晴るるソラ




* 29話ネタをふんだんに含みますご注意






 いよいよ明日からだなという呟きに、黒尾と海は揃って顔だけを声の主、夜久の方へと向けた。
 声音と同じく弾むようにとんとんと先に、リズミカルに階段を降りていった彼は、一番下まで行ったところで後続の二人を待っている。
 夜久は小柄な方だ。追いついた黒尾達をやや上目に見あげる姿勢が変わらないことについて、彼は時たま恨めしげに海を睨むことがある。何故なら入学当初はほとんど変わらなかった背丈も、海ばかりがぐんぐんと伸びていってしまったのを羨んでいたために。元から大柄で一年の時から頭一つ抜けるようだった黒尾は、その対象に入りはしなかったが、ボールを取る時など屈んだ瞬間を狙うように奇襲をかけられることはあった。
 馬跳びしてきたり背に乗っかってきたり頭にボールを乗っけてきたりと、どうでもいい悪戯ばかり思いついては実行していた夜久もさすがに、二年生になってからあまりそういうことをやらなくなったのは、上級生になっての落ち着きか。はたまた下級生からの目を気にするようになったからなのかは分からない。
 そんな夜久が言う、明日が指すもの。
 何がなんて分かっていたが、話を振られたからには応じなければと、黒尾は口を開いた。

「……おう」
「ああ、そうだな」

 同じことを思ったのだろう、黒尾の声に海の声がちょうど重なって廊下に響く。そこで夜久の背負うエナメルバックがぶんと上下に煽られ、勢い良く身を翻した彼は正面から黒尾と海に向かい合った。

「三年が引退して、俺達の代が中心になるんだ。なんだろうなこの解放感」

 唇の両端をつり上げて心底楽しげに言う夜久に、海は苦笑して黒尾も肩を竦める。
 全面的に同意であれど、これだけは言っておかねばと、黒尾はちらりと夜久を一瞥した。

「だからって調子乗んじゃねえぞ。その分俺達の責任も重くなるんだからな」
「もちろん分かってるって。ちゃんと下の面倒見ながら、もっと練習していかないとな。まあ、部の空気を締めるところは、やっぱお前が一番適役だと思うけど」
「俺もそう思うな。そうだろ主将?」
「まだだっつーの」

 それこそ明日からだと、ぴしゃりと黒尾が突っぱねても夜久と海は悪戯っぽく笑うばかり。何がおかしいんだかと、黒尾は鼻を鳴らしてさっさと昇降口へ向けて足を進めることにした。
 二年生は満場一致で黒尾を次期主将に推挙したし、面子からして自分がやるしかないだろうということを黒尾自身も分かっていたので、昨日あった全体ミーティングでの代替わりも特に滞りなく進んだなと。黒尾はふと思い出す。
 ……滞りはなかったが、やや微妙な空気が漂っていたことくらいは、しかと気づいていたが。
 その理由は直前に行われた、ある意味部の伝統である『追い出し試合』……――三年生対二年・一年のチームで行った試合で、二年と一年のチームが三年生達に完封勝利したことだった。
 向こうの油断も多分にあっただろうが、黒尾にしてみればこんなのは当然の結果でしかない。黒尾は自分達の実力が三年生達に遜色ない自信もあったし、何より自分達を動かす『頭』の質が段違いだ、これで勝てないはずはないと思っていたのだから。
 別段、三年生達と不仲だったわけではない。部を回すために必要な上下関係はあると黒尾は考えているし、入部から今まで彼らには面倒をみてもらったとも思っている。
 だがいくら良い先輩がいたといえ、節々で同学年を御しきれず、下の学年に対し『関係の押しつけ』をしているところも多々見てきたので……全体として、彼らを眺めてみた時に。ほんの少し、黒尾には個人的に思うところがあったので、常より気合いが入っていた自覚はあった。
 おかげでその試合後、現三年生の主将から「後は任せる」と言われて握手を求められた際のこと。
 にこやかに「任せてください」と返事をすればいいところでつい、「そんなことは当然です」とうっかり嫌味混じりに口を滑らせてしまい、夜久と海には後ろで吹き出されるし後をフォローしなければならないしと、やや面倒なことにはなったものの……。

「――俺達はもっと強くなる」

 それでもこれからは、自分が全員をまとめ上げ、更に上へと登っていくのだと。
 そんな決意に、零れるようにして黒尾の唇から発せられた言葉に、夜久と海は表情を引き締めて一つ大きく頷いた。その姿を頼もしいと、黒尾は思う。
 ……先ほど出てきた部室に体育館、明日からの空気はきっと違うものになるだろう。コートに立つ自分とチームメイト達と。音駒高校の男子バレーボール部は、また一つ変化を果たす。
 黒尾達にとっての一つ目の変化は、猫又監督が復帰したことだった。それにより、ここ数年まともな指導者がいない間に出来上がっていた、年功序列のスタメン制度は今回の三年生引退を機に完全になくされる。実力主義、学年の上下が関係なくなれば、より適正なメンバーが選出されて部内の切磋琢磨にも磨きがかかることだろう。音駒を構成する細胞の新陳代謝がこれで活発になる。

(そして今度は、『脳』の入れ替えだ)

 黒尾にとってはそれが一番の変化で、何よりも重要なことで。
 脳裏に浮かんだ一人の少年を思い、黒尾はぽつりと呟いた。

「これで研磨も、もっと部活に身ぃ入れてくれるといいんだけどな」
「まぁたお前の可愛い研磨か!」
「可愛いっておい」
「一日一回は絶対聞くよな、その名前」
「うるせえなぁ夜久、海、お前らだってあいつの実力は分かってるだろ!」

 先の追い出し試合で完全な勝利を収めたのは、研磨……黒尾の幼なじみである一年生、孤爪研磨がセッターを努めたからだ。三年生達一人一人の特徴をしっかりと把握し、的確な指示と戦略を立ててゲームを運んでみせた研磨のことは、夜久も海も一目置いているはずで。
 しかし黒尾が問題にしている点と、夜久と海がからかっている点はズレていた。そうと黒尾が分かっていないのをいいことに、にいっと笑った夜久はそういえばと、開いた掌をぽんと拳で打つ。

「研磨のやつがクロに首根っこ掴まれて、体育館に引きずり戻されてきたこと何回あったっけ?」
「そんなん数えきれるか。あいつがフラッと休憩で外行ったまま戻ってこねえのなんて、昔っからのことだし」
「研磨か。俺、顔見て話してもらえるまで半年かかったな」
「マジかよ海! 俺はどうだったかなー」

 多分三ヶ月だ、という夜久の言葉に、研磨の相変わらずの人見知りぶりを目の当たりにしたようで黒尾は閉口した。
 幼なじみである黒尾には今更何もないけれど、研磨はそういった性格に加えて口数も少なく愛想だって良くはない。それでも嫌われることがほとんどないのは、偏に他人に踏み込まれぬよう目立たぬようにと普段から振る舞っているためで、小さい頃からそういう所はちっとも変わらないなと黒尾は呆れた。……ちなみに、なぜ夜久と海で打ち解けるまでの期間が異なるかは、ぐいぐい迫ってくるタイプの方が研磨の根負けが早いからだと黒尾には分かっている。

「……とにかく、中学の時は人数が少なかったから上も下もなかったし、元々研磨は合理的に効率的に考えるやつだから、現三年と馬が合わなくても仕方ねえんだよ。そのせいであいつはこれまで何度もバレー部を辞めようとしてたが――もう、そんなことはなくなる」
「クロ?」
「研磨は絶対に俺達を強くする。だから俺達は研磨が揺るがないために、あいつを動かす『血液』になるんだ」
「また変な例えして」
「まあまあ、いいじゃないか、一体感がある感じでさ」

 夜久が呆れたように言い、海が朗らかにフォローを入れる。それを聞きながら、黒尾はじわりと腹の裏にこみ上げてきたものに目を伏せた。
 ――俺はまた。また、あいつと一緒のコートに立っていられるのだと。
 静かに拳を握りしめた黒尾の雰囲気に、夜久と海は顔を見合わせ、これは余計な茶々は入れない方がいいなと一歩半分の距離を置いたところでちょうど、三人は昇降口に辿り着いた。
 ここを出れば自転車通学の夜久達は黒尾と別れる。一足早く外に出て、門の所でぽつりと佇む影を発見した夜久はぱしっと黒尾の背を叩き、海は微笑みながら手を挙げた。
「じゃあなクロ!」
「また明日」
「……ああ」

