* 那砂春 R18 前編(まだ性描写はありません)






いつだってずっと深い闇の底にいた。
俺は那月の影だ。それだけが俺の存在理由、疑う余地もない事実だった。
それが、この一年……那月が早乙女学園に入学してから。

“俺”すら取り巻く全てのことが、変わっていった。





【ノーサイド・ラブソング】






変わった末に落ち着いたと、思ったってのに。


「………………――ッ?」

強い光を感じて、意識が覚醒していく中で俺が感じたのは、途轍もない違和感だった。

あの日那月の中に溶けた俺は、意識ですら那月そのものになったはず。それなのに、今はっきりと、切り離された――俺が、俺としてあるような、際だった自我、を認識している。それが違和感の源。

(俺って、誰だよ。……砂、月か)

南十字の見える場所で、那月が生み出した音楽。それと同じ名前をつけられた、那月の一部が…………

(……ってちょっと待て!)

那月の一部であり、もうあいつと同化した俺が、どうして俺として思考している?
ぶわりと湧いた疑念に、反射的に眼を開けた俺は、呆気に取られてつい瞬いた。

「……ん、だこれ」

目を開けた先に俺がいる。別に鏡を見ているわけじゃあない。すやすやと、無防備に、口の端からよだれを零しそうな幸せそうな面をして、俺が。那月が、いた。
……深い意識の底で、心が見る夢の中で、こうして顔をつき合わせたことが……なかったこともない。だが、今カーテンの隙間から俺へとまっすぐに伸びてくる朝の日差し、まとわりついてくる布団の重み、を感じる体――現実だと分かる温もりが確かにあって。

がばりと体を起こす、体がある。

「どうなってんだ……」

おもむろに広げた両手を呆然と見おろしていたら、俺の声に反応したんだろうか。んっ、とむずがる小さな鼻音が横から聞こえてきて、そっちを見ればちょうど、那月が眠たげに眼をこすりながら頭を上げた所だった。

「……あれぇ……? 僕がいる?」

鏡さん? だなんて首を傾げて幼い呟きを漏らしつつ、ぼーっと俺を眺める那月と俺の視線が交錯した時。
さすがに現実を直視したか(っつーか那月、もう19だってのに鏡さんはないだろう)、ハッとした那月がぱち、ぱちっと俺と同じ眼を瞬いた。

「ッえ? もしかして、さっちゃん?」
「………………ああ」

こいつが那月であるなら、俺はそう称される方だ。
こいつの中で芽生えていた、俺としての自我に従い頷けば、もそっと身を起こした那月が俺に向かって正座をつく。

「本当に?」
「……だから、そう言って」
「ほんとにさっちゃん……!?」
「ぅお!?」

かしこまったかと思えば、そのまま身を乗り出してきた那月にがばりとのし掛かられてしまった。

「すごいすごいっ、本当に僕だ! さっちゃんだ!」
「こら那月ッ! あまりべたべたすん、ってち○こを触るな!!」
「やっぱり全部、僕と一緒なんですねぇ」

那月はきっちりパジャマを着ているのに対し、俺は全裸だったことに触られたから気がついたんだが。いやマジで、好奇心旺盛なのはいいとして、肩とか胸ならまだしもそこをまさぐるな。

布団をひっつかんで那月と俺の間に仕切りを作ることで、こいつの手から逃れた俺は、なんだか疲れてため息をついてしまった。

「ったく……」
「あ、ごめんねさっちゃん。なんか、嬉しくてつい」
「嬉しい?」
「だって、こんな風に……さっちゃんに触れるなんて」

ぎゅうと繋がれた手に、俺の胸にも嬉しさがこみ上げてきた、気がする。
俺は那月が生み出した、那月を守るためだけの影だった。
那月の中でだけ、存在することが出来た。同じ体に二人で住んでたようなものだから、俺がどんなに落ち込んだ那月を慰めたくても、頭を撫でてやったりだとか。しっかりしろよと背を叩いて激励するだとか、そんなことは出来るはずがない。まあ、そういう形での、那月の心の守り方があったかもしれないことは、今更だから考えられることだったが。
俺は那月が辛い思いを、悲しい思いをしないように……時折表に出て、外敵と戦って。そうして那月を守る方法しか知らなかったし、考えられなかったから。

