ゆうなみこなみ

「奈緒さん、ここにいたんですか」

声をかけられて振り返ると、ちょっと離れたところに重さんが立っていた。どうやら探させてしまったらしい。

「いただいた甘酒で作った鍋がそろそろ完成するので、呼びに来たんです」
「ありがとうございます。すみません、全部お任せしてしまって」
「いやあ、お客さんですから」

水軍館を出てからあてもなく歩いて辿り着いたこの浜の一角で、ちょっと海を見ていただけのつもりだったのに。わたしは思いの外ぼんやりし過ぎていたみたいだった。慌てて立ち上がるとほんの少しだけふらついて、自分が長いこと座り込んでいたことを実感する。夕凪が目映かったのだから仕方ない。
立ち上がってもなお寄せては返す波から目が離せずにいると、重さんが隣に来た。着物は乾いているものの、髪は湿っている。帰ってきてからそれほど時間が経っていないようだった。

「今日の海は、なんだかいつもより一層いい眺めのような気がします。どうしてでしょうか」
「昨日は嵐でしたからね。風と波が余計なものを浚っていったんですよ」
「余計なもの……」
「まあ実際のところは、海の中もかき混ぜられているから濁ってますし、漂流してきたものが打ち上げられたりもしてるんですけど。でも、なんとなくすっきりするんですよね」
「ふふ、なんとなくわかる気がします」
「潜るのは一苦労ですけど、私はこの海も好きです」

穏やかな口調で語られる海は、本当に彼にとって魅力的なものなのだと思わされる。水軍の人たちはみんなそうだ、海を愛し愛されてここにいる人たち。素直に羨ましいと思う。「わたしも男に生まれていたなら重さんたちのように海に出られたのでしょうか」だなんて、困らせてしまうから言わないけれど。そんなことが頭に浮かぶくらいには、いいなと思った。
おもむろに波打ち際に近づいて、つま先を浸してみた。気持ちいい。ちょっと驚いたように重さんがわたしの名前を呼んだけれど、聞こえないふりをしてそのまま数歩進む。足首を撫ぜていく波に呼ばれる。きらきらしていて、綺麗だ。
もう少し、とさらに踏み出したその時だった。

「それ以上は駄目です」

手首をがしりと掴まれ、あっと思う間もなくそのまま強い力で後ろに引かれた。突然のことによろめいたわたしの体は、しかし転倒することはなく、かわりに硬い胸板でもって抱きとめられた。さっきよりも幾分か強ばった声が落ちてくる。

「……危ないですから」
「そんな、ほんの水溜まり程度の浅さですよ」

大袈裟だと思ってくすりと笑うと、回された腕にぎゅうと力が込められるのがわかった。まるで逃がすまいとでもするかのようだ。

「それだけでは済まなくなるので。あなたを海にとられてしまうのは嫌なんです。すみません、妙なことをと思われるかもしれませんが、けど、おれは」

重さんがはっと言葉を止めた。彼の腕の熱が、胸の鼓動が、わたしを揺さぶっている。理解するより早く頭の芯がじんとして、もう何が何だか。くらりとした。

「……嫌だったら今すぐ振り払ってください」

それは小さな小さな声だった。

「本当はずっと言わないつもりだったんです。でも、もし、もしよかったら聞いてもらえませんか」

なにをとは尋ねられなかった。本当は、たぶんわたしもわかりかけている。
否とも諾とも言えないままほんの少し悩んで、そうしてわたしは腹を括った。わずかに身を捩らせると、今までの力はなんだったのかと思うほどあっさりと腕が外れ、解放された。そのまま離れていきそうになる重さんを、振り返って今度はわたしから捕まえる。触れた腕が躊躇うようにぴくりと跳ねた。
勇気を出して視線を合わせたら、きらきら、ちかちかと眩しくて吸い込まれそう。快活な笑顔ばかりを見てきたその瞳の奥に今は静かな葛藤と熱とが揺れていて、それがなんとも堪らなかった。
言って、言ってください。お願い。そう精いっぱい念じて見上げると、視界の端で日に焼けた喉がゆっくりと上下するのが見えた。


20220629
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