長編小説 | ナノ



 Tacitum vivit sub pectore vulnus


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日が高く登り始めた頃合い。新たな記録地に向かって町を出る。……予定だった。
時刻は午後の二時を回っているにも関わらず、オレは廃れた森の道を走っていた。
旅立ちは予想もしなかったとある出来事によって押し止められ、その結果またこの町に滞在することになった。
またアリスに会える。それが分かった直後喜びの余り脇目も振らず駆け出していた。

煌々とした陽射しを浴びる古びた教会が今日はやけに生き生きと映る。
扉を思い切り開け放したい思いを堪えて静々と手を掛け、微かに開いた隙間から歌が零れ出す。
初めて出会った日に涙しながら聴き、涙する彼女へ願いを込めてうたった歌だ。

アリスは今、一体誰を思って歌っているのだろう。今日も母親を思って願いを込めているのだろうか。
それともほんの少しでもオレ達の旅路に幸が多くあるように、なんて願ってくれていたら嬉しい。
彼女に気付かれないよう近づき唐突に歌声を重ねると、彼女は直ぐに声を止めた。
弾かれたように素早く振り向き、直ぐにオレの姿をその目に捉える。すると体から表情まで全てを固めて動かなくなった。
二、三秒位の沈黙を経て、茫然とこちらを見つめながら彼女は口をおずおずと開く。
「……どうして。ここに……」

「実はもう四日、この町にいられることになったんさ」
呟く彼女に反して少しだけ声を張るように告げる。
彼女は混乱している様子だが、対する自分は早く彼女にこの喜びを知ってもらいたくて仕方がなかった。
改めて言葉にした瞬間、顔の筋肉が崩れてしまうんじゃないかと思う程に、歓喜が顔に広がり出す。
アリスはオレの表情に反応して、花が咲くように顔を綻ばせて立ち上がった。そしてそのまま飛んで行きそうな勢いをつけて、両手を広げながら此方に向かってくる。
予想しなかった行動に慌てながらも彼女の体を抱き止めた。危うく仰け反りそうになりながらも踏み留まる。
背中に回る彼女の腕は強く縋りついていて、それが少しだけ震えているように感じた。

「ねえ、私。もしかして夢を見てるのかな」
暫くオレの体にしがみついていたアリスは、体を僅かに離しながら不意に困った面持ちで見つめてくる。
「確かめてみる?」
期待と不安がせめぎ少し膨らんでいる頬をつつきながら、冗談のつもりで言った。すると彼女は一度目を丸めてじっとこちらを見つめていたが、無邪気に「うん!」と答えて固く目を瞑る。
……まさか乗ってくるとは思わなかったし、そんなに可愛い顔で今か今かと待たれては返って頬をつねり辛い。
軽く指でつまんでみると、彼女は早々に目を見開いて寂しそうに眉尻を下げる。
「痛く、ない……」
助けを求めるような瞳を向けられて大いに慌てた。
「違う違う、今のは予行練習みたいなもんだから!ほら、ぎゅー!」
少し強めに指に力を込める。あまり痛くし過ぎず、且つしっかり伝わるように柔らかい肌を摘む指先の力加減を調整しながら「どう?わかる?」と三回も声を掛けつつ彼女に確認を取った。

すると神妙な表情が一転してアリスは吹き出すように声を弾ませて笑い出す。
「大丈夫。もう泣かないよ」
ひとしきり喉を鳴らし、笑いを堪える彼女の顔を見据える内にやっと理解した。
……彼女の小さないたずらはこれで二回目だ。ならばこちらもと微々たる仕返しに、両頬をしっかりとつまんで引っ張った。
「いたいよ」と言いながらも跳ねるような楽しげな声で、彼女は伸びた頬をつり上げて笑顔を見せる。
そんな取り留めのないじゃれ合いをしながら膨らむ再会の喜びを分かち合った。

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少し経って熱が落ち着き、一体何があったのかと感興を包み隠さない面持ちでそわそわし始めた彼女に、いつもの場所に座りながら再会の経緯を説明し始めた。