 自転車置き場へ向かう二人に手を挙げ返したものの、黒尾の顔はそちらを見ていない。
 グラウンドを越えた先にいる、先ほど話題になっていた人物……研磨の猫背を目に留めながら、黒尾は自然と早歩きになった。




「――……研磨!」
「クロ」

 呼ぶ声にぴくんと体を揺らし、すぐに振り向いてきた研磨は、いつも通りのどこかぼんやりとした顔をしている。そして彼の横に並び立てば、じっとこちらを見つめてくるのも変わらない。暇つぶしに使っていたんだろう、アイフォンを握りしめたまま。
 ポンと黒尾は研磨の背負うリュックサックを押して、

「帰るぞ」
「うん」

 そう一言言えば、二言目の応諾、それで会話が途切れた後は二人、黙々と足を動かすだけだった。

 今日の部活動は休みだったが二年生には部室で学年ミーティングがあったため、黒尾は研磨へこのくらいの時間に校門で待っているようにと、前もってメールを送っていた。
 ここから駅まで歩き、そこから数駅電車に揺られて、互いの家のすぐ側までを共にする。
 並んで行き帰り、二人にとっては小さな頃から当たり前のこと。昨年の空白を経て再開された習慣に、どちらかが先に帰るという選択肢は、互いの中になかった。
 歩を進める道はなだらかに曲がっていて、沿うようにして左手に土手と川が見える。夕陽を反射して水面を真っ赤に、影になったところを黒々とさせて粛々と流れ続けている。
 まるで血液だ、と、先ほど夜久達へ自ら放った言葉を黒尾は連想した。

「……クロは」
「?」

 半歩分後ろにいる研磨の方から、話しかけてくるのはちょっと珍しい。
 黒尾が足を止めて振り向けば、研磨もまたスニーカーの下の小石をどかしながら、俯けていた顔を上げた。
 緩やかに吹き抜けた風に、さらさらと音を立てているんじゃないかと思えるほど、艶のある黒髪が舞い上がって。その一筋が真ん中の分け目を越えて、研磨の額にかかった。

「明日から、主将になるね」
「ああ」

 皆話題にするものは一緒か。それだけ関心が高いということは、それだけ何かしら期待しているものがあるからだろう。
 研磨までも、そのようで。
 相変わらずの無表情だが、付き合いの長い黒尾にはその顔の上に明るみがあること。声音もほんの少し、高くなっていることにしかと気づいている。
 そうと気づけば無性に、研磨に言ってやりたいことが出来た。

「頑張ったな」
「…………え?」
「お前はよく頑張った、って思ったんだよ」

 よく投げ出さなかったなと黒尾が言えば、研磨はきょろりとした猫みたいな大きな眼を見開いて、眉を上げた。

「……そんなこと……辞めるなって言ったの、クロじゃん……」
「言ったって、どうするかはお前次第だろ」

 どれだけ黒尾が引き留めようと、もし研磨がバレーボールを嫌いになってしまったら。部活動に心底嫌気がさしてしまったのなら。
 苦しんでまで続けてほしいとは、黒尾だって思っていなかった。どうしても研磨が途中退部したいならそれまでだと諦めを持つ一方で、そうならないように目を配ってきたし声もかけてきたわけなのだけれど。

「猫又監督が戻ってきて、俺達の代が来て。全部中学の時みたいにはいかないが……お前が窮屈な思いをすることは減る。いや、俺が減らしてみせる」

 だから安心しろ、言外に滲んだ黒尾の気持ちまでをも見透かすように、研磨の透明な光を宿す眼が黒尾を見つめている。茶色の虹彩がゆるゆると、張られた水の膜の下でたわんで、彼の瞳を広げた。すぐにそこは瞼に覆われてしまったのだけれど、研磨の中にあった何らかの強ばりがきっと。溶けたのだと、その仕草が黒尾に教えてくれた。

「……うん」

 少し俯いてはにかんだ研磨の顔、それを見ていると何だか自分までこそばゆくなる。
 そして自分よりずっと下の位置にある頭に手を伸ばしたくなって、そのまま撫でたくなる。昔っからそうだ。

“――音駒高校、合格した”

