holiday
ひのてん短編

〈7:00〉

「ーー起きるか」

数分前に目覚めてすぐ携帯に手を伸ばし、操作している間にぐるると腹の虫が鳴き出した。普段より遅い起床で当然腹も減っている。眠り足りない気持ちもあるが、空腹には勝てない。
ベッドを抜け出し、寝間着のまま階段を下りて洗面所に向かう。誰も起きていないらしく、家の中は至って静かだ。顔を洗って歯磨きを済ませ、トイレを経由してキッチンへ。もちろん朝食は用意されていない。唯一、炊飯器だけがタイマーで米を炊いておいてくれた。仕方なく冷凍庫をあさる。
唐揚げにフライ、チャーハンにカレーに牛丼の具。共働きの両親は冷凍食品のストックを欠かさない。凍った唐揚げをいくつか皿に出してレンジに突っ込み、冷蔵庫からすぐに食べられそうなものを失敬する。主に納豆だ。

(ろくなもんねえな)

かき混ぜた納豆に付属の辛子、そしてラー油を振り入れ、唐揚げと米を掻き込む。
黒胡椒たっぷりのベーコンエッグが食べたい。あの人なら、フライパンでささっと作ってくれるのに。茶色い朝食を咀嚼しながら思う。
五分で食べ終え、また自室へ戻っていく。夜更かしのせいで四時間睡眠だ。もう一眠りしよう。

〈8:00〉

「ん……」

体が重い。日が上ってから寝付いたものの、結局深い眠りは訪れなかった。
緩慢に体を起こし、サイドボードの箱をつぶすように掴み取った。筒の先端にかちりとライターで火を灯すと、いかにも健康に悪そうな煙をフィルター越しに吸い込む。ようやく頭に血が巡ってきた。
猫背のまましばらくベッドに座り込んで、血圧が上がるのを待つ。低すぎるからこれでちょうどいいと言ったら案の定、幼馴染に叱られた。節制したって、延命するわけでもないだろうに。
一本すっかり使い尽くしてから腰を上げ、気怠い心身を引きずって浴室へ向かった。眠れないのなら起きた方が有意義だ。普段通りにシャワーを浴びた。

(相場どうなったかな。荒れてそうだけど)

リビングに戻ってコーヒーを淹れ、PCを覗いてみる。某銘柄が急激な下降線を描いており、ふうと息をついた。別モニターで掲示板の阿鼻叫喚を眺めつつ、ひたすら検索に勤しむ。上がる見込みがあるなら買い時だが、果たして。
金に困ってはいないから、基本的にハイリスクハイリターンの勝負はしない。日頃から情報収集を重ね、少額でも絶対に上がる手堅い相場だけを取引する。やりたい時は朝から晩までモニターと張り付き、やりたくない時はリスクヘッジに留めておく。実益を伴う趣味としては、自分にすこぶる合っている。

窓の外は嫌になるほどの晴天だ。外に出て遊びなさいと責められているような気分。
液晶に向き直り、キーボードを打ちながら時間をつぶしていく。

〈10:00〉

NEON-10。高浪にある唯一のゲームセンターだ。
家族連れがクレーンゲームやメダルゲームを楽しむ、今風の明るいアミューズメント施設とは似ても似つかない、ひと昔前のひっそりとした雰囲気がここには残っている。灰皿が一台一台に付属したパチンコスペース。未だ不良がのさばる薄暗い店内。ちゃっちい景品ばかりの古いクレーンゲーム。
通い始めて十年が経つのに、この場所だけは時が止まっている。きらびやかなリズムゲームだけが異質で、道路工事のツギハギのような違和感を覚えた。

「よお」

「おう」

入口のカウンターで暇そうに雑誌を読んでいた中年の男が、僅かに顔を上げて挨拶してきた。天子も軽く返して先へ進む。店側の人間だが、彼がオーナーか従業員かすら天子は知らない。
まずは肩慣らしにといつもの2D格闘ゲームを確保し、CPUのレベルを上げながらコマンドを駆使して倒す。
古い機種にはオンライン対戦なんてハイカラな機能は備わっていない。しかし新機種はスティックがやけに滑りやすく、どうにも調子が出ないのだ。慣れ親しんだ台を占拠してしまう。

「調子良さそうじゃないかい」

ノーダメージで対戦を完遂したところに、背後からしわがれた声が届いた。天子は振り返りもせず、不遜な態度で応じる。

「まだ生きてやがったのか。しぶといババアだ」

「バカ言うんじゃないよ、ヒヨッコのくせに」

波打つグレイヘアを揺らし、女性は突いていた杖を慣れた様子でゲーム機に引っ掛ける。とうに曲がった腰を粗末な椅子に乗せ、ポケットから百円玉を取り出した。クレジットが切れた天子も金を追加し、老女も当たり前のように同じ投入口へコインを押し込む。
いつからかは忘れたが、彼女とは顔を合わせる度に格闘ゲームで対戦している。時に悪口雑言を交わしながら、全力で相手を叩き潰すーーのだが。

「だーーーっクソがああ!」

「ざまあないね。天子なんて名字やめてヒヨコに改名しな」

高笑いしながら去っていく老女を睨みつけ、悔しさにぎりぎりと奥歯を噛み締める。
そう。天子はただの一度も、彼女に勝てた試しがないのだ。噂によればNEON開業当初から通っていたらしく、だとすればキャリアには三倍の差がある。
スティックを握りしめ、血走った目で百円を投入する。勝ち逃げなどさせてたまるか。奴が存命の間に、何としてでも一泡吹かせてやらなければ。

〈12:00〉

(…あ。寝てた)

変化のないPC画面に飽きて眼鏡を外し、ソファで横になったことまでは覚えている。麗らかな日和のリビングで、つい眠ってしまったようだ。多少なりとも寝不足が解消されたのか、朝よりずっと体が軽い。

(これなら動けそうかな)

家に引きこもるのも悪くないが、一人暮らしの休日はやはり退屈だ。読書とパソコンは夜でもできるし、昼のうちに図書館へ行ってみよう。借りたい本もいくつかリストに溜まっている。
紙パックのアロエジュースをストックから取り出して、付属のストローを突き刺す。独特の苦味と、その奥の奥にある微かな甘味をじっくりと流し込んで。栄養補給は完了だ。

〈14:00〉

「天子。蓮華に行くならこれよろしく」

「俺はパシリじゃねえし用があるのは駅ビルじゃねえ」

手提げに入った本の束をずいと差し出され、天子は渋面をつくって親友を睨んだ。頼むよ、と朗らかに、決して折れない笑みで佐藤は応じる。

「返却期限が今日なんだ。でも今日は外に出たくない。どうすればいいと思う?」

「返せねえものをそもそも借りるな」

「今どうしたらいいかを考えてよ。ほら、いいものあげるから」

乱雑なテーブルから引き抜かれたのは折れたクーポン券。駅前のドーナツチェーン店だ。ドリンク一杯無料。はした金に等しいが、昼食を奢らせたことも考えればそこそこの駄賃になるだろう。

「ちっ」

紙切れを奪い取って、重たいバッグを提げる。行ってらっしゃいと腹立たしい声に送られ、天子は最寄り駅を目指した。

〈14:30〉

駅ビル・ラモーブ内の市立図書館は四階と五階の2フロアにまたがっている。四階は児童書と文芸、趣味、雑誌など一般的な書籍が並ぶ。五階は主に専門書で、歴史や科学、市の郷土資料が閲覧できる。
火野が通うのは専ら五階だ。四階は性質上、子供や学生が多くざわついているが、五階は人も少なく静まり返っている。ソファでゆっくりとページをめくる時間は幸せだ。この世に本がなければ退屈で死んでいたかもしれない。

(たまには四階も見てこようかな)

一人暮らしの静寂に飽きていたところだ。刺激を求めるのも悪くない。バラエティに富んだフロアを目指し、階段を下りていく。
案の定、休日の四階はざわめきに満ちていた。駆け回る子供を注意する司書。新聞を握って寝落ちする中年。ふたりでひとつの雑誌を見つめるカップル。いっそ笑ってしまうくらいみな自由だ。

「ご返却ですね」

「はい」

火野はぴたりと足を止めた。入口横の返却コーナーで、聞き慣れた声がした。視線を移せばよく知った姿があり、あまり考えずに足を向ける。

「てんこ」

用事が済むなり踵を返した後ろ姿に、そっと声をかけた。びくっと跳ねた肩越しに、天子が驚いた表情で振り向いた。

〈15:00〉

「珍しいね。本、借りてたの?」

「え。いや、知り合いが借りてたやつを返しに来ただけです」

「ああ、そうだったの」

火野が度々ここへ通っているのは周知の事実だが、まさかピンポイントで会えるとは思っていなかった。つい昨日も部室で顔を合わせたのに、休日というだけで不思議と胸が高鳴るのは何故だろう。

「あの」

ポケットの中で紙切れを握りしめて、おずおずと言葉を発する。違う意味の誘いなら何度となく実行しているが、健全に誘うのもなかなか勇気が要るものだ。

「お茶でも、します…?」

〈15:30〉

「まさかご馳走してもらえるとはね。ありがとう」

火野は小さく笑ってコーヒーに口をつける。ラモーブ向かいのドーナツ店で、道行く人々を眺めながらカウンター席に落ち着いた。横で天子はコーラを啜り、時折エビグラタンパイをかじる。

「今日はずっと図書館にいたんですか」

問い返されて少々言葉に詰まった。とはいえ、己の自堕落な生活は彼も承知の上だ。取り繕う必要はない。

「午後はそうだよ」

「午前は」

「朝はパソコンチェックして、あとは寝てたね」

ふうん、と天子は頷いた。その相槌に何故か安堵して、火野が続ける。

「人の干渉を嫌って一人で住むことを選んだけど、時々は人に会いたくなるんだ。会うというか、人がたくさんいる場所に行きたくなるの。学校もそう。休みの日もこうして街に下りてくる。大げさに言うと『生きてるのは自分だけじゃない』って実感が欲しいんだ」

遠ざけたいのに、近づきたい。違うのに、同じでありたい。つくづく勝手な思想だ。聞かされた方も反応に困ってしまうだろう。

「別に、それは普通じゃないですか」

さくさくのパイを咀嚼しつつ、天子は当然のように断定する。雲は白いに決まっている、とでも言うみたいに。

「人間、そういうふうにできてるんだし」

「ふつう」

火野がゆっくり反芻すると、はっとした天子が慌ててかぶりを振る。

「違う! 大した悩みじゃないだろって言いたいんじゃなくて」

「うん。わかってるよ」

何かにつけて『普通じゃない』と指を差され続けてきた自分にも、ごく普通の悩みは存在したのだ。それを当たり前だと認めてくれることが嬉しかった。
満足そうに微笑む火野をよそに、天子は目を合わせず呟く。

「そもそも、誰かに会いたいって気持ちがないと、その…俺が一番困るわけで…」

言い過ぎたと思ったのか、火野の反応を待たずして猛烈な勢いでパイを片づけ始めた。忙しなく動く口元を眺め、昼に相応しくない欲を見出しそうになる。

「今日が休みでよかった」

君に会えて、本当によかった。


〈23:00〉

湯上がりの体を性急に抱き寄せられて驚いた。濡れ髪から零れた雫が首の後ろを伝えば、甘露を追うように舌が這わされる。裾から潜り込んだ手は既に腹を撫でていて、長い夜の気配にそっと息を吐いた。
この部屋に泊まりたいと言い出すのはいつも天子の方だ。無論、それは『繋がりたい』という意思表示でもある。故にこうして彼から求められる時は、自分で誘う以上の緊張と興奮に苛まれる。少しでも肌を撫でられればびくりと身動ぎ、熱を持った場所から蕩けていくような感覚に陥るのだ。

(明日も休みでよかった)

振り向きざまに唇を奪われる。乱されていく思考の中で実感し、おとなしく目を閉じた。


TOP

×