アリスと別れた後、あれこれと買い揃えておいた荷を背負いオレ達は宿を出た。
少し歩いた所で、一体これからそんな荷物でどこに行くのかと町人に声を掛けられ、じじいが山を越えてスペインに向かうと答えたのが発端だった。
血相を変えたその町人が慌ててオレ達を引き止め、その問答を見兼ねた別の町人がやってきて、次第に人が集まり出した。
じきに大きな人の群れが出来上がってしまい、遂には宿の夫婦まで召集される始末となった。

かなりの年嵩の老人と、十歳程度の少年のたった二人で山を越えられるわけがない。危険なので道程を考え直した方がいいというのが彼らの主張だった。
それに対して、十分に食料や装備は揃えてあるし心得もある。尚且つ今まで似たような旅路を歩んできたと説明した。
しかし住処も金もなく放浪している身なのかもと思われてしまったらしく、説明すればする程に意図しない同情を引いてしまっていた。
自分達の素性を簡単には明かせないのが仇になったのだ。
最終的には、行き場がないのならこの町にいっそ住まないかと誘われる事態にまで至ったが、スペインに唯一の親族がいて、そこに身を寄せる約束をしているのだと上手く弁解をして難を逃れた。

そうとは言っても危険な行為を黙って見過ごせないということで迂回路を勧められた。
どうも決まった日程でこの町を通りながら国境を越えて巡礼をする団体があるらしく、丁度四日後にその人々がこの町にやって来るのだという。だからそれまで待つようにというのが彼らの提案だった。
巡礼者達に同行できるよう交渉するから、遠回りにはなるが安全な道のりに変更してくれないかと強く押され、更には滞在費用は予定通りの三日分で良いからと、旅人にとっては至れり尽くせりの条件を出された。
そんなやりとりの末、遂にあの堅い記録者が折れたのだった。

「あんなに強く引き止められて予定を変えたのは、これが初めてだよ」
田舎町では親切にしてくれる人は何人かいたが、この町の人々程他人に親身になってくれるのは珍しい。
しかも一切見返りを求めていないのが、仕草や目つき、話し方などから滲み出ていた。
恐らくじじいも、彼らは純粋に気遣ってくれているだけなんだと覚ったからこそ、あの提案を受け入れたのかもしれない。
それでもあの堅物が全力の厚意に気圧され気味だったのは、初めて見た。正直途中から少し面白がって見ていたのは本人の前では口が裂けても言えないが。

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「ここは、そんな人達ばかりなの」
彼女は小さく笑みを零した。
「……でも、そっか。もう少し一緒にいられるんだね。皆に感謝しなきゃ」
「感謝?」
「そう。だって貴方のこと、もっと知りたかったから」
その言葉にどんな意図があったのかは分からない。
ただ、彼女の嫋やかな表情に見惚れている内に、じわじわと仄かに顔が熱くなり出した。それを隠そうとして返事とも相槌ともつかない呟きを返して少し目を逸らす。
「それにね、私のことも知って欲しかったの」

思わず離れかけた視線を戻した。
自分はまだ本人の口から殆どその生い立ちや複雑な事情を聞けておらず、ほとんどが人伝いだ。
何度も言葉を交わす中、お互いを知り合ったようで実は何も知り得てはいない。
けれどもそれは偶然ではなく、オレは勿論のことアリスも深い内面を語ろうとしない雰囲気を常に帯びていたからだった。

「……私にも、本当の名前があったの。聞いてくれる?」
彼女の面持ちが少しだけ緊迫に似た強張りを見せる。どうやら安易に語れない背景がありそうだ。
身の内に抱える何かを話そうと決心してくれたのは、真にその心の内に立ち入るのを許してくれたからなのだと思う。
それならばもっと強く受け止めたい。口を引き締め瞳を見据えながら頷いた。

少し重そうに開かれた口から出てきたのは、深い歴史を内在していそうな男性の名だった。
そして後に続いて連なる三つの名と、過去にその家系が貴族であったと証明する象徴的な前置詞と続く姓。
荘厳さを感じる長い名には、一体どんな意味が込められていたのか。彼女にどんな歴史を刻んだのだろうか。
「アリスもその名前を捨てちゃったの?」
アリス小さく首を横に振って寂しげに大窓を見上げる。
「私は。反対かな。……その名前に捨てられたって方が合ってるかも」
遠くの情景を見つめる憂いた眼差しが、その胸中にある記憶の重みを物語っていた。
「でもね。元々の名前、好きじゃなかったから。もう気にしてないよ」
「本当に?」
彼女の頬が描く笑みが僅かに嘘を内在しているように見えた。段々とアリスの笑顔の種類が分かってきたのかも知れない。
探るように目を離さずにいると、やっと瞳の中に真実めいた怯えの色が浮かび上がった。
「大丈夫さ。だから教えてよ、アリスのこと」
どんな生い立ちがあったとしても受け止める。揺れる瞳にその思いを向けると彼女は深く頷いてくれた。

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それからアリスは、付けられた名の由来やこの町にやってくるまで母親と二人でどんな日々を暮らしていたのかを話してくれた。
今の彼女の姿や所作からは全く想像がつかなかったが、自己否定が強い理由や責任を背負ってしまう気性については、その境遇が長い年月をかけ植え付けてしまったのだと納得ができる。

アリスの祖父は、肉体的にも精神的にも縛りつける生活を彼女に強いていたようだが、聞く限り母親はそれ以上に酷い扱いだった。
隔離されたように常に別邸の一室で一日を過ごし、本人の意思では本邸に入ることはおろか同じ敷地内にいる娘に会いにいくことさえ許されない。軟禁されているも同然の生活だ。
更に、充てがわれた使用人は見習いの少女たった一人。
唯一の救いはその使用人が親子の味方となってくれていたことくらいだ。彼女の計らいでアリスと母親は何度も隠れて会っていたらしい。
それがなければ、同じ場所に住んでいながら二人は顔を合わすことすらままならなかっただろう。

果ては、アリスは跡継ぎとして不要になっただなんて理由で、共々追い出されてしまったという。
どんなに母親が娘を愛していたとしても、母親の仕打ちを目にして生きてきたのなら、自身の存在を枷だと思い込んでも仕方がない。
悔いの根の深い過去に、安易に出せる言葉が何もなかった。しかし彼女は、慰めも同情も何一つ求める素振りがない。
それなのに「こんな話、誰にも話せなくて。聞いてくれてありがとう」と、語り終えた彼女は表情こそ変わらないが漂う空気が晴れやかにしていた。

「あのね。あともう一つわがまま、いい?」
アリスは躊躇いがちにこちらを窺い見る。その慎ましげな仕草に目を奪われながらも首肯した。
「貴方のことも、聞かせて欲しい」
秘めていたものを明らかにしてくれたのは、単純に知って欲しいというだけではなく、オレを知るため彼女なりの礼儀が含まれていたのだろう。
けれども彼女の過去は決して明るく希望に満ちたものではない。だから尚更話し辛そうにしていたのではないか。

そんな思考へ行き着き、率直に頷きを返していた。
本来ならせめて返答を躊躇わなければならなかっただろう。
しかし答えは即時で明確だった。
彼女が真剣に向き合おうとしてくれているのに、虚偽や誤魔化しなど出来る筈がない。と。
……きっと、彼女に出会う前の自分だったら。相手がアリスでなければ、考えを巡らす間も無く嘘でその場を切り抜けようとした。
真摯な姿勢に突き動かされたのではなく、向き合ってくれているのがアリスだから答えたい、知って欲しい。
切望が止めどなく体の中心に渦巻き出して、もうオレは口を開いて話し始めていたのだった。

……ブックマンという存在があること。その存在理由。後継者として旅立つ以前にいた場所や、これまで十七の戦場を記録地として渡り歩いてきた記憶。
アリスは静かに耳を傾けていた。話せば話す程、何故か身が軽くなるような心地だった。
オレ達は互いに辿ってきた過去や素性を伝え合ったけれども、互いが抱える過去に対して同情し合ったりはせず、ひとえに聞き合っただけだ。
でもそれはまるで、捨て去らなくてはならないものを彼女に預けているようで。彼女が抱える重たいものを一緒に抱えているようで心地良かった。
勝手に話してしまったことへの罪悪感は一欠片も生まれなかったのだった。

「オレ、いいこと思いついた」
「どんなこと?」
「アリスの名前は、これ以上遠くに行かないようにオレが捕まえとく」
何もない空に手を伸ばし、小さなものを手のひらに包み込む仕草をしてみせる。するとアリスは驚きをその目に露わにしたが、一瞬のうちに物悲しそうに視線を落とした。
「でも、そんな名前……」
「辛い思い出が多かったかも知れないけど、挫けそうになっても必死に生きてきた努力も詰まってると思うんさ」
――それに、アリスにとっていつかこの名前が必要となる時が来るかも知れない。
そう言ったら今のアリスはきっと悲しそうな顔をするかも知れないので、心の内で呟くだけに留めた。
そして「悪い話じゃないでしょ」という言い分を込めて笑みを向ける。するとアリスは掲げた拳を見上げ、少し眩しそうに目を細め、あえかに眦を綻ばせた。

「嬉しい。……ありがとう」
彼女の紡いだ「ありがとう」の言葉は、何度かその口から聞いていた筈のものなのに、胸の中心をむずむずと燻らせた。少しずつ、熱く高まるものの正体が近付いてきている予感がしていた。

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「きっと町の人は誰も気付いてないんだろうな」
ぽつりと呟くと、不思議そうにアリスは首を傾げて瞳で問うた。
「アリスがこの町に来る前はどんな生活をしてたかってこと」
彼女は少し町の人々や同じ年頃の子供とは異なる気はしていたが、慎ましい田舎町とは正反対の暮らしをして来たようには見えない。
その生活が正しいと染まりきっていなかったのも理由の一つかもしれないが、声調や所作に堅苦しさが全く無く、それでいて人懐っこささえ見受けられる。そんな姿は良い意味でこの町によく馴染んでいる。
「そうかなぁ……」
「はじめはこの町の子だと思ってたもん」
「本当?それならよかった」
それまで浮かべていた心許なげな面持ちに安堵が広がっていく。
「あの家で使ってた言葉や作法は、お母さんを悲しませてしまうから。皆を観察して真似してたんだ」

屋敷を出て行った後、時折自身と接する際に母親が悲しげな表情をしていたのだとアリスは言った。
彼女はその理由を、自身の言動が辛かった日々を思い出させてしまうからなのだと結論づけていた。
だから普通の町人のように振る舞えと母に咎められなくても、周囲を見て慎重に言葉遣いや所作を変えていったのだという。
その憶測を否定することは出来ないけれども、どこか引っかかりを覚えた。

「……でもさ、本当にアリスのお母さんは悲しんでいたのかな」
「え……?」
「アリスの事を心配してたんじゃないの?」
アリスは息を小さく飲み込んで、そんな考えは全くなかったと、語らずとも表情で物語る。
彼女は自身を悪く捉えがちだ。まるで自分自身を目の敵にしているかのように、すぐに嫌悪してしまう。
「色んなことを自分のせいだって悪く考え過ぎなんだよ」
逡巡しながらもアリスはオレの意見に深く首を縦に振る。
「貴方の方がよっぽど私のお母さんのこと、分かってる気がするなぁ」
「……こんなじゃ、まだまだお母さんみたいにはなれないよね」
ため息を交えながらアリスは恥ずかしさをはにかみで隠すように言った。

「尊敬してるんだね。お母さんのこと」
アリスは穏やかな笑みを返す。彼女もまた、肉親を自分の目標に掲げていると知り、感じる近しさを嬉しく思う。
けれどもアリスは母親の存在を大きく高くし過ぎた上に、完璧に模倣しなければならないという責任を自らに課している。
それが間違っている訳ではないが、彼女自身が秘めている可能性を閉じ込めているように感じた。

