吸って吐く

ざぶんざぶんと波が船を叩く音が聞こえる。真上に輝くお天道様は今日も機嫌がいいらしく、この調子なら今回の船旅は危なげなく終えられそうな気がしてくるのだが、どうだろう。この空も、毎日潮水で手を洗う男たちには違って見えるのだろうか。
父上の商いについて回るようになってから、何度目の航海か。仕事に慣れるのと、年に一度の海に慣れるのとどちらが早いだろうなと笑われたのも少し遠い記憶だ。もっとも、その結果はまだわかっていないのだけれど。
わたしは潮風を胸いっぱい吸い込んで、揺れる海面を見下ろした。旅の間は父上とわたし、そしてわたしを案じて一緒にいてくれるねえやの三人でひとつ、狭いながらもきちんと仕切られた部屋をもらっている。とはいえ籠っているのは性に合わなくて、船の上の人となっている間はなるべく外にいるようにしていた。水夫たちの邪魔にならない場所に腰掛けて、遠くを眺めるのが好きだ。
振り向けば風をはらんだ帆が膨らんでいて、一所懸命に櫓を握り締めずともうまい具合に船は進んでいく。談笑する水夫たちもあり、甲板の雰囲気はのんびりと穏やかだ。
そうしてしばらくぼんやりしていると、ふと案内役の船からこちらに手を振る人影があった。兵庫水軍という名でこの海での水先案内や警固を請け負っている彼らとは、毎度取引きをしているため知らない仲ではない。つかず離れずの距離を保っているため少し遠く、はっきりとは見えないがたぶん網問くんだろう。手を振り返すと、今度はこちらを指して何やら身振り手振りをしている。しばし考えたわたしは、経験と勘でなんとなく察した。


船室へ入るなり、父上の豪快な笑い声が耳に飛び込んできた。休んだり帳簿を見たりしている船員の間をぬって、わたしは声の元へと近寄った。

「楽しそうですね、父上」
「おお、いいところに来た。どれ、私の代わりに賽を振ってみんか」

言われて盤を覗き込むと、どうにも勝ちの目がありそうには思えない劣勢だ。機嫌よく笑いながら大負けしているのを見るに、本当に楽しいのだろう。

「双六の相手がこんなところで見つかるなんて、よかったですね。わたしは水を差しませんから存分に興じてくださいな」
「はっはっは!仕方あるまい、存分に負けるとするか!」

さてこれほど楽しませてくれている相手は一体誰なんだと、こちらに背を向けるかたちで座している人に視線を落とすと。

「どうも、お姫さん」

精悍な顔に柔らかい笑みを浮かべた男性がわたしを見上げていた。わたしが探していた人は彼だったらしい。まあ、そんな気はしていた。


「驚かなかったな」

どんでん返しが起こることはなく、そのまま決着がついた盤を置いてわたしと義丸さんは甲板へ出ていた。

「網問くんが向こうから教えてくれたの。それに、いつの間にかこちらの船にいるのなんてあなたくらいでしょう」
「ま、その通りか。船出の日にもちらと姿を見たが、一年ぶりだな。変わりはないか」
「毎日変わることだらけ。幸い、一族皆健やかに過ごしているけれどね。そちらも元気そうでよかった」

わたしは海を見ていた。頑として海ばかりを見つめて、隣が何をその目に映しているのかは気がついてやらないように努めた。そんなことを構う男ではないと先刻承知でも、そうせざるを得なかった。

「また綺麗になったよ」
「ありがとう、と言えばいい?」
「相変わらずつれないな」
「はて何のことやら」
「なあ、俺は」
「海でしか生きていけない人でしょう、あなたは」

その腕も、手のひらも、体温も、瞳も髪も声さえも。すべてがここで生きていくためにあるような、そんなふうに見えて仕方ないのだ。波に晒され続けた石は削られて脆く丸くなる。でもこの男は、この人たちはまるで逆だ。

「わたしはあなたと同じにはなれない。……同じになれないことに耐えられるような強さもね、ないの。わからないでしょう」
「わかるさ」
「いいえ、わからないのよ。わかったような口をきくことが、なによりの証拠だわ」

口から飛び出す言葉の苛烈さと裏腹に、自分が今とても穏やかな目をしているだろうことがなんとなくわかった。そんなわたしに、義丸さんは怒るでもなく戸惑うでもなくただきゅうと目を細めて、じんわり眉根に皺を寄せている。眩しそうな顔をしているなと思った。
だから、また海で。そう言い残してわたしは踵を返した。近づいてきていた小船から義丸さんの名を呼ぶ誰かの声が遠くに聞こえる。そうだ。ひとつになることもないまま分かたれるのが自然で、いつも通りで、それが正しくて。

「また海で」

堪えきれずに首だけを巡らしてもう一度目を合わせてしまった彼は、海のように大きく笑っていた。


20220707
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