序章、あるいは水面下のうねり

わたしの仕事は、一日中モニターに張りついてひたすらにデータの観測と分析をすること。シンプルだ。誰にでもとまではいかなくとも、掃いて捨てるほどには代わりがいる仕事。世の中そんなものだ、本当の唯一無二なんてほんの一握りしか存在しないし、してはいけない。みんながみんな絶対に欠けてはならないだなんて状況があるとしたら、それはひどく不安なバランスで辛うじて均衡を保っているにすぎない。
だがしかし、まれに理屈を無視したイレギュラーが発生する可能性があるということも事実。背水の陣で崖っぷちで崩壊寸前でこれでもかとギリギリまで追い込まれているのが、今ある現実。残念ながら、誰にでもできるわたしの仕事を、わたし以外にできる人がいなくなってしまったのだ。

「というわけなので、そこを通してくれますか」
「悪いがそりゃ無理な相談だ」
「どうして……」

さっきからずっとこの調子だ。風を受けて膨らんだ布を殴っているかのような、手ごたえのなさ。どうしたら和解できるのだろうかと考えを巡らせるのも億劫になってきて、わたしはそろそろと無意識に溜めた息を吐き出した。頭がずきずきと痛む。油を売っている暇はないのだ、こうしている間にも仕事は積み上がっていってそして周りを圧迫してしまう。
アーチャーの、草色の胸当て辺りをじっと見つめる。そもそもこの人はどうしてわたしの邪魔をしているんだろう。廊下で行き会って、こんばんはと一言かけて、そしてすれ違うだけのはずだったのに、なんで目の前に立たれてるの?謎。
人のよさそうな笑みをくちびるに乗せてはいるものの、全く隙がないその様はさすが百戦錬磨のサーヴァントといったところか。躱して強引に進むこともできない。こんな時に限って誰も通りかからないし、けっこうな詰み状態だ。

「オタク、自分の顔色が悪いの気づいてます?」
「え?」

ぐるぐると状況を打破できる言葉を探していると、思いがけない指摘を受けた。首をかしげると、やれやれとでも言いたげなため息が返ってくる。

「真っ青だって言ってんですよ。アンタの仕事や使命感については十分聞きましたがね、そんな顔して言われちゃはいそうですかって通すわけにもいかねえんだなこれが」
「……?でも、そうだとしてもなぜあなたが?」
「まあ、確かにオレは医療系サーヴァントでも何でもないただの弓兵ですけどもね。マスターの言いつけにゃ従うのみってわけなんで」

つまるところ。彼は藤丸さんの指示で、わざわざわたしを足止めしているということらしく、言い換えればわたしは既に周囲に気を使わせているということだ。ああ、くらくらと目が回り出すかのような気分。

「それならそうと、早く言ってほしかったです」
「案外すんなり受け止めるんすねえ」
「受け止めるも何も……べつに意地を張って仕事してるわけではないですよ。そういうことならドクターにも把握されているだろうし、管制室へ行ったところで追い返されるのがオチでしょう。藤丸さんにまで余計な心配をかけるなんてサポートスタッフ失格だ、くらいのことは思いますが」
「へえ……」

がむしゃらに突っ走るタイプとでも思われていたのだろうか、意外そうな反応をされるとこちらも困ってしまうけれど。そもそも、人理修復の旅路の初期からカルデアにいるサーヴァントとはいえ、一スタッフのわたしに彼との接点はほぼ皆無。向こうもさしたる意図はないだろうと思って気にしないことにした。

「あの、わざわざすみませんでした。大人しく戻るので、藤丸さんにはそのように伝えておいてください。ではこれで」
「ああ、ちょっと待った」
「はい?」
「ものはついでだ、お茶でも一杯どうですかい?レディ」
「はい……?」

軽く頭を下げて踵を返そうとしたわたしを呼び止めた彼は、またさっきまでのような笑みを浮かべていた。
そしてその後、これをきっかけになぜかわたしはかの英霊と茶飲み友だちのような奇妙な関係になったのだけど、不思議と居心地は悪くなかったのをよく覚えている。話すのはいつも取り留めのない内容ばかりで、数週間前に最後にお茶した時も、確かウワバミ系サーヴァントたちの酒盛りにうっかり捕まった話を聞いたんだったっけ。思い出してちょっと笑えてきたけれど、口角が少しひくついただけで上手く笑えなかった。ああもうまったく、寒いな。
わたしは、ほんの小一時間で様変わりしてしまったカルデアの廊下で、壁にもたれるようにして座り込んでいた。数メートル先までじわじわと絶対零度の世界が迫ってきているが、あれはもはやただの余波だ。術者の意思によってわたしを呑み込まんとしているのではなく、惰性で拡がっているに過ぎない。わたしは、幸運にもぎりぎりで逃れられた。けれど生憎ともうここからは一歩も動けそうになくて、脱落という意味では凍り漬けにされた彼らと同じ。足と腹とを撃たれていて、即席の魔術での応急処置もジリ貧だった。ボウガンなんて食らったのは勿論はじめてだけれど、直撃はなんとか避けたのにそれでも死ぬほど痛いなあ、なんてぼんやり考えるくらいしかできることはない。
どうしてこんなことになったんだろう。というか、これはどんなことになってるんだろう?わからない、物言わぬ兵士共と氷は死以外の何ももたらしてはくれなかった。カルデアは壊滅しかかっていて、わたしも死にかけで転がっている、それだけだ。生き残っているカルデアスタッフはどれだけいるのだろう。藤丸さんやマシュは大丈夫だろうか、特にマシュは無茶をしていないだろうか。心配したところで、わたしじゃ何の加護もあげられないけれど。
そろそろ眠気が強くなってきた。これで終わりとは呆気ない幕切れだ。命なんて得てして儚いものだけど、身をもって実感するのはまた趣が違う。まあ、いいか。栄転なんて、きらきらしているのは言葉だけだし、もうあのお茶も、飲めないのだし。……お茶?どうして、また、何度も思い出すんだろう……あの時間を、わたしは……。

「間に合ったかね?ああ、間に合っているとも。探偵とはそういうものだ」

意識が落ちる間際に微かに聞こえた声は、頭が理解しようとするより先に闇に呑まれて届かなかった。


20210106
back
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -