うぬは良い子だな。
そう言って頭を撫でるのが、彼の癖なのだと思っていた。
自分だけが特別だとは思いもしなかった。
だから、彼をこっそりと観察するようになり、癖だと思っていたその所作や言葉が他の者に向けては現れないことに、なまえは少なからず驚いたのを覚えている。
彼がなまえの髪に触れる、その仕種はとても優しい。
だからなまえは、彼が混沌を呼ぶ風だという噂話が俄かに信じられなかった。
何物にも縛られない彼の存在がなまえの中で大きくなることは、いつしか必然に変わっていった。
「なまえ、悪いが風魔の奴を呼んできてくれ」
それはある日の出来事。
氏康に呼ばれ、掛けられた言葉がそれだった。
「分かりました。小太郎様はどちらにおいででしょうか」
「俺は知らんが、お前ならすぐに見つけられるから心配すんな」
急いで俺のとこに来いって言っとけよ。
後ろ手にひらひらと手を振りながらなまえを見送る氏康に、どうして私ならすぐに見つけられるのかという疑問はぶつけられないまま、なまえは仕方なく当てもないままに廊下を突き進む。
きょろきょろと辺りを見回してはみるものの、思い当たる場所などありはしなかった。
氏康に急げと言われた手前、あまり時間を掛けられないことは分かっていたが、広い城内のどこを探せば良いのやら、なまえには皆目検討もつかない。
「呼んで来いって言われても、どこにいらっしゃるのか……」
「誰を探して居る?」
「わっ…小太郎様、」
突然の声は、なまえの背後から聞こえてきた。
まるで最初からずっとその場に居たかのように、不自然なくらい自然に、小太郎は廊下の壁に背を凭れて佇んでいる。
なまえは驚きでどきどきと脈打つ心臓を静めるように胸に手を当てながら、ふうと小さく一呼吸吐いた。
「小太郎様、氏康様がお呼びでした。急いで来てほしいと…」
「クク…それで先程からそのような顔をして我を探していたのか…」
「わ、たし…どんな顔をして……」
言葉を遮るように、小太郎は一歩でなまえとの距離を詰める。
長く綺麗な指先が、そのままなまえの顎下に添えられると、瞳を重ねることを否応なく強制させられた。
「足取りも表情も、嬉々としていた…。まるで愛しい者を探しているかのようにな…」
「そん…な、」
小太郎の口元に、薄っすらと笑みが浮かぶ。
それだけで頬を染めたなまえの身体は、金縛りにあったかのように動けなくなった。
「なまえ、うぬは良い子だな…。褒美をやろう……」
焦点が合わせられず、ぼやけた小太郎の顔。
驚く暇もないほど素早く重ねられた唇。
互いの唇が離れても尚、なまえの頭は現状を理解することが出来なかった。
「さて、煩い氏康の元に行くとするか…」
何事もなかったかのように、いつもと同じくなまえの頭を撫でた小太郎は、さも面倒だと言わんばかりにポツリとつぶやくと、今度は最初からその場に居なかったかの如く、なまえの前から姿を消した。
嗚呼、やはりあの方は混沌を呼ぶ風なのだ…。
一人残されたなまえは、己の唇にそっと指を這わせながら、熱を帯びた頬を隠す術を探すばかりだった。
指先に愛を込めて