みは、一息でも息継ぎをしようものなら、支え切れず共に倒れこんでしまいそうだ。
シモンの失踪と、アジュールの不調。ブックマン達が疑う通り、原因は私にある。
辛うじてアジュールを寝台に横たわらせる。か細く呻きを漏らして瞼を固く閉ざす彼に、内心で詫言を唱えながら、部屋を後にし、重い足取りで両親の許へ向かう。

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