「……で、だ」
「うん?」

そんなことを踏まえつつ、現状を考えてみる。
こうして俺が那月と触れ合えるだなんてことは、本来有り得ないことで間違いない。

「……どうしてこんなことになったんだ?」
「……さぁ……?」

二人して首傾げたって、解決しないんだよ。
しっかりしてくれ那月。って言葉は、そのまんま俺にも跳ね返ってくるものだから、結局俺も黙るしかなかったが。







「どんな仕組みなのかとか、原因は不明だが、俺は……『砂月』は、那月から分離して体を持ってしまった」
「……うん、そうだね」
「すぐ元に戻るのか、ずっとこのままなのかも分からない。とりあえずは様子見、ってとこか」
「……それでいいんじゃないかな」
「……あのなぁ那月。そんなにまじまじ見て、楽しいか? 同じ顔だってのに」

あのまま何もしないで固まっててもしょうがないと、俺と那月は着替えて朝支度をすることにした。
俺は簡単な朝食を作り、那月は紅茶を淹れて。テーブルに面と向かって座って、話をまとめた俺に対し、飽きることもなく那月は視線を注いでくる。

「同じ顔でも全然違うよ! やっぱりさっちゃんはさっちゃんなんだなって思うんだ」
「……まあ確かに、俺は那月と違って目つきが悪いだろうしな」

っつーか、眼鏡がねえから視界がぼやけて、つい眼を細めちまうってだけなんだが。

「そんなことないよ。悪いんじゃなくて、鋭いんだ。それにキリッてしてて格好良いよね」
「……おまえが言うととんだナル発言なんだけどな、それ」

俺の顔も俺が作る表情も、本当はそのまま全部那月のもので、那月と同じものだ。
自画自賛にもほどがあるはずだが、だけど言われて悪い気がしないあたり、俺はやはり自我が確立してしまっているんだろう。
今の俺は、那月ではない……切り離された別の存在だとふと意識すれば、なぜか心の底の方にヒヤリとする風が吹く。
それは初めて覚えた何とも言い表せない感覚で、つい、ティーカップを握る手に力が入ってしまって。陶器といえ油断すれば割るかもしれないと、俺は飲みかけのそれをテーブルに戻した。

「……でも」
「ん?」
「なんだろう……なんて言えばいいんだろう」

なんだか、寂しいというか、でもそれだけじゃない何かがあって。さっきから胸の辺りが、ザワザワして落ち着かないんだ。

眉を下げてそう言いながら、片方の手で心臓のあたりを押さえ、もう片方の手を那月は俺の方へと伸ばしてくる。特に避けようとは思わないから、放り出していた手を取られても、俺はされるがままだ。

一本一本、指が絡んでいく。
ぴたり、掌が合わさって、俺と那月の隙間がなくなったことに、俺は何故だか無性に安心した。

「……ねえさっちゃん。僕、これからお仕事が入ってるよね」
「ああ分かってる。気をつけて行ってこいよ」

昨日まで俺も那月だったんだから、今日以降のスケジュールその他、互いの持ってる知識に相違はない。
俺が送り出そうとすれば、那月は上目遣いに不安そうな顔になった。

「さっちゃんはどうするの?」
「お前が外に行くのに、俺まで出ていくわけにはいかないだろ」
「でも……さっちゃんを残していきたくない」
「じゃあ俺が代わりに行くぞ」
「それは」
「那月、駆け出しといったって、おまえはもうプロのアイドルだろう?」

それなのに仕事を放るつもりかと、繋いだ手に力を込めれば、眼を閉じて那月は黙り込む。
実際、俺が代わりに仕事に行くこと自体は吝かではなかった。こんな非常事態の時に那月を外に行かせて、何かあったらと思うと心配で仕方がない。那月にかかる負担を取り除いてやりたいと思う。
でも、那月だってもう、俺が守らなくても大丈夫なくらい強くなったはずなんだ。
強くなった那月を俺が、もう一人の自分こそが認めて、信じてやらないでどうする。
そんな気持ちをこめてもう一度強く手を握ってやれば、しばらくしてようやく決意を固めたか、再び開いた那月の眼の中、一段深い色の瞳はもう揺れていなかった。

