うしなうためにあるすべて

両手でお椀をつくって、月の光を受けた。青白いそれが、この世の何より綺麗で澄んだものに思えて、そのままそっと抱きしめてみた。数瞬だけ目を閉じて、次に開けた時は前を見ている。平気。だって、わたしと違って月はきっといつまでもそこにある。
ひゅっと音が聞こえた。風の音でも草の音でもないそれは、撤収の合図。こんな夜じゃあ仕事になりゃしないと判断したらしい。そうでしょうとも。
わたしは極力音を立てないように、自然な夜を乱さないように気を使いながら腰を上げた。撤収だからといって気を緩めることはできないし、むしろ帰りの方が神経を使うと言ってもいいかもしれない。ネズミは逃さないことが肝心なものだから。それに、ここのところわたしたちはぎりぎりの線を攻めていたから、あちらさんもそれなりに警戒しているはず。ここらだってもちろん、そういうふうにできているだろう。足を置く場所ひとつ油断できなかった。
宵の口から空模様はこうだったのだし、今夜くらいもう少し無難に出てもよかったのに。そう思ったら、頭の中の先輩がバカタレと雷を落とした。わかってますよ、わたしたちの牽制が膠着状態を長引かせ、ひいては皆の命を長引かせるのでしょ。黙って真面目に帰りますよ。
再び矢羽音が飛んできた。どうやら殿は務めずに済みそうだ。まあ、わたし、一応まだ新人だし。ありがたく守られておこう。
自陣に戻ったのは、数刻ほど経った頃だった。月もだいぶん傾いてきている。不寝番の兵と篝火以外は人も山もすっかり寝静まっているようで、今この瞬間は穏やかであるかに思えた。
簡単な報告を終えて解散のお達しをいただくや否や、わたしは井戸へと向かった。傷こそ負わなかったものの、土やら埃やらで到底このまま眠る気にはなれなかったのだ。
月明かりを頼りに水を汲んでいると、ふと人の気配がした。

「無事か」

振り返ると、すっかり見慣れたうす暗い忍び装束姿があった。昔と違って、今はわたしもお揃いを着ている。それにももう慣れた。

「無事ですよ。ただいま戻りました、潮江先輩」
「傷はないのか」
「だから無事ですって。汚れたまま休みたくなかったので、清めたかっただけです」
「そうか」

ぎゅっと眉間に皺を刻んだ先輩は、それ以上何も言わなくて。ただずんずん歩いてきて、そのまま有無を言わせない強さでわたしをかき抱いた。

「汚れてますよ」
「俺よりはましだろう」

回された腕に力がこもる。無意識なんだろうか、痛いくらいだ。先輩はずいぶん変わられたように思うけど、なんかちょっとぎこちなくて不器用なところはずっと同じ。
この人は、たぶんずっと悩んでいる。揺れてる、苦しんでる、答えが出ないまま刻限だけが迫っている。そんなことを想像するとわたしの内も痛んでしょうがない。分け合って溶かして、ひとつになって、同じ痛みを持てたらいいのになあ。
先輩はわたしに何も言わない。逃げろとも逃げようとも言わない。だから、わたしも何も言わないでおあいこにしている。先輩の近くなら、どこに骨を晒すことになっても構わないんですよーって、思うだけ思って口にはしない。何かを間違えてしまうのが怖いから言わない。

「今夜は月がとっても青いから、きっと洗ってくれますね」

わたしのことも、先輩のことも。
この世の何より清廉な光に洗い流されたら、後には何が残るのだろうか。それこそ、骨しか残らないのかもしれない。


20210724
ジャベリン
back
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -