Anniversary
リーマンパロディ その後

(こういう生地なら、下着はいらねえってことだよな)

畳まれたそれをそうっと広げてみる。フリーサイズなのか、羽織ってみると足首が若干覗く程度だ。生地も思ったよりゴワゴワしていない。このまま寝てしまってもいいくらいだ。
髪を拭くためのタオルを一枚失敬して、天子は部屋に戻っていく。パーラールームに通じるドアを押し開けると、電話でもしているのか、改まった恋人の声が耳に流れ込んできた。

「ええ、そちらの進捗は予定通りです。一昨日お伝えした案は製品課に掛け合っているところですが、発注した材料が納品されていないので連休明けまで待ってほしいと連絡が――」

天子の気配に気づいた火野が振り返り、視線がかち合う。ちょっと待っててね、と口の形だけで伝えて天子を留め、テラスに出た彼はほんの一分で会話を終わらせてきた。

「ごめんね、連絡してこないでって言ったのに聞いてくれない人がいて」

「いや、いいですけど。大丈夫なんですか」

役員会まで間があるとはいえ、仕事を定時で切り上げることが開発課にとっていかに負担か、天子にだってわかっている。少々の罪悪感が胸をちくちくとつついてきたが、火野は仕事用のスマホの電源を躊躇なく落とし、ソファへ放り投げてしまった。

「いいの。やらなきゃいけないことは終わらせてきたんだから」

そう言うと天子が握っていたタオルを引き抜き、今にも雫が垂れそうな髪を優しく拭ってくれる。それにしても、と火野が首元から足先までを眺めて微笑んだ。

「可愛い格好してるね」

「別に着たくて着たわけじゃねえし、パジャマあるならそっち着ます」

似合ってるのに、と彼は嘘か本当かもわからない言葉を口にした。丁寧なタオルドライに身を任せる。
――満たされた腹。温められた体。そして、愛する人の手の感触。心地よくて、とろとろと微睡んでしまいそうになる。

「眠いの?」

耳元に寄せた唇で低く囁かれ、触れそうだった瞼の上下がぱっと離れる。

「僕がお風呂から上がるまで、寝ちゃダメだよ」

甘く淫らなことを命じるような声色は、あの夜のどこかで聞いた覚えがあった。
ぽんとタオル越しに頭を撫でて、火野は横を通り過ぎていく。バスルームへのドアが閉まった音を境に、天子の体からふっと力が抜けた。頬の熱がタオルに伝わるだけで、髪がからりと乾いてしまいそうだ。

(あの声、マジで全っ然慣れねえ)

備え付けの冷蔵庫は飲み物が豊富に揃っていた。当然有料だろうが、部屋を与えられたからには好きにしてやる。赤みの残る頬に、冷えた炭酸飲料の瓶をぺたりと押し当てた。
冷蔵庫のドアを行儀悪く足先で蹴ってしまい、誰が見ているわけでもないのに、慌てて手で閉め直す。蓋をポンと開けて、瓶に直接口をつけた。ぐっと中身を呷れば、品のない炭酸にじりりと喉が焼けつく。
ソファに深く腰を埋めて、やり場のない感情を鎮めようと躍起になってしまう。

「こんな気分で寝られるわけねえだろ」

はー、と額を押さえてため息をこぼした。思春期でもないのに、脳内が瞬く間にピンク色で埋め尽くされていく。夜景だのシャンパンだのロマンチックな代物にはときめかないが、迂遠的にでも誘われればあっさりそういう気分になるのが男であって。
しばらくの間そうしてジレンマを抱えていたが、欲に負けた天子はすっくりと立ち上がった。ドアがなく一続きになっているベッドルームをこっそり覗きに向かう。
寝室の中央には彼のマンションのものよりさらに大きいベッドが鎮座していた。頑張れば横にでも寝られるのではないか。大小の枕がいくつも並べられ、高級感溢れる金刺繍がリネンのあちこちに施されている。とても気軽に汚せそうなものではない。恋人同士しか泊まらない部屋とはいえ、大丈夫なのだろうか。

(ここで…)