「……分かった。でも、何かあったらすぐに呼んで。さっちゃんの声なら、きっとすぐ僕に伝わるから」

那月が言う『声』とは、物理的な声じゃない。今まで那月の心の中でだけ交わしていた、互いへの呼びかけを指している。

「ああ……分かったよ」

頷かなきゃ、変なところで頑固な那月は動こうとしないだろうし。チラリと時計を見れば、もうそろそろ出発させないと間に合わない時刻を指していた。
頭を上下させた俺を見て、ホッとした顔をする那月に急ぐよう言いつつ、手を離す。

途端にまたザワリと、あの何とも言えない感覚が襲ってきて。耐えるように、俺は拳をきつく握っていた。







さて、那月を送り出したはいいんだが。

「……だからって特にすることもないんだよな」

片づけでもするか、と手をつけたが、すぐに終わってしまった。最近那月は雑誌の撮影や発表した新曲のプロモなんかで忙しかったから、部屋を散らかす暇もなかったくらいだし、当然ではあったが。

「……ダメだ。落ち着かねえ」

そろそろ昼飯時になるから昼食を作るなり、もっと徹底的に掃除するなり、探せばやることはあるはず。
だけど俺は、さっきから心臓をざわつかせる嫌なものに眉をしかめ、ソファに突っ伏すことしか出来なかった。

(今までは……那月がいたから)

あいつが表にいる時も、俺が表にいる時も、俺たちはずっとずっと寄り添っていた。俺は那月が独りぼっちにならないように、あいつが辛い思いをした時の逃げ場所でいられるように、あいつの心の傍に在り続けた。
でもそれも、二人が一つだったからこそ。
今まで那月がいたはずのそこが、ぽっかりと空洞になって……いや、本当にそこに那月はいたんだろうか?
俺が俺として成り立つためのものが全て欠けているような、大きすぎる心許なさは、「砂月」という俺の自我を脅かすものに思えた。

「砂月」という自我は、ある意味那月という人格に守られていたものだ。切り離された今、「砂月」は……俺は一体何なんだろう?

『――あなたも、那月くんです』

その時俺の脳裏に小さく、鈴が鳴ったような凛とした声が蘇って。

「春歌……」

那月以外で、俺を俺として……そして、那月として。認めてくれた女。那月が全ての愛を注いでいる唯一の恋人。
沢山の笑顔、泣いた顔、ごくたまにふてくされて頬を膨らませたり、「音」に真剣に向き合っていたり。その一つ一つが。那月と共有した全ての記憶に溢れる春歌の彩りが。キラキラと輝いて、俺の心の奥底に陽だまりを射した。

ああ、なんだかすごく、あいつに会いたい。

一度そう思うと、もうそれ以外考えられなくなっちまった。

……と、会いに行くのはいいとして。

(分裂したことは……言わない方がいい、よな)

俺は那月と一つになったと春歌は思っている。それなのに、分裂したっていう異常事態を知れば、あいつは酷く心配しそうだ。
憂い顔は……これまで散々、俺のせいで、させてきた。だからこれ以上は見たくない。

「…………」

そうなると、那月として春歌に接しなければいけないわけで。
俺は洗面所に行き、鏡の前に立って、にこぉっと音がつきそうなくらい、笑ってみた。

(…………………………間抜け面すぎる)

ついぐったりした顔を作りそうになり、俺は慌てて那月が取り得る範囲の真顔になるよう表情筋に力を入れる。
俺が表に出ている時に、那月として振る舞ったことは何度もあることだ。今回も、同じようにやればいい。
……いつもなら心の中にいる那月をイメージするだけで、何だって上手くいっていた。こんな練習だってする必要はないはずなのに、今は不安につきまとわれて、「那月」の形を手探りで探している気分だった。

「……あ。あ。あーーー……」

声の高さはこんなもんか。
大丈夫だ、と俺は一つ大きく息を吐き出して、那月の眼鏡のスペアを取り出し、かける。
クリアになった視界にも少し気が落ち着けながら、俺は那月の部屋を出た。

春歌の部屋はすぐ隣だ。たった数歩の距離がやけに長く感じたことも、インターホンを押す指が震えたことも……「砂月」という柄にもなく、緊張していることの現れに思えて、俺は小さくため息をついた。

……一度押して、しばらく待ったが、春歌が表に出てくる気配はない。防音完備の施設だから、本当に中で呼び鈴が響いたのかどうか、外からでは分からなかった。

(……春歌の予定は、と)

確か今日は家にいたはずだが、また無理して夜中まで作曲して、潰れてるのかもしれない。
もう一度押して出なければ、時間を改めるか、諦めるか。
そう逡巡してすぐ、いきなり目の前の扉が開かれた。……俺の方に向かって。

「いつッ!」

不覚かつ遺憾にも避けれなかった俺は、固い扉にゴンッ! と額を打ちつけられて。鈍い音が辺りに響きわたった。

「きゃっ!? ごっ、ごめんなさい! すぐ出れなく……て」

顔を出した春歌は、小さく体を震わせる俺を見てでかい目を丸くした。痛みに堪えられず俺の視界は潤んで、まだはっきりと顔は見えなくとも、それだけは分かる。

「那月くん! あれ、今日はお仕事じゃ……というか、大丈夫ですか!」
「大丈夫、……」

だ、と、俺としての口調が出てしまいそうで、慌てて一度口を噤んだ。
今の俺は那月として振る舞わないといけない。那月に適した言葉を考え、俺は改めて口を開いた。

「……大丈夫、です。ちょっと痛かったですけど、それよりハルちゃん?」
「は、はいっ」

何回か瞬きして水分を飛ばせば、ドアノブに手をかけたままの春歌が、驚いたような、心配そうな顔をして俺を見上げていて。

「…………っ」

小さく華奢なその姿が、やたらと胸にくる。
俺は我慢できず、ぐいと春歌を抱き寄せながら、後ろ手にドアを閉めて春歌の室内に入った。
細くて柔らかい春歌を、ぎゅっと……衝動のままに抱けば壊してしまいそうだから、強くしすぎず、でも隙間は作らないように、ぴったりと腕の中に閉じこめる。

「那月……くん……?」
「……はい、なんでしょう?」
「…………いえ。
 あの、おでこぶつけちゃったんですよね? 本当に、大丈夫ですか?」

もぞもぞと身じろいで、春歌は何とか俺を見ようとしてるみたいだった。デコのことは俺の不注意だし、痛みも引いてるんだが……。

那月だったら、何て返すかな。

「……じゃあハルちゃんが、痛いの痛いのとんでけ〜ってキスしてくれたら、もう大丈夫になります」
「きっ……!?」

もう何度だってしてるってのに、未だに単語だけで赤くなるのはちょっと考え物だな……。
だが、こうして恥じらってしまうのが春歌らしさでもある。

「ほら」

体を少し離して、とんとん、と額を指さしてみる。
つい、意地の悪い顔を作りたくなるのを抑えて、出来るだけ無邪気に見えるように笑いかけてやれば、春歌はますます頬を赤くした。……ほんと、可愛い顔しやがって。
やがて、観念したように一度眼を瞑った春歌が、背伸びするのを支えてやりつつ、俺も少し腰を折る。

ちゅ、と額に触れた唇の柔らかさと暖かさに、くすぐったさと――胸のつかえを覚えて。

なぜだか俺は、素直に喜べなかった。







「さっきも聞こうと思ったんですけど、那月くん……お仕事は大丈夫なんですか?」
「……ええ。急なことですけど、今日はオフになったんです。だから、あなたに会いたくなって。
 それよりハルちゃんは、次の曲作りは順調ですか?」

春歌の作った昼食を食べて、俺はソファに腰を落として。抱き寄せた細い肩に、頭を預けながら問い返す。
那月はちゃんと仕事に行ってるし、俺はオフで間違いないから、嘘をついてることにはならないだろう。とはいえ、今はその辺りにあまり触れられたくない。

「うーん、そうですね……旅行会社さんとのタイアップということなので、今は各国の音楽を手広く聴いてみてるところです。イメージを膨らませたいなって思ってるんですが、まとめようとするとやっぱり難しいですね」

那月くんらしさは保ちつつ、ちょっと違う方向性で行きたいんですけどと、苦笑混じりの柔らかい声音で話す春歌の言葉は、それ自体が優しい音楽のようだった。

俺が俺として聞いたことは、いずれ那月の記憶にも還る……はずだが。もしも何日も戻らなかったら、どうしたらいいかと思う。
俺とあいつが一つだったなら。例えば、今俺の手の上に、そっと重ねられた春歌のちっちゃな手の感触や、体温もそのままに。空気に溶けた食後の紅茶の匂いや、チクタクと針を進める時計の音も。言葉もそれ以外の何もかも……共有することが出来るのに。
言葉だけを那月に伝えたって、俺には意味がないように思えた。

(……那月。春歌の次の曲は、また毛色を変えてくるみたいだぞ)

今までのように、心の中へと呼びかける。そこに那月の存在が感じられなくとも、細い糸の一筋でいいからあいつと繋がっていればいいと。たった今、この瞬間が伝わっていたらいいと。どうしてか、願わずにはいられなかった。

(――それにしても)

なんというか、まだ、落ち着かない。落ち着いてるはずなのに、何かしっくりこない。
春歌が傍にいれば、この胸に巣食うどうしようもない心許なさ――空虚感って、言えばいいのか。それも感じずに済むかと思ったんだが、見込みが甘かったらしい。
……そんな言い方は、春歌に悪いな。これは今、俺が抱えている問題で、春歌には何も関係がない。
ただこうしてこいつに触れてるだけで、また、別のものが俺の中を満たしてくれる。那月がそう思うように、俺にとってもそれが何より大事なことだ。

「あ、なっ那月くん……?」
「……ふふ。こっちの方が、あなたを感じられます」

片手で持ち上げられるくらい、春歌は軽い。ひょいと膝の上を跨がせて、正面から向き合う形にして、俺はまた春歌を腕の中に閉じこめた。
じんわり染みてくる春歌の体温や匂いが心地良い。何でこんなに、春歌の熱が恋しいんだろう。それは俺が那月だから……そんな、明確な理由に達する前に。
不意に、俺の中で那月ではない誰かが、こう囁いた。

――もしも俺が俺として、だったなら。こんな風に春歌を抱きしめることが出来ただろうか。

「…………」

……誰でもないな。脳裏に閃くその言葉は、なんてことない、自分で自分に向けたものだった。つい、舌打ちしようとして思いとどまる。

(自分で那月のフリをするって決めたのに、こんな気分でどうするんだ……)

気づけば、自然と抱く腕に力が入ってしまったらしい。
んっ、と小さな声を上げて、春歌はあまり動かせない腕を持ち上げて、軽く俺の背を叩いてくる。
苦しくさせるのは本意ではないが、今顔を見られるのはまずい気がしたから、俺は動かない。
春歌は押しに弱く、押すことも基本的に弱いから、そうしていれば小さな抵抗はすぐに止んだ。

「ねえ那月くん。なんだか今日は、いつもより甘えたさんな気がします」
「そうですかぁ?」

懐から聞こえてくる声に、心中で首を傾げる。
俺の演技とはいえ、ここまでの那月としての素振りに問題はないはずだと思うんだが。
その一方で、嫌な予感も覚えた。春歌は天然で鈍くさいが、恐ろしく鋭くて聡い感性を持っていることを、俺達は知っているから。

「……今日は、ずっとこうしていたい気分なんです」

だから、そう見えるのかもしれませんねという言葉の裏に、おまえは気づかなくていいという思いを乗せて。つむじにキスを落として囁けば、春歌はピクンと体を揺らして、きゅっと俺のシャツを握ってきた。