 昨年研磨がそう報告してきた時も、研磨はこんな顔をしたから、分け目がわからなくなるほどぐしゃぐしゃに強く、黒尾は彼の頭を撫でた。
 痛いよと抗議されても止めなかったのは、自分の緩んだ口元を見られたくなかったからだった。
(もうお前と一緒にいることは、限りなく少なくなってしまうのかもしれない)
 通学圏がそう変わらない小学校、中学校とは違って、高校に進学した黒尾はそんなことを考えた。並んで歩く道は分かれ、そもそも生活時間もズレて、開いてしまった研磨との距離をはっきりと知った。
 黒尾はバレーボールが好きだった。自分の好きなことを、友達も好きになってくれたらいいなと思って、しょっちゅう研磨を連れ出しては一緒にバレーボールで遊んだ。
 元々何か一つに熱中することのない性質の研磨は、特別バレーボールを好きになりはしなかったが、嫌いにもならなかった。黒尾が求めれば必ず応じてくれた、それが黒尾は嬉しかった。

 ……けれどそれが通じるのは、子供の間だけ。

 高校生になったら、研磨はバレーボールをやめてしまうだろう。いくら近所に住んでいるとはいえ、すれ違うことすらもう。
 高校一年の間、時折思い出したように考えては胸の片隅が寒くなるのを感じた。寂しさとも形容出来ない黒尾の中にわだかまった感情はしかし、研磨が黒尾と同じ学校に進学したことで綺麗さっぱり消えて。
 しかも、研磨は自らの意志でバレー部に入部することを選択したから、黒尾は何があってもこいつを手放すものかと思ったのだ。
 また一緒にバレーボールが出来ることを、とてもとても、黒尾が嬉しく思っていることを、研磨は知らないだろう。だから研磨は、黒尾が研磨に拘ることを研磨の『眼』と『頭』を買っている故に。本人としては過剰なほど買われている故にだと、思っているのだろう。
 もちろんそれも間違ってはいない。研磨の凄みを誰よりも知っている黒尾は、研磨がチームの中心になれば、音駒は更に強くなると確信しているのだから。

「……明日からお前が正セッターだ。この先全員で、最盛期を超えるくらいに勝っていくぞ」

 小さくてひょろっこくて、一見で舐められることもしばしばある研磨は、黒尾の自慢の、誰より大切な幼なじみだ。
 結局我慢できずに、黒尾は伸ばした手で一度、研磨の頭を撫でた。頭の丸みに沿うように髪を梳けば、首を竦めた研磨は小さく笑う。
 それと同時にころり胸中に転がったものにも、黒尾には良い形容を見つけることが出来なかった。


「ねえクロ、ありがとう」
「何がだよ」
「今、すごく言いたくなった。……何でだろう」

 その言葉を最後に、研磨は黒尾を抜かしてすたすたと前を歩いて行ってしまおうとする。左手でリュックを抱え直して、ぶらぶらと右手を宙に揺らしながら。

「待てよ」

 ついその手を握ってしまって、あ、と思ったけれど、かといって放すことも出来なくて、そのまま黒尾も歩きだした。
 幼い時はよくこうして手を繋いで歩いたっけと、研磨の旋毛を見ながら黒尾は記憶を遡った。手を繋いで公園へ行って、学校へ行ってと。どこへ行くにも黒尾が研磨を引っ張っていたが、今はどちらかというと黒尾の方が引っ張られている感じで、それが少し不思議だった。掌中の手が、あの頃より小さく感じられるのまた。

「……研磨?」

 繋いだ手がじんわりと熱を帯びていくことに気がついて、どうしたのかと顔を覗き込もうとしたら思いきり逸らされたので、むっとした黒尾はぐいと繋いだ腕に力を入れた。
 腕力は断然黒尾の方が強いので、たやすく研磨はよろけるようにして正面を向かされる。
 その拍子に見えた、研磨の顔が。
 ……赤く燃えつきそうな夕光だけじゃない別のものに染まっているのを、黒尾は眼に焼きつけるようにして、眺めたのだった。



FIN



----------------

また手繋ぎネタか!!ごめんなさい好きなんだこういうの!!!
夜久くんはちょっと悪戯好きだと可愛いなって……海くんは穏やかで大らかな名前の通りの人だといいなって……思って……音駒好きです……黒研は好きを通り越しました幼馴染万歳大好きだ……。

2012.9.15 up

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -