長編小説 | ナノ



 Vouloir c'est pouvoir


X

談話室に到着するも、珍しく全く話し声は無く静まり返っていた。不思議に思い見回した所、席は全て空いていて人の姿が見当たらない。
私と同様に室内を見渡し、困ったような唸りを零す元帥が入り口で一人立っているだけだった。
「アリス。来てくれてありがとう。……しかし、申し訳ない」
元帥は再び室内を見遣る。しかし変わらず席は全て空だ。
「人払いをするつもりではなかったのだが、皆気を遣って一斉に立ち去ってしまってね」
確かに、唯でさえエクソシストの黒い外套は目立つので、厳格な面持ちの、しかも元帥が突然現れたら、騒ぎ立ててはならないと思い気を遣うだろう。仕方のない事なので、気にする必要は無いと込めて首を横に振る。

しかし本音を言えば、数人でも残っていて貰いたかった。静寂の空間は、何年にも渡って植え付けられた反射に近い恐怖心を再び呼び起こす。
目の前の人は祖父のような人ではないと理解しているのに、冷静さを保とうとしても、身体がうまく反応しなくなる。
多忙の合間に時間を割いてもらえる事もこの上なく感謝しているが、脳髄では重責を押し付ける祖父や教師達の呵責が幾重にも反射し、切迫の糸が張り巡らされていた。

席に座り対面しながら、双方無言の時間が流れている。私の眼は彼と視線を交えられず、机と自身の膝先を徘徊るばかりだ。
「うーむ」と考え込むように元帥が声を漏らした。僅かに視線を上げて窺うが、椅子の傍に置いた荷物の中身を漁っているとしか解らない。再び視線は机上に戻る。

「アリス。顔を上げてくれないか」
彼の声に肩が小さく跳ねる。命令ならば逆らってはならない。観念して向き合い元帥を見据えるが、その瞬間予期しない驚愕に、更に身体ごと跳ね上がった。
目の前の彼の顔が変形し、尚且つそれは人の顔をしていなかったのだ。
……と思ったが、よくよく正視するとそうではなかった。一呼吸置き、彼は派手で奇抜な仮面で顔を覆っているのだと解った。
余りに唐突で、威厳を纏った彼の姿とは結び付かない行動だ。思考が正常に働かず、口を開けたまま呆気にとられてしまう。
「おや?子供受けした物を選んできたつもりだったが……君くらいの年齢の子には、やはり通用しなかったか」
仮面を外した彼は恥ずかしそうな笑顔を見せた。
「これはメキシコで手に入れた物でね」
彼は机に仮面を置いてみせた。僅かに興味が沸き、差し出された仮面を凝視する。
「何の仮面に見えるかな?」
恐らく人間の顔を模しているのだとは思うが、癖のある黒い短髪に、妙に凛々しい眉。真っ赤な唇。そして赤みを帯び、やけに下膨れた頬。極め付けは鳥の羽のように鮮やかな色使いの翼。それを頭から生やしている。見れば見る程今まで目にしたことの無い奇抜な作品だ。思わず首を傾げた。
「絵画には詳しいかね?」
「有名な作品くらいしか……」
「それならきっと解る筈だ」
緩く首を振って答えた私に、元帥は穏やかに笑いを交えた声で続ける。
「これは、赤子の天使なんだよ。かなりメキシコ色の強い姿になってはいるが」
「え、まさか。これが……?」
文芸復興の時代の宗教画に度々描かれる、プットと呼ばれる翼を生やした神々しく美しい幼児の天使。それを模した姿がこれだという。
メキシコは元来聖書を基にした宗教とは無縁だ。スペインの植民地となって以降、彼の地にて主要な宗教として布教する為、恐らく原住民の持つ仮面文化を活用した際の産物だろう。
仮面の元となったであろう絵画の、柔らかな筆遣で彩られた天使を思い出し、眼前に置かれた妙に締まりの無く無粋めいた顔と照らし合わせるが、似ても似つかない。それどころか余りにも強烈な外見の所為で、私の記憶にある天使が全てこの逞しい顔付きの天使に書き換えられそうだ。そんな事を考えながら口元が緩む。
「見れば見るほど愛嬌があるだろう?」
顔を上げて眼を合わせるが、緩んだ顔をしていては失礼になると咄嗟に判断し、慌てて口を引き締めた。
――まただ。また、あの人の影と重ねてる……。もっと、私に誇れるものがあれば、こんな風に過去を引き摺らなかったかも知れないのに。
コムイも元帥も私の緊張を解そうとしてくれたのに、情けないと自身を責め、項垂れる。

