世界のまん中

教授が授業の終わりを告げ、俺は荷物を片付けてさっさと講義室を後にした。昼過ぎだが、今日はこれで終わりだ。
駅前のスーパーで軽く買い物をしてから家とは反対向きの電車に乗って数駅、通い慣れた道を歩く。閑静な住宅街にある小さなアパートの、それなりに年季の入った外付け階段を上って奥から二番目。ここが彼女の城だ。
ピンポーン。一度チャイムを鳴らしてから半歩下がる。起きていたら、時間はかかれど出てくるはず。思った通り、二分ほど待っているとチェーンを外す音がしてゆっくりとドアが開いた。

「……おはよう」
「おはよう。入ってもいい?」
「うん、いいよ」

許可をもらったので、俺は十五センチほどだった隙間を押し開いて自分の体を中に滑り込ませた。それを見て、彼女はくるりと踵を返して部屋に戻っていく。追いかけようとしたが、手に持ったスーパーのビニル袋の中身を思い出して思いとどまる。
玄関の横にある冷蔵庫の前には口を縛られたゴミ袋があった。明日は燃えるゴミの日だから、夜中にでも捨てに行くつもりなのだろう。とりあえず脇に寄せておき、冷蔵庫を開けた。
相変わらずというか、殺風景だ。オレンジジュースのパックと飲みかけのワイン、それと水。調味料が少し。一昨日は多少なりとも食べ物が入っていたから、きっと今朝あたり食料がなくなったんだ。丁度よかった。
ガサゴソと袋を漁り、然るべきものを冷蔵庫にしまっていく。豆腐と、彼女が好きな胡麻豆腐。出来合いの唐揚げ。ヨーグルト。シュークリームが二つ。人の気配を感じて顔を上げると、背後から白い腕が伸びてきた。

「水取らせて」
「ああ、うん」
「え、唐揚げがある」
「他にも色々」
「いいの?ありがとう」
「どういたしまして」

ミネラルウォーターのペットボトルを傾ける彼女はキャミソール一枚にゆるいスウェットパンツという格好だった。さっきは一応シャツとスカートを纏っていたが、やはりドアを開けるために着ただけだったらしい。無防備にも程があるが、それももう見慣れた。

「そろそろその格好寒くないの?」
「寒い。けど、電気毛布を解禁したから」
「そっか」

水を冷蔵庫に戻した彼女と共に今度こそ、部屋に入る。彼女の城は、建物や設備が古い代わりに広い。家賃も安いと以前言っていた。
ごちゃごちゃしていて使える場所は少ないものの、閉塞感はなかった。お世辞にも綺麗とは言いがたい部屋だが、俺はここが嫌いじゃない。

「奈緒」
「なあに」
「……やっぱりいいや」
「そう?」

彼女がもっぱら生活しているのはベッドの上、その端に俺もお邪魔してあぐらをかく。隣を見ると中断していたらしいスマホのゲーム画面に視線を落としているのが見えて、しばらくは放っておくことにした。
彼女と俺は同い年で同じ大学の同じ学部に所属している。今のところは。彼女は今年に入ってから大学に行っていないから、来年あたり留年するのではないかと俺は思っている。
いわゆる引きこもりというやつに近いのだろう。彼女曰く、外出することに多大な労力を使うんだそうで、毎日朝から外に出るなんて無理、というわけだ。
去年までは普通の学生だったはずだが、どうしてこの状況に陥ったのかは分からない。本人に分からないことが俺に分かりはしない。料理も洗濯も掃除も、今の彼女はなかなかしない。できない。
俺は鞄から飲みかけのお茶を出して一口飲んだ。ぬるくて、四十八円なりの味がした。
彼女は何故か俺に、自分自身の真実を開いてくれた。人となり、モノの捉え方、趣味嗜好、今の姿、今まで歩いた道、見えているものいないもの……それら人一人分の情報に俺は短期間で触れ、そして溺れたのだ。
いつのまにか彼女が世界のまん中だった。今まで通り朝起きて大学へ行き講義を受け帰るという生活を送りつつも、確かに訪れている変化。それが俺の足をここへ向かわせている。
この部屋へ来て、彼女の隣で時を過ごす。話し、笑い、食べる。すべてがここにあって、俺たちは寄り添っていた。
どれほど俺が、救われたろうか。俺が彼女を救っているかは知らないけれど。

「へいすけ」

なに?と応える前に右半身にどんと衝撃がきた。しなだれかかる、なんて色気のある動きじゃない。よくてじゃれ合い、どちらかというとぬいぐるみか何か無機物を相手にしているかのような遠慮のなさだ。一拍置いて、なに?と紡ぎなおすと「呼んでみただけ」との返答があった。
そのままにしていたら、やはりぬいぐるみ扱いなのか両腕が回りぎゅっと抱き締められた。ちらと見やると、スマホは暗い画面を晒しながらベッドの端に放られていた。ゲームはもういいらしい。
脇腹あたりにぐりぐりと無言で顔が押しつけられる。寂しいならそう言ってほしいのにと思った。

「ちゃんと声出して」
「んー、ん。うん……」

俺が彼女を見つけてその手を引けたらいいのにな。こんな狭い狭い世界なのに、たまに迷い子になっている。

「兵助は優しいね」
「そうかな」
「うん。何でこんなとこにいるの?」
「いたいからじゃない?」
「ふーん。わたしは嬉しいけどね」
「俺も好きだよ」
「何が?」
「奈緒が」

ぎゅうぎゅうと腕の力が強まった。女の子の力だから、たいして苦しくもないけれど。
四十八円のお茶をもう少し飲んでから鞄に仕舞う。彼女の頭に手を置いて、少し撫ぜてみた。

「起きて」

引っ張って、猫のように変な体勢で伸びている体を引き剥がす。そうして正面から抱き直した。ぐでんとまるで力を入れず体を預けてくる彼女は、遊んでいるに違いない。薄着の体は少しひんやりとしていた。

「えー、ええーいいのかな」
「何が」
「幸せなんだけどこれ。やっぱりハグってすごい」
「そうだね、確かに」
「いいのかなあ」
「……いいと思うよ。それに、よくなくってもどうにもならないだろ」
「それもそうだ。……あ、泣いていい?」
「どうぞ」

彼女の手が背中に伸びる。改めて、俺たちは互いを抱きしめ合った。
今日も同じ夜が巡る。心に愛を詰める夜が。


20190222
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