「だけど。オレは同じになれなくてもいいと思うよ」
「……どうして?」
「アリスはアリスで、お母さんはお母さんなんだからさ」
彼女は疑問の色を更に濃くして目を瞬かせた。
「どんなに似てても、お母さんの良さはお母さんにしかないし、アリスも同じってこと」
笑い掛けるがその返事は無く、彼女は僅かに俯いて顔を曇らせた。諦めが表情に出てしまっていた。

「アリスは自分のこと好き?」
「……。あんまり」
弱々しい呟きを残したアリスに対して、オレは一つ咳払いをしながら、気合いを入れて彼女の視線を離さず丁寧に告げる。
「愛嬌があって特に笑った顔が可愛い」
「急に、どうしたの……?」
「いつも一生懸命で嫌な顔ひとつしないで働いてるでしょ。それに、自分を忘れて聴き入るくらい歌声が綺麗で柔らかくて落ち着く。ちょっといたずら好きな所も可愛いし、真面目で大人しそうだけど本当は明るい性格なのも……」

「ちょ、ちょっと待って!とまって!」
つらつらと述べる言葉の全てが彼女を表しているのだとようやく分かったらしく、アリスは顔を真っ赤にしてオレの口を両手で塞いだ。
その両手を掴んで口元から離すが、温かい彼女の体温は手のひらの中に閉じ込めたまま、揺れる瞳を見据える。
「今のままだってこんなに良い所が沢山あるのにさ。アリスは自分のことを全然知らないだけなんだよ」
「そんなこと……。私には」
逃げ道を失ったアリスは、否定を口にして俯いた。
続く言葉は簡単に想像がつく。恐らく「何もない」と言おうとしているんだろう。

掴んだ手を離し、代わりに下を向く彼女の額に指を付けて押し上げて前を向かせた。
「下向いちゃだめ」
するとアリスは呆気にとられた顔で固まった。どんな顔をしたらいいかと迷うように慌てる彼女の表情は、結局喜怒哀楽のどれにも当てはならない半端なものになって、次第に紅く染まる。
きっと言葉にしてしまうと、彼女はとうとう逃げ出してしまうかもしれないので胸の内に留めたが、その完璧ではない姿も少し危なげな彼女らしくて、好きだと思った。

「修行が足りんのだ!」
額に当てた指を軽く弾きながら、厳しい記録者の声真似をして笑った。本来の厳しい老師はその言葉に加えて手刀か握り拳で思い切り頭頂を抉るように叩いてくるが、アリスにはこの程度のお咎めで十分だろう。
弾かれた額に手を添えながら彼女は目を見張っていた。しかし次第にその目はしなやかに細められて、奥ゆかしく綻んだ。
「……。うん。ありがとう」

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翌日もそれまでと変わらずオレ達は教会に集った。
行いには特段の変化は無いが、少しだけ変わったのはアリスが段々と過去を話してくれるようになったことだ。
それも苦しかったことでは無く、楽しかったことを手繰り寄せて思い返すように語ってくれる。
抱える深い傷を見せてくたことよりも、懸命に乗り越えようとしているみたいで、嬉しかった。
次第に彼女が跡継ぎとして教わったことに興味が湧き、具体的な内容を聞いても嫌な顔一つせず教えてくれるようにもなった。

「へえ、ダンスも……。勉強とか礼儀作法だけじゃなくて、そんなのも出来るようにならないといけないんだ?」
「そうみたい。もう国内ではそういう会を開けないけど、外交向け……だったのかも」
彼女は幼いながらも随分冷静に自身の家や家長である祖父を見ていたようだ。
貴族さながらの生活を強いられながらも、この国ではその地位が排他されているものだと分かっていたし、懐古に拘る祖父が跡継ぎを通じて何を成そうとしていたのかも察していた。
物分かりが良いのは彼女の長所と言えるが、その身が放り込まれた数多の思惑がひしめく境遇の中では、もっと鈍感で気楽に生きられた方が苦しまずに済んだに違いない。
……自分の悪い癖だ。興味から理解を深める余り、余計な憂慮まで抱いてしまう。彼女はそんな同情を望んではいないのだからと、頭を軽く振って思考を蹴散らした。