「……アリス。君が今何を思っているのか教えてはくれないか?」
思いつく回答は、自信のない言い訳だけだ。しかし、コムイには包み隠さず内心を打ち明けられたが、直接元帥に「貴方が恐れていた祖父に似ていて怖い」とは言えそうになかった。
「……私は基本的な戦術が未熟で、イノセンスすら自力で発動できない。だから今の私では何一つ求められる成果が得られないし、役にも立てない……」
「私が、君に何を求めていると思う?」
「命令に決して背かず、尚且つ寸分違わず迅速に熟せる戦力になること」
考え込む間も無く、問うているのが祖父であれば返すべき正しい回答を口にしていた。きっと元帥はそんな話をしたい訳ではないだろう。私の答えは間違っている。
あれ程強く思った決意はなんだったのかと、己の意思の弱さに奥歯を強く噛む。

「そうだな。確かに、誰もが君の言う通りの兵士となれば、指示者が優秀であればあるほど戦況は理想へと向かうだろう。君の意見は正しい」
……否定されなかった。思わず顔を上げ、元帥の面持ちを見た。
「しかし、私は完璧な兵士を作り出すのではなく、君という一人の“人”の成長に与する存在で在りたい」
元帥の物言いからは、まるで私の為に彼も尽力しようとする気概が受け取れる。眼を瞬かせながら、緩慢に息を飲み込む。
「我々は特異な力を持つが故に、命懸けの戦いを避ける事は出来ない。しかし、エクソシストは機械や兵器ではなく、其々に意思持つ一人の“人”だ」
彼が何を言わんとするのか、自然と私は彼の言葉に確と耳を傾け、僅かに期待さえ抱き始めていた。
「人であるからこそ強い思いが抱ける。そして、それは誰にも強制されないものだ。……君に、信念はあるかね?」
「強制されない……、信念……?」
「そうだ。他人に左右されず、君自身が心から正しいと信じ、貫いてくものだ。戦場を生き抜くに限らず、君の人生にとって、経験や肉体の強さ以上に信念は大きな力になる」
私の信念。強い意思。それを思い浮かべようとしても、頭の中で様々な感情や記憶がぶつかり合って朧ぐ。私は、人の役に立つかどうかでしか自身を判断出来ない。そんな人間に、信念など有る筈がなかった。
――やっぱり、私には……。
「アリス。今、それが無くとも決して悪だと思わない事だ」
胸中で巡る卑屈の渦を止めるように、元帥は穏やかに告げた。
「君が君であるからこそ成し遂げられるものが必ずある。私はそう信じている。他者の望みではなく、君自身がどう在りたいのか、それを見つけ出す手助けを私にさせてくれないか?」

元帥の眼差しには、それまで勉学や剣術を厳しく教え込んできた教師達とは、明らかに異なる強い何かが内在している。
過去の教師達は、私の出す結果ではなく祖父からの評価が全てであった。
私と祖父の会話は家族としての情の遣り取りなどは一切無く、私が祖父の求める答えをこの口から吐き出せるか否かだ。私の回答が祖父にとって間違いだと認識されれば、即刻教師は取り替えられる。
教師達もそれを知っていたからこそ、私の心境などは度外視し、兎角覚えさせるべき事柄は脳に、身体に、全て叩き込もうという思惑が顕著に見えていた。
しかし眼前で微笑みを湛える彼は、彼等とは真逆だ。
欠点だらけの私にも出来ることがあると、寄り添うように円やかな声音に、強い決意を乗せて告げたのだ。
真摯に、ある意味愚直に。私を信じると言い切れるこんな気性の人こそ、人を育て導く師の鑑だと思った。

――私も、信じたい。私自身の可能性を。
薄暗かった視界を照らす光を、彼に見た気がした。
彼の教えを受けたい。偏にそんな希望が滔々と横溢し、私は決して視線を外さずに、確と頷く。
「これから、宜しくね。……ケビン先生」
「先生?」
「うん。そう呼んじゃ駄目だった?」
「いいや、構わないとも。しかし、師匠や師範と呼ばれた事はあったが。……此処でそう呼ばれるのはなんだか新鮮なものだな」
先生は面映ゆそうに、けれど、遠い追憶を思い描くように優しく眼を細めた。

Y

それから先生と私は、変わらず人の居ない談話室で机の上の仮面から広がる会話を楽しんでいた。
先生は私の知らない知識を随分豊富に識っている。それはエクソシストとして全く関係の無い知識も含めてだ。
先生の教え方は一方的ではなく、まるで授業でも開いているかのように私にも考える余地を与えてくれるので、一向に飽きが来ない。仮面文化についての話から、絵画に移り、遂には文化史まで、私は実に単純ながら興味の赴くまま、思い立つ度矢継ぎ早に質問ばかり投げ掛けていた。
気付けば数時間も談話室を占領していたらしく、時刻を確認した先生が、談笑の終わりを私に諭した。

「あの、先生。最後にもう一つだけ教えて欲しいことがあるんだけど……」
其れを尋ねると返される言葉は何時も同じだが、先生はどう答えるのか知りたかった。彼は快く私の質問を受け付ける姿勢を示してくれたので、早速問い掛ける。
「イノセンスの発動って、どうしたら出来るの?」
先生は僅かに眼を大きく開くが、穏やかに眦を綻ばす。
「アリス。コムイ室長やヘブラスカにも言われたと思うが、焦る必要は無いのだよ」
宥めるように、優しげな声音で先生は答えた。やはり、先生もコムイ達と同様の考えだった。焦燥してないと言えば確かに嘘になる。けれど、私は不安を拭う為、自身が進歩している結果が欲しい。
先生はそんな私の心の内を汲んでくれたのか、眼を閉じ僅かに思案した様子を見せる。
「……しかし、そうだな。発動の参考までに、私の自論でも良ければ聞いてくれるかね?」
眼を開いた彼の言葉に、私は膨らむ期待を発しながら深く何度も頷いた。
「勿論、教えて……!」

「イノセンスは、人が使役する無機物のように見えるかも知れないが、私はそうは思っていない。彼等は人に近い意思を持っているのではないかと考えているんだ」
「先生、私も。なんだかそんな気がしてた……。でも、私の捉え方の問題で、そう感じるだけで、実際は違うのかもって」
先生は首を横に振る。
「私とイノセンスとの関係に変化があったのは、それまでのイノセンスに対する呼び掛け方が変わってからなんだよ」
「呼び掛け方?」
「そうだ。以前、私はイノセンスを物として扱い、自身が持ち主であるような感覚でいた。しかしある時私はイノセンスに対等の立場として、助力を求めた。より強く有る為、どうか更に力を貸して欲しいと。心からそう願った折、イノセンスは私に応えてくれた」
「……もしかして、それがきっかけで元帥に?」
「その通り」
「先生は、イノセンスと心を通わせる事が出来たから、強くなれたんだね」
ラビが以前随分大まかに教えてくれた、元帥は「イノセンスの扱いに物凄く長けている」とはこの事なのだろうか。
「とは言え、あくまでも私の感覚の元でという話だ。人に因っては勘だとか、イノセンスを支配しているからこそ使い熟せるだとか。双方の関係に依って様々だからな」
イノセンスにも人と同じように意思があり、また個性もあると先生は考えているのだろう。私のイノセンスは何を思っているのだろう。
「私、自分の事で精一杯で……。イノセンスの事って、何も考えてなかった」
「他人の言葉を鵜呑みにするのは君にとって為にはならない。しかし、自身と異なる意見を受け入れるのは、とても素晴らしい事だ。それを忘れずに、参考程度に取り入れてみると良い」
先生の推察から、暗闇を彷徨うような模索の助けとなる、一縷の光が垣間見えた気がする。
「うん。ありがとう、先生」

「イエーガー元帥!」
談話室の入り口から声を飛ばしたのは、一班の科学班員だった。
大元帥からの通達があるとの要件で、僅かに険しさを眼の奥に宿し先生は私に向き直った。
「アリス。すまないが暫く此処を留守にする事になりそうだ」
「もう任務に行っちゃうの?」
「恐らく……数日の内には出発せねばならぬだろう」
エクソシスト元帥は、イノセンスの回収と適合者の捜索が主たる使命だ。その為幾つかのイノセンスを所持しながら各地を回る。その分当然危険度は増す。本来ならば先生の任務に同行し実践的に学べれば良いが、今の私では足手纏いにしかならない。戦う者として先生から本格的に教えを授かるのは当分先の事になる。
「そうなんだ……。解った。先生が次に戻ってくる時には、先生と鍛錬出来るように、もっと鍛えておくからね」
「それは頼もしい。だが、自分を追い詰め過ぎないようにな」
先生は席から立ち上がり、軽く私の肩に手を添える。私が頷くのを見て、科学班員に続いて歩き出す。
私は立ち上がり、徐々に遠ざかる背を正視していたが、気付けば緩慢で堂々とした歩みを追い掛けながら、大きめに声を飛ばしていた。
「……先生。私、こんな言葉遣いだけど、先生達の事尊敬してるよ」
教団の人々は、誰も私の言葉遣いを咎めたりはしない。本来ならば、敬意を払った話し方に矯正されてもおかしくはないが、様々な境遇の人々が集まる所以か、或いは「我が家」と呼ばれる所以か、コムイを始め大人達は寛大だった。
諦めているのではなく、過去を上手く分離させられない私が変われる時まで見守るつもりで待ってくれているのだと思う。
先生も同様に嫌な顔一つしないでいてくれる。せめてその優しさに僅かでも何かを返したいと思い口走っていたのだった。
「ありがとう、アリス。大丈夫。しっかり伝わっているよ」
振り向いた眼差しが慈悲深く細められていて、私も笑みを返して階下へ去る姿を見送った。

再び談話室に戻り、身近にある椅子に腰を落とす。
真っ先に浮かんだのは、この気持ちをコムイに伝えたいという晴れた感情だった。少し浮き足立っているので、逸る心を落ち着かせてから彼の所に行こうと思う。
次いで描く人の姿は食堂で別れたリナリーとジェリーだ。
――きっと二人とも気になっているだろうから、直ぐに報告しよう。喜んでくれるといいな。
――ユウは、心底興味なさそうにするだろうけれど、話だけは聞いてくれる筈だから、任務から帰ってきたら伝えよう。
そんな風に、自身の喜びを誰かに伝えたくて仕方がない程に気分は高揚していた。
様々な教団員の姿を思い浮かべ、次は誰に伝えて……と期待しながらゆっくりとした思考で予定立てていたが、最後に思い浮かべた一人の姿に、思考は重く鈍る。
――それから、ラビは……。少しでも安心してくれるかな。
彼に迷惑を掛けずに済むよう成長すれば、きっと偽りの笑みを向けられなくなる、という一縷の望み。私はまだその望みに委ねる事が出来ずにいる。
付き纏う不安と寂しさを振り払い、司令室へと向かった。

Z

私の日課に先生との授業が追加されて三日。主に日中の時間を使って、先生の対アクマ武器を見せてもらったり、私の鍛錬の内容を精査してもらったり、アクマに関する情報や戦い方を僅かに教わった。
まだまだ聞きたい事や知りたい事は山ほどあったが、残念ながら彼から宣言されていた通り、大元帥からの命を受けた先生は、今朝方任務に発った。

元帥は、階級を持たないエクソシストとは異なり、中央庁に居る大元帥が任務を命じる。
教団の監査と運用を司る中央庁に在する大元帥は、実働派と後援派双方の頂点に立つ階級に在る。
それ故に、コムイは元帥の予定が読めないし、指示もできない。尚且つ元帥は一度に複数の任務を与えられる為、数ヶ月不在となるのは珍しくないのだそうだ。
代わりに、一部の元帥以外は最低でも月に一回の定時連絡を室長宛に行っているそうで、凡その位置や本部への帰還時期程度ならばある程度把握出来るのだという。

コムイを交えた三人で話し合い、今後は今まで通りの鍛錬を続け、先生が次に教団に戻った折には対アクマ戦術の教えを、実戦に近い訓練に移行させる予定だ。先生が戻るまで恐らく二、三ヶ月は掛かると言うので、時間は十分ある。その間に発動に至れば、宣言した通り先生との鍛錬も叶うだろう。
新たな師の元に付いても、変わらずユウは相手をしてくれるので、先生が不在だからこそより一層努力をしなければと気合いを入れ直したのだった。

従来通りの日課である鍛錬に励もうと修練場に足を運ぶ。少し前から探索部隊の体術訓練を見学する内に混ぜてもらえるようになったので、四十六番隊の人々が居ればゴルト隊長に願い出て、教えを乞おう。
そんな予定を描きながら、不意にそういえば修練場の中で、今まで足を踏み入れたことのない場所があったと思い出した。
その場所は広い修練場から廊下と扉を隔てた場所にある。一度覗き込んだ際、其処だけ東洋風の窓が並ぶ幅広の廊下のような構造となっていた。通路としては十二分な広さだが、身体を動かすには手狭という印象を受けた。きっと独自の使用方法があるのだと察し、人が居る時に使い方を教えてもらおうと思って以来、暫く記憶から抜けてしまっていた。
この想起が何かの縁のように感じ始めると、最早湧き立つ好奇心は止まりはしない。早速予定を変更して道の修行場所へ向かったのだった。

早速修練場一階の奥にある扉を空けて中に入る。太い柱が並ぶ床を手前から奥に向かって見渡すと、室内の奥に人影を見つけた。何かをしている風ではなく、寧ろ床に座って動かずにいる。
この部屋は修練場とは打って変わって静謐で何処か冷えた空気が占めている。しかし、聖堂の様に死を思わせる静ではない。言葉で表し難いが、感情の概念を取り払った無に近いものを感じさせる静けさだ。
誰に言われるでもなく、極力音を立てずに奥へ進む。よく見ると、柱が立ち並ぶ床と、私が歩いている床はほんの僅かな段差がある。その理由が解ったのは奥にいる人影にある程度近づいてからだった。
――ユウ。
偶に何処を探しても見付けられない時があったが、きっと此処に居たのだろう。彼は段差の上の床に目蓋を伏せて座っていた。勿論私には見向きもせず、静止している。
まず床に座る事自体珍しいが、更に彼の姿勢は見たことのない形であった。何の訓練なのか、或いは訓練に入る前の準備の一環なのか問いたかったが、ユウの気配ではなく静寂の空間に咎められているようで、声を掛けるのが憚られる。とは言え感興は増すばかりなので、ユウを手本に私も修行を行うことにした。

どうやら靴は下の段で脱いで上がらないとならないようだ。
見様見真似で両の足の甲を太腿の上に乗せるように足を組んで床に座る。手は、両手で円を象ったような独特の形で、身体の中心に置く。
私が足を組むのに手間取ったり、横でじっくりと観察する間も、ユウは眼を閉じたまま全く動かない。呼吸をしているのかどうかも凝視しないと解らない程、完璧な静止を保っている。
私の気配にはとうに気付いるのだろうが、無視していると言うよりは、深い精神の底に潜っていると表現した方が正しいかも知れない。
私が傍であれこれと動いているのを、普段の彼なら「鬱陶しい」と一蹴している。そう考えると、恐ろしい程の集中力を彼は保っていると言える。

精神統一の修行に思えるが、眼を閉じたその後はどうしたら良いのだろう。
「……姿勢を正せ。呼吸を深く整えろ。馬鹿の癖に余計な事を考えるな」
突然ユウが声を発した。其方を向くと、変わらず彼は微動もせずに眼を閉じている。「馬鹿の癖に」は余計ではないかと抗議したいところだが、低く落ち着き払った声音は彼なりの助言なのだと察し、私も短く答えて彼の言葉に従った。
背が丸まらないよう、天井に伸びる柱と同じように真っ直ぐ伸ばし、彼の呼吸を見ながら自身の呼吸も合わせてみる。
殆ど身体が動いていないが、随分とゆっくり呼吸をしているのだと解った。一回の呼吸に十秒以上掛かっている。息の吐く時間の方が長い。
懸命に模倣してみるも、慣れない姿勢と呼吸を保つのは難しい。特に長く深い息はユウと同様の時間を掛けては出来そうにもない。
助言に準じ、めげずに姿勢と呼吸に神経を集中させていく内、忙しなかった思考は徐々に大人しくなり、呼吸と共に身体が周囲に漂う静寂に溶け込む心地となっていった。

暫く深い呼吸に専念していたが、俄かに頭の中に掛かる霧が晴れるような感覚と同時に思考が動き出す。
私とイノセンスとの関係について。時間が空けば頻りに考えていたが中々答えには辿り着けずにいた問題だ。
しかしたった今、霧が晴れていくように答えが見出せそうな気がしている。
距離を隔てた初めての接触はかなり強引で、私の強い感情にイノセンスが反応を示したに過ぎない。
改めて適合者として正しい形で繋がる私達は、現状、対等ではなくイノセンスの方が優位にあるのではないか。
私にとってのイノセンスは、例えるなら、私に歌を教えてくれた母のような。或いは諭してくれた先生のような存在に近いのかも知れない。

――そうだ。イノセンスが私の身体に入った時、あれは私に唄を教えてくれていたんじゃ……。
その時の記憶を探り、唄を頭の中で思い起こす。すると、自身の記憶には無い、初めての旋律が耳の奥で流れ出す。
――お願い、その唄を教えて。
音に触れたくて潜り込むように意識を集中させた時、受け入れられたような気がした。喉元がやけに温かく感じる。
声を発していないにも関わらず、自身の声と唄声が完全に重なったような感覚を覚え、瞬間、本能で理解する。これがイノセンスを発動するということなのだと。私が脳内の唄を紡いだ時、熱く湧き上がるようなこの感覚が、力として分け与えられる。

「ユウっ!私、イノセンスが……う、わ!?」
隣の彼に伝えようとしたが、立ち上がろうにも足に力が入らず倒れ込んでしまった。膝下に微細な刺激が走る。再度力を入れようとすると膝下を覆う強い痺れに襲われ身動きが取れない。まるで足先の血が抜かれてしまったような、表現し難い感覚だ。
そんな私を横目に、ユウは颯爽と立ち上がると「暫くそうしてろ。修練場の三階に来い」と言い放って歩き去ってしまった。
「ま、待って。行かないで、足が変になってる」
ユウの足音は遠去かり、完全に置いていかれてしまった。
「ユウー……」
無情にも私の声だけが反響する。
まさか、イノセンスの発動には早過ぎたのか。もしかしたら反動かも知れない。
無理矢理に立ち上がってみたが、両足を痛みとは異なる激しい刺激が走り、そのまま力が抜けて転んだ。
誰かを呼ばなければ。そう思い声を張り上げようと首を入り口に向けた時、扉が開いた。

「おーい、誰かいるさ?」と声が渡ってくる。声の主を認識すると同時に、私は縋るように助けを求めた。
「……ラビ……!」
素早く私に気付いた彼は、駆け寄ってくる。その表情は私と同様に焦りが窺える。
「アリス、大丈夫か!?」
「わからないの、イノセンスが……」
動揺して説明が上手くできず、思い付いた言葉だけを口にする。するとラビは急いで私を抱き上げようとするが、彼の手が足に触れた瞬間、異様な痺れに襲われて思わず彼の服の袖を強く掴んで訴えた。
「待って、だめ、触っちゃだめ……っ」
「え!?わ、悪ィ、わかった。触んねぇから……。どこが痛む?」
「痛くは、ないけど、足が」
「……アリス。もしかして足痺れてんの?」
この状態を的確に言い当てた彼に驚きながらも、必死に首肯する。彼はこの症状を知っているのかもしれない。乞うようにその隻眼を見上げた。
「ダイジョブ、ダイジョブ。ゆっくり息して」
ラビが手本のように深呼吸してみせるので、言われるがまま、私も彼に合わせる。
何度かの深呼吸の後「そろそろ平気だろ。もう立てるようになってるさ」と彼が口角を上げる。
恐る恐るその言葉を信じ、激しい痺れに全く動かせなかった指先から慎重に力を込めてみる。指を曲げてみても何も起こらない。
まだ僅かに痺れは残っているが、先程感じた強い痺れを覚悟しながら力を込めて立ち上がる。容易く二本の足は私の身体を支えた。
「……あれ、本当だ」
「“ザゼン”すんの初めて?」
ラビは先程の精神統一の際にユウがしていた手と同じ形を作ってみせた。呆気なく回復したのが不思議で、半ば放心気味に頷く。彼は安堵を表情に浮かべ、私に足の不調の原因を教えてくれた。

ユウが行なっていたのは中国から伝わる坐禅という修行で、足を組む事による神経圧迫と血行の悪化が麻痺を引き起こすという事だった。
「声が聞こえたんで覗いてみたら、すげぇ剣幕で倒れてんだもん。びっくりさ」
私のようにユウの真似をして足が痺れてしまう探索班員が稀に居るらしく、今回も同様だと思って見に来てくれたらしい。
寸前までイノセンスが頭の中を占めていた為か、私は咄嗟にイノセンスが身体に異常を来たしていると思い込んでいた。紛らわしい発言でかなりラビを慌てさせた事だろう。
「大事みたいに騒いじゃって、ごめんね」
駆け寄って来る程心配された事に嬉しさを覚えたが、また頼りない姿を晒してしまったという後悔が浮れるのを許さない。
見直して貰いたいのに、どうして失態ばかり起きるのか。中々上手く行かない。
せめて落ち込んだ顔は見せまいと頬を緩めてみるが、彼は「今度は無理に立ち上がろうとして、怪我しないようにな」と、あの笑顔を見せて別れたのだった。

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