おまけ
リーマンパロディ その後

卵を二つ使ったオムレツは固めの半熟。横に添えてあるサラダとカリカリのベーコンをフォークで雑に突き刺し、パストラミビーフを幾重も挟んだサンドイッチにかぶりつく。胃がきゅっと切なげに縮んだのはほんの最初だけだった。
咀嚼の合間にコーヒーで流し込むと、騒ぎ倒していた腹の虫がようやく鎮まってきた気配が感じ取れる。

「多かったら残していいよ、って言おうと思ったんだけど」

ダイニングテーブルで天子と相対するように腰掛けた火野は、コーヒーカップのみを自分の前に置くと感心したように頷いた。

「お腹すいてたんだね」

「そりゃあ」

まともな食べ物にありつけたのは前日の昼。夜は酒とつまみを少々口にしただけの体で、今にも干からびてしまいそうなところに『できたよ』とほかほかの皿をいくつも並べられれば理性だって失う。
空腹という概念すら持ち得ない火野は、眼前のエネルギー源を黙々と摂取し続ける天子を物珍しげに眺めている。動物園で大好きな笹を貪る様子を客に観察されるパンダの心境。しかし食欲を前にしてはそれも些末なものだった。

「コンビニで適当に買ってきたから、あんまり良いものは作れなくてね。そんなにお腹減ってたならスーパー行けばよかったかな」

こちらを気遣う台詞に、天子はぶんぶんとかぶりを振った。普段の朝食と比べると差は歴然だ。自炊に縁のない身からすれば、生野菜など飲食店か社内食堂でしか摂る機会がない。口の中をいったん整理して、歯形のついたサンドイッチの断面を指差す。

「こんなんコンビニにあるんですか」

おつまみ系のコーナーで似たような燻製食品を見かけたことはあるものの、どう考えてもコンビニクオリティとは思えない肉の深みが天子の口内に広がっている。怪訝な面持ちで尋ねれば、火野は首を横に振った。

「それはもらいもの。親戚や親の知り合いがよくギフトとか贈って寄越すんだけど、消費できなくて溜まってるんだよね」

そういえば学生時代も、高そうな贈答品を部室や学食に持ち込んでは食べ盛りの周囲に振る舞っていた気がする。食材に恵まれ、それを活かす料理の腕もあるのに、当人の関心がここまで薄いのは前世の業としか言いようがない。うまいからいいけど。
彼が衣食住のうちで全く金をかけないのは食だけだと思うが、実際衣も住も大して興味はないのだろう。とりあえず質のいいものを無作為に選んでいるだけで、このマンションだって内装や調度は業者へ丸投げだったに違いない。寝るだけの場所と割り切っていれば尚更だ。

「ん? あれ、俺の服って…」

衣食住の衣でふと我に返り、天子はリビングをきょろきょろと見回した。昨夜はソファとベッドで盛大に脱ぎ散らかしたはずだ。今、身につけている下着は洗ってもらったのだとして、残りのスーツはどこへ消えたのか。てっきりどこかに掛けてくれているものだと思っていた。
ああ、と火野は手元のタブレットから目線を上げる。

「クリーニング出してるの。夕方には戻ってくるよ」

「え。あ、あぁ。それは…」

若干の気恥ずかしさに顔を背け、天子はわざとらしく咳払いをする。

「すみません」

「気にしないで」

昼間の陽光に相応しい爽やかな笑みで応答され、言葉に詰まった天子は複雑な心境でパンの咀嚼を再開する。が、すぐに首をちょいと捻って尋ねた。

「クリーニング出してんのに仕事行けるんですか――って、行けるか、俺じゃねえし」

大学の式典も就活も現在もリクルートスーツ一着で凌いでいる天子と違って、火野は、というか一般の社会人は予備があって当然だろう。訊くまでもなく自己完結した天子に、ふふっと彼が不意に笑い出した。天子もつい、言い訳めいた台詞を並べてしまう。

「いや、俺だってそのうちちゃんと買おうと思ってたし…」

「ううん、そうじゃなくて」

「?」

「僕のはクリーニング出してないの。捨てちゃった」

「は!? なんで…」

あっけらかんとした口調の火野にぎょっと目を剥いた天子だが、全てを声に乗せる前に合点がいった。昨夜のあれこれを思い返せば、無事であろうはずがないのだ。
初めての性感と緊張その他興奮で下肢の有り様はひどいものだった。あちこちで触れたり擦ったり撫でたり、汚れは飛散する一方だっただろう。体を開かれる痛みに耐えるべく、力任せに引っ張った繊維もたびたび悲鳴を上げていた。最終的に彼のスーツがどんな末路をたどったのか、正直あまり想像したくない。

「――弁償します?」

手取りをざっくり暗算しながら重苦しい声で告げると、火野は微笑んだまま緩くかぶりを振った。

「やだなぁ。新卒の子からお金取るようなことしないよ」

スーツにてんで詳しくない天子も、たかが初任給では額面ですら値段に届かないことはわかっている。そもそも汚れるのが嫌なら脱いだはずで、使い道に困るほど有り余っている金の持ち主が、この期に及んで請求してくるわけがないと踏んではいたが。

(そんでも、何十万が一晩で消し飛んだってことだからな)

苦い顔で苦いコーヒーを啜る。庶民の自分は平気な顔でそうですかと頷けはしないのだ。
火野は由姫や他の富豪に比べれば金銭感覚が身についている方だが、『泡銭はさっさと使っちゃうに限るよ』と時々恐ろしい額をあっさり消すので心臓に悪い。

「初任給、何に使うの?」

「え? あー……」

学生時代にもバイトで小金は稼いでいたが、社会人になって初めての給料は重みが違う。配属前の研修とはいえ真面目にこなしてきたのだし、会社には今後の貢献でペイするとして、それなりの額を頂きたいものだ。

「炊飯器?」

普段買えないもの、と考えて思い当たったのは家電製品だった。え、と火野は顔を上げる。

「なかったの? 大学の頃は持ってたよね?」

「去年ぶっ壊れて捨てました」

「それからどうしてたの?」

「なんかレンジで炊けるやつ?みてぇなの買ったけど一合しか炊けねえし、まとめて炊いて冷凍しとけって水川に言われて、んじゃ買うかって」

スーパーの半額惣菜を買って家で米を炊くと無駄がない、と宣う同期もいた。今のところ夕食は外で済ませてばかりだが、やはり金がかかるので何とかしようと思っていたところだ。白米さえあれば、あとはどうとでもなるだろう。火野が小さく笑った。

「じゃあ尚更お金は大事に取っておかないと」

「つーかこの家、炊飯器あります?」

「ないよ」

キッチンを一瞥した天子は深く頷きながらサンドイッチをかじった。予想と違わぬ答えだ。彼が口にするのは気体と液体がほとんどと言ってもよかった。そもそも米が買い置きしてあるのかも怪しい。

「なんか、もう少し固形物食べた方がいいんじゃ…」

「んー、そのうちね」

気のない返事でさらりと流し、

「でもてんこがご飯食べたかったら、ちゃんとお鍋で炊けるから大丈夫」

「は? あ、あぁ、はい…」

曖昧に頷きながら、この食事のおかげで生活感が宿り始めたキッチンを見返す。『今日一日は安静に』と言われたが、これはもしや、夕食まで振る舞ってくれるつもりなのか。

(いやでも、仕事行くんなら俺帰った方がよくね?)

留守中に他人をひとり家に置いておくのは、いくら気心が知れていても不用心ではないか。そして居る側もちょっと図々しくはないか。全く歩けないわけでもないので、さすがにそこまで世話になるのは申し訳ない。でも、でもでも。

(とか言いつつ、居られるなら居てもいいかなんて思ったりはするけど)

先程聞いた感じでは、仕事もさして長引く用事ではなさそうだ。どうせ月曜が始まればまたしばらくは会えなくなるのだから、ここはひとつ弱ったフリをして、もう少し余韻に浸っていたい気持ちもある。
悩ましい想いをぐるぐると溜め込みつつ明るいリビングを見回せば、チェストの上に置かれた小さなトロフィーが目に入った。金の地に刻まれた文字を遠目から読んでいると、あ、と火野が視線の先を追ってきた。

「あれね。去年のプレゼンでもらったの」

「あー、やっぱり」

『優秀賞』でおおよそ察していたが、予想は当たったようだ。あれを初年度で授与される気分はどれほどのものだろう。

「どっかで見たことあるなって」

「ああ、研修で見せてもらったんだね。僕もその前の年のものを映像で見たよ。そういえば」

コーヒーカップをすとんと戻した火野が笑みを浮かべる。

「どうして彩音ちゃんにコピーなんか頼んだの?」



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