染みひとつ

十分後にマンションの前に着くから。電子音とともに携帯の画面に点いたメッセージは、ひどく簡潔で理不尽なものだった。拒否権などないと言わんばかりの文章をしばし眺めて、俺はため息をついた。もうじき日付も変わる。まだ一週間は始まったばかりで、明日も当然仕事だ。俺が断るとかもう寝ていて気づかないとか、そういうことは考えないのだろうか、こいつは。
それでも俺は、寝転がっていたベッドから起き上がる。ここまでの無茶を言われたのがはじめてだったからとか、適当に言い訳を考えてはみたものの、まあたいして意味はない。
寝間着代わりのスウェットを脱ぎながら時間を確認すると、もうあと七分しかなかった。適当な服に適当なダウンを羽織って、ポケットに貴重品を突っ込んで家を出た。マンションのエレベーターを降りると、自動ドアの先にはもうハザードの点滅する光の端が見えていた。

「お疲れ。ごめんね、夜中にいきなり呼びつけて」
「お疲れさん。構わんが、そっちは今が仕事終わりなのか」
「や、そういうわけじゃないんだけど、ちょっとね。あはは」
「……あんまり残業はするなよ。俺が言えたことじゃないけどな」

家から来た格好には見えなかったが、こうも露骨に避けられては深追いできるわけもない。黙ってシートベルトを締めると、車はゆるやかに発進した。
目的地すらも告げられないまましばらく走り続け、どうしたものかといい加減考えあぐねた俺に「潮江ってたばこ吸うんだっけ」ぽんと投げて寄越された質問は、それなりに意表を突いてとさりと突き刺さった。

「まあ、たまに」

選ぶような言葉も思いつかず、ただ少しだけ慎重に声を出した。連勤や残業の最中、もしくはそれらから解放された直後とか。稀ではあるが、なくはない。だがそれが何なんだ。

「じゃあ、吸ってよ」
「は?」
「今吸って、たばこ。そこにあるから」

そこ、と言われて目を向けたダッシュボードの上には、無造作に放り出されたコンビニのレジ袋。手に取ると、中には黒い箱と百円ライターが入っていた。
別に今はそれほど疲れていないし、喫煙をする気分でもない。それに、俺の記憶する限りでは奈緒は煙草のにおいを好まなかったはずだ。付き合う男も、みんな吸わない人間ばかりで。
……ああ。そうなのか。

「お願い。一本だけでいいから」

なぜそんな縋るような声で懇願するのか。それともこの脳みそが勝手にそう聞こえたように思い込んでいるだけなのか。
ぐるぐると。何が何だかわからず、それでも俺は黙って手のひらに収まるその箱のビニル包装を剥がした。カプセル入りのメンソールらしい。一本取り出してフィルターを噛むと、ぶちと潰れる感触があって人工のグレープの香りがした。火をつけて吸う。甘い。

「おいしい?」
「煙草は煙草、だな」
「ふうん。わたしも吸ってみようかな」
「やめておけ。そう美味いもんでもない」
「……そっか。そういえば、車って火をつける用に何かついてるんだっけ。なにも気にせずライター買ってきちゃった」
「ライターより、灰皿あるのかこの車」
「あっ、盲点。コーヒーの缶とかでいい?待ってね今飲んじゃうから」

ちらりと横目に運転席を盗み見て、俺はすぐそれを後悔した。頬に涙を流して、彼女はただ前を見つめていた。飲むと言ったコーヒーは二人の間にあるドリンクホルダーに収まっていたが、その両手は固く固くハンドルを握りしめたままだ。この小さな軽自動車がどこに向かっているのかは相変わらずわからない。いつの間にか街灯も少ない。でも、わからなくてももう気にならなかった。どこへだって付き合ってやるから、わけを訊ねる権利が欲しかった。
気づかれていないふりが下手な奈緒は、でもきっと俺のことを気づかないふりが下手な男だと思っているのだろう。お互いに不器用で、不器用だからこそこのシートに座っているのかもしれない。あるいは、ここにしか。
俺は無言のままコーヒーを取って飲み干し、灰を落とした。まだ終えるには早いその一本を、手が勝手に口元へ持って行く。吸い込む。やはり、甘く思えた。
くゆる煙を呑み込むことができない俺は、それを窓の隙間から逃がした。

20220308
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