「あの……私も、ぎゅってしてもらうのは、嬉しいんです。でもね、どうしても気になって」
「……何がですか?」
「…………」

尋ね返せば春歌は口を噤んでしまった。春歌の中でも、その気になるものを上手く言葉に表せられないんだろうか。
……だがこの調子じゃ、それが形になるのも時間の問題だな。春歌は間違いなく勘づいてきている。どうするか。
離れがたいが、これ以上一緒にいてボロを出すのも嫌だと結論付けた俺は、身を離そうと春歌の体を押したものの。

腕の拘束が解かれた春歌は、何故か開いた距離を縮めるように、ずいと顔を近づけてきた。引いてもすぐに背もたれに阻まれた俺は、透度の高い琥珀色の眼に眼を。真っ正面から覗きこまれる。

「……那月くん。私に何か、隠し事してるでしょう?」

きゅ、と引き結ばれていた唇が綻び、溢れた言葉が核心を突き刺してくる。春歌の瞳に浮かぶ俺の表情はもちろん、変わっていない。変えるつもりもないから、俺はぱちぱちと瞬きをして、どうしてそう思うのかと怪訝そうに小首を傾げてみせた。

「ごめんなさい、私の勘違いかもしれないんですけど……。でもね、なんだか……あなたが、無理してるように見えるから」
「うーん? そんなつもりはないんですけど……どうしてそう見えちゃったんでしょう」
「……私には……どうしても、言えないことなんですか」

苦笑する俺の顔を、春歌はつぶさに見つめている。俺から零れる一欠片ですら、逃さないとでもいうように。
……こいつに上目遣いに見つめられると、(こんな状況が悪い時だというのに)なんというか、触れたくて仕方がなくなる。こくりと上下する喉。細い真っ白な首に流れる髪の一筋すら全てを。
吸い寄せられるように春歌に顔を寄せた俺の唇が、春歌のそれに辿り着く前に。伸ばされたこいつの指の平で、そっと押さえられてしまった。

「やっぱり那月くん、何か隠してるんですね」

それを言わないなら、この指はどかしませんとばかりに、春歌は眉をしかめる。俺としては、誤魔化しのキスだと捉えられたのは心外だったんだが。

「……本当に、そんなことないんですよ?」

こうなってしまうと逃してはくれなさそうだなと思いつつ、それでも足掻いてみれば、春歌は酷く悲しそうな……寂しそうな顔をする。やや伏せられた眼に睫毛の影が乗って、春歌の表情の曇りに拍車をかけていた。

……こんな顔をさせたいわけじゃない。

俺の胸に宿ったそんな思いが、次の行動を決めかねさせる。
春歌は、優しすぎるくらいに優しい。分裂の事実を言わないでいて、こうして困らせて……心配させてしまっていることは、全てを話してそうなるのと、どちらの方がマシなのか。どちらも、変わらないんじゃないか。

――砂月が、那月が、どうこうだなんてことは、春歌に対して、本当に今更なことだ。春歌は俺を砂月として、那月として認めてくれた。だから俺は……。

「…………………………はぁ。わかったよ」

考えて考えた末、くしゃりと前髪を掻き上げながらそう呟けば、ぴくんと唇の上の指が跳ねる。

「え。もし、かして……砂月くん?」
「……なんだよ、気づいていたんじゃないのか?」
「そんな、何だかおかしいって思って……ああでも…………それなら、納得です」

感じていた違和感をうまく表現出来なかったらしい春歌は、そう言いつつもまだその眼に疑問を浮かべていた。

「でも、なんだか……今の砂月くんは、前までの砂月くんとは違うように見える気がします」

……その言葉に、ああ本当に春歌の感性は厄介だと思わざるを得なかった。
俺は、朝目覚めたら二人に分裂していたこと、那月は仕事に向かっていること――まあ、さほど時間も経ってないからそれほど言えることがあるわけではないが、これまでの経緯を伝える。
言葉を飲み込む度に驚きを大きくしていった春歌は、だが最終的には、すっきりした様子で小さく微笑んだ。

「そういうことだったんですね。……教えてくれてありがとう、砂月くん。でも、大丈夫ですか?」

案の定、気遣わしげな視線を向けられる。そう問われて、大丈夫じゃない、なんて言えるわけないだろう。

「特に問題ない。長引くようならあれだが、いずれは元に戻るはずだ。きっとな。……だからあんまり心配するな」
「心配しないわけないじゃないですかっ……!」
 様子が変で……それがまさか、分裂しただなんて思ってもみませんでしたけど」

伏せていた眼を持ち上げて、春歌はまたじっと俺を見つめる。

「今まで那月くんだった……那月くんと一緒だったのに、砂月くんは那月くんと離ればなれになってしまった。
 だからずっと、どこか不安そうなんですね。砂月くん」
「……ふん。そんなわけ……」
「あります。だって、ずっとこうしていたいんでしょう?」

虚勢を張ろうとした俺を一蹴し、さっきとは逆に春歌が俺を、ぎゅうと抱きしめてきた。春歌からされると思ってもいなかった俺は、細い腕と小さな体の温もりに容易く絡め取られてしまう。
……那月のフリをしていたとはいえ、そう指摘されてしまうと、今更さっきまでのことがやたら気恥ずかしく思えてきた。

「それは、その……いいから離せ」
「私も、こうしていたいです。砂月くんの不安がこれで少しでも、小さくなってくれたらいいなって」
「だけど俺は……」
「あなたも那月くんですよ?」
「……言葉の先を取るなよ」

くすっと小さく笑う春歌は、とても優しい顔をしている。
胸に頬をすり寄せるなと、止めろと言おうとして、そんなこいつを見ていれば言葉に詰まった。
結局黙ってされるがままになる、俺の頭の片隅で……引っかかっていたものが薄れていく。

『那月じゃないただの砂月が、俺が、春歌に触れていていいのか』

それを他ならない春歌自身が、那月だからと。
それでも俺は那月なんだと認めてくれたことは、何より強く、俺を安堵させた。

「本当は、私で力になれることがあればいいんですけど。体が二つになっちゃうだなんて一体どうすれば……」
「……それなら、もうなってるだろ」
「え?」
「なってるよ、力に」

春歌の優しさが、言葉が、底のない闇に沈みそうになる俺の心を掬い上げる。暖かく包み込んでくれる。
それは春歌にしか出来ない、他の誰にも持ち得ない力だった。
じわりと膨らんでいく胸の熱、溢れて止まらない心のままに腕を回して抱きしめ返せば、互いの体温が混ざって、とくんとくんと脈打つ春歌の心音が俺の中へと響いてくる。
少し早いそれと、柔らかな春歌の肉体に煽られて、もっと直接春歌を感じたくなった。

「あっ……くすぐ、たいです」
「このぐらいで、か? もっと堪えろよ……ほら」

服越しに当てた手を腰のラインに沿って下降させれば、びくびくと細い肢体を波打たせる。
感度の良い反応に気を良くしつつ、明確な意思をもって服の下に腕を差し入れようとすれば、春歌はその手を押し止めた。

「だめ、です……砂月くん……」

恥じらいからの拒絶ならば、このまま有無を言わせず進めるつもりだったんだが。
春歌の表情はどちらかというと、戸惑いよりも躊躇いの方が多くて、なぜそんな顔をするのかと疑問に思えた。

「されるの、嫌じゃないんだろう?」
「それは、ンッ、ぁの……その……ッ」

制止を振り切り、降ろした親指でぐりぐりと腰骨を撫でても、腕の中の春歌は睫毛を震わせるほど感じながらも首を横に振る。

「何て言えばいいのか、あの、……那月くんがね」
「那月が?」
「……もしかしたら……那月くんが、ずるいって言いそうで……」

春歌のその言葉を頭で理解する前に。

バタンッ! という大きな音と共に室内に入ってきたそいつの口から、そのままの解答がもたらされた。


「……二人とも、ずるいです……!!」




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2011.10.16 up
2011.10.29 更新


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