意識すると途端に羞恥が込み上げ、ごく、と生々しく喉が鳴る。足裏に高級カーペットの感触を覚えつつ、じりじりとベッドに歩み寄っていく。
ふんわりとしたデュべカバーの白に、落ち着いた紫のベッドスローが映える。リッチなホテルに縁のない身からすれば、枕元の細長い円柱クッションもベッドの足元にさりげなく置かれたソファも謎でしかない。正面のテレビを見るためか。金持ちは椅子やクッションを多用したがるらしい。

「マジで横に寝られるんじゃね?」

ベッドに飛び乗り、高反発性を確かめながら身を横たえてみる。旅先ではしゃぐ子供よろしく、好奇心が勝ってしまった。どうせ自腹で泊まる機会など一生ない。
仰向けであれば、体がギリギリ収まる程度。頭と足を落とさず眠るのは難しいが、やはり彼の家のものよりは大きい。むくっと起き上がって本体の検証を終える。

(あとはやっぱこの辺か)

壁掛けのベッドランプの下。小さなナイトテーブルに手を伸ばし、二段の抽出を順に開けていく。いずれも中身は空っぽだ。ビジネスホテルと違って、諸々の案内が入っていたりはしないのか。

(………ん?)

ふと顔を上げた天子は、パーラールームへ続く入口を何気なく振り返る。壁にもたれた火野が、何をしているのかと興味津々にこちらを眺めていた。
驚いた拍子に間抜けな声がこぼれ、天子はその場で跳び上がる。

「びっっっくりした…」

いるなら声を掛けてくれればいいものを、黙って観察とは趣味が悪い。ごめん、と悪気のなさそうな笑顔で彼は近づいてくる。

「遊んでるみたいだったから、そんなに気になるものがあったのかなって」

ゆるりとしたローブから覗く足首。髪をきちんと乾かした彼は、徐に天子の濡れ髪を撫でる。

「風邪引くよ」

「別に、いつも放置してるし」

髪が指の間を抜ける感覚に鼓動が高まる。
結果的にベッドルームで待つ形になってしまい、いかにもそういうことを期待していたように思われたら恥ずかしい。火野は基本的に入浴時間が恐ろしく長いので、探索していても知られないだろうと高を括っていたのに。

「いつからいたんですか」

「身長でベッドの幅を測っていた辺りかな」

子供の奇行を微笑ましく見守る表情に羞恥が込み上げてきた。開き直って舌を打ち、ベッドに後ろ手をついてぽんと腰かける。

「………」

なんと言ってよいのかわからず、押し黙ったままおずおずと彼のローブを摘まんで引いた。小さく笑った気配ののち、折り畳んだ眼鏡がナイトテーブルに置かれる。

「っ……」

腰を下ろした彼にきつく抱き締められて息を呑んだ。厚い生地を隔てて尚、頻繁に脈打つ心音が伝わってしまいそうで。

(昨日もしただろ)

ソファに誘われ、あの夜傷ついた体を労るように優しく触れられて。言うまでもなく気持ちよかったけれど、こちらだけ一方的に高められるのは寂しい。

「んっ!」

つつーっと背筋をたどり下りる指に詰まった声が漏れる。悪戯に成功したような笑いが耳元で発せられ、ローブに包まれてもなお細身の体を自分から抱き寄せた。肌の間に立ち込めるボディウォッシュの香りに頭がクラクラする。

「そういうの要らないんで」

「じゃあどういうのが要るの?」

ああもう、もどかしい。
この状況で、この場所で、下らない問答ができるほど理性的でいられるわけがない。

「ん……っ」

背を伸ばし、首に腕を回して口づける。後頭部を支えるように片手が髪に差し込まれ、その感触にさえ容易く心臓が揺れた。滑り込んできた舌に翻弄される。

「んぅ、んっ……」

舌の根元から捏ね合わせる動きに、ずくんと腰が重くなる。唾液ごと絡めながら舌先を吸われ、息継ぎもままならない。自ら仕掛けておきながら、相変わらず彼のペースに巻き込まれてしまう。

「っは……、んっ」

長い口づけから解放されると、濡れた口許をローブの袖でちょいと拭われた。舌に残る甘みをこくりと飲み下し、手を引かれた拍子にまっさらなシーツへ倒れ込む。ゆっくりと覆い被さってきた彼に再び唇を塞がれ、抵抗しようと浮かせた手首も優しく縫い止められた。


next

×