「アリス。オレもダンスやってみたい。それで、一緒に踊ろうよ」
軽くなった頭が次に思い描いたのは、純粋に彼女と踊れたら楽しいに違いないという願望だった。
意気揚々と立ち上がって、彼女に目を向けた。
「うまく教えられるかわからないけど……」と、席から離れて通路に移動する。
着いて行き改めて向かい合った瞬間に、これまでの様子が嘘のように包み込む雰囲気ごと彼女が変わった。
背筋は天井から釣り上げられているように真っ直ぐで、不自然ではない程度に曲線を描く。
今までも特段背が曲がっているだとか崩れた様子は無かったものの、明らかに先程とは異なる立ち姿は純粋に美しい。
むしろこの姿勢こそが彼女によく馴染んでいて自然にさえ見える。

「まずは姿勢から」
そう言ってアリスは一度見本として構えを見せた。
気迫も無ければ険しさも無い彼女の眼差しが、恐らく無意識ながら真摯な光を孕んでいた。
ついさっきまでは僅かに遊び感覚でいたが、彼女の教えに応えたくて、背筋を伸ばした。
次に手本として見せてくれた精錬された構えを細部まで正確に頭で描きながら、指示通りに体軸を整える。

すると彼女が深く息を飲む音が聞こえた。
こちらを見つめる眼差しがみるみる内に輝き出す。
「貴方には出来ないことなんて無いみたい」
錯覚の余地を与えない程の非常に純粋で透き通った尊敬の念が向けられている。
ただ言われた通り、見たままの形で静止しているだけで、そこまで言われると返って恥ずかしい。
「それはさ。教えてくれる先生が良いからなんだよ」
「聞いてくれる生徒が真面目で素直で、才能があるからだよ」
倍以上にして返されてしまった。
「それはいいとして!折角だから、形だけでも一回組んでみようよ」
いつまでも一人で同じ体勢でいるのも二重の意味で辛い。話を逸らすにも丁度良いので彼女に相手役を促した。

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少しぎこちなく相対し、互いの体が触れ合う寸前の距離に近づいた。
左の手の平に温もりが重なりそれを軽く握る。
やけに意識しているせいだろうか。伝わる温度に合わせてさえずるような鼓動も手の内に感じる気がした。
そして右手を彼女の肩甲骨に何となくの目星をつけて慎重に添わせたものの、緊張故か見当が外れてやや低い位置にずれてしまう。
今更手を移動させるのも体をべたべた触っているようで気が進まない。
これで良いだろうかと彼女に視線を送るが、何故かその瞳は何もない先を真っ直ぐに見つめたまま硬直していた。

「アリス。どうしたの?」
「……。私の方、はどういう形が正解なのか。わからないんだった」
それはつまり、男性としての動きは分かっていても、対する女性側の形が全くわからないのだということだった。
口先だけで教えられた知識はあれど、日々相手がいるという体で淡々と一人で踊らされていたのだそうだ。

……彼女を跡取りとして育てるのに、そんな非効率的な教え方をする理由はなんだったんだろう。
そう思った瞬間「必要最低限の人間からは隠された存在」そんな推察が脳裏を過ぎった。
由緒正しい家柄に生まれた子供は、ある程度の年になれば寄宿学校に入れられるのが慣例だと言える。
けれども、その手段を選ばなかった理由は想像したくないが一つだ。
アリスの祖父は、彼女に取って代わる人間をずっと探していた。そしてその目星がある程度付いていたからこそ、余り多くの人間の目に触れさせなかった。
しかし最悪の場合を懸念して手堅く彼女も自分の手元に置いていたのではないか。

巡る憶測にもどかしさを覚え、つい口を閉ざしてしまった。その感情が伝わってしまったらしく「ごめんね。これじゃ、踊れないね」とアリスも寂しげに顔を曇らせる。
付いた傷跡も苦い過去も、オレにはどうしようも出来ないのだから、悩んでいても仕方がない。
「ダイジョブ!オレも勉強して、そしたらアリスに教えてあげるよ」
落ちるアリスの肩に軽く手を添え、胸を張って見せる。
そして叶いもしない約束を宣言すると、アリスは一度嬉しそうに表情に明るさを取り戻した。しかし「あれ?」とすぐに首を傾げて不思議そうに言い放つ。

「……でも、女の人の踊り方を勉強してくれるの?」
笑って欲しいが故に深く考えもせずに言ってしまった言葉に、彼女と同様に自分自身でも疑問が浮かんだ。それと同時にほんの一瞬だけスカートを履いて女性らしく踊る自分の姿が浮かんで顔をしかめた。
「それも変、というか。なんか想像すると気持ち悪いな」
「そんなことないよ!貴方だったら女の人の格好をしても、きれ……」
アリスは食い気味に何かを言いかけて、最後に放った言葉の形のまま唇を制止した。
「きれ?」
その続きが全く読めず、思わず窺い見る。視線を交錯させても彼女は答えを言わなかった。
「ううん、何でもない。私も、貴方に頼りっきりにならないで調べておかなくちゃね」
少々無理矢理話を畳もうとしている気がするが、深々と何度も頷きながら彼女は納得の仕草を見せる。
しどろもどろして、なんだかやけに必死そうだったので、からかいを込めて何度か聞き返したが、狼狽しながらも結局彼女は続きを教えてくれなかった。

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「勉強以外だと他には何を教わってたの?」
「他……。そうだね、特に厳しかったのは剣術だったよ」
「アリス戦えるの!?」
こんなに小さくて華奢な体が剣を振るう姿が想像できない。それに加えて教える立場の人間は恐らく大人のそれも男性だっただろう。勉学や教養と同様に彼等も容赦なく彼女に厳しく指導していたのかと思うと、それは最早教えではなく只の体罰なのではないか。

「あんまり侮ってると痛い目、見るからね」
オレの想像を遮るようにアリスは悪戯っぽく、そして挑発的な表情を見せる。
挑発的とは言っても彼女の容姿では、正直仔猫や仔犬が遊びに誘おうとしているようにしか見えない。
余りに愛らしいので、これでは同じくらいの年頃の、少し体格が良いくらいの女児にも勝てなさそうな気さえする。
「他の奴には痛い目ってやつを見させてきたの?」
「えへへ、実は全然。いつも私がぼろぼろだったよ」
アリスは表情を一変させて、屈託無く笑う。
けれどもその笑みに続いて人差し指を眼前に立て、誇らしそうに言う。
「でも一回だけなら」
彼女に嘘が無く、尚且つ自信が無いのは熟知している。
だからこそ見くびっていた人間に「一回だけ」一矢報いた場面について感興が湧き上がった。
「その話聞きたい!」
案外闘争心は強い方なのか、剣術に関しては少々熱が篭る様が凛々しくも見える。現在よりも更に華奢だったであろう時分に、一体どんな手段を使い格上の相手に挑んだのだろう。
はしゃぐオレに対し、アリスは面映ゆさと誇らしさ半々といった様子で、幼い努力が生んだ作戦を教えてくれたのだった。

……アリスは過去を明らかにする度、次々と新しい表情も見せてくれる。
それと同時に自分の中にある彼女の姿も、新たな色彩を宿しながら鮮やかに輪郭を濃くしていく。
出会った時の透き通った涙に濡れる彼女、目の前で屈託ない笑みを湛える彼女。
いくつもの姿や表情、言葉が折り重なって、より鮮明で美しくアリスはこの胸の内に描かれていく。

それがオレにとって「恋」と形容されるもの。
得体が知れず内に芽生えていたものは少しずつ成長を重ね、とうとうはっきりと形を成したのだと、遂に分かってしまった。

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