夜明け待つは冷えた身体

おはようございますと声をかけただけなのに、そんなに驚くとは思わなかった。と、隣でわたしの代わりに井戸水を汲み上げている彼の言い分はこうだった。
食堂の朝は早い。夜も明けぬ内に起き出して、まず最初にすることは水汲み。早朝とはいえ、この学園では夜を徹しての授業や鍛錬も珍しくはないので、人の気配が全くないということはあまりなかった。だけど、今日はいつもと少し違っていたのだ。
それは辺り一帯を覆う濃い霧だった。目を覚ました瞬間、まだ夜半かと思ったくらいに深い霧。馴染みきった場所すらもよそ人の顔をする中を一人でゆくのが少し怖くて、おかしなくらいどきどきしていた。そんなところに後ろから突然声をかけられたらどうだろう、堪ったものじゃない。それはもう、両手で提げていた桶をまるごとひっくり返してしまうのも無理はないと思う。わたしは被害者、そしてこのまったく悪びれない人が加害者。もっと反省の色を見せて粛々と水を汲んでほしい。

「いい歳して情けない、と思ってらっしゃるんでしょう」
「そんなことはないよ」
「うそ。顔がゆるまっています」
「いやあ、かわいい人だなと思って……それに、君の方だって全然怖い顔をできていないぞ」
「そっ、そんなことありません!それと、急にそういうことをおっしゃるのはやめてください、誰が聞いてるかわからないじゃないですか」
「ん?そういうことって、どんなことだ?」

ぱちりと王手をかけられた音が頭の隅で響いた。穏やかで柔軟なように見えて意外と力技なのよね、それなのにどうしていつも流されてしまうのだろう。
にこにこといつもの優しげな笑みを浮かべているはずの顔を見上げたくなくて、視線を落とした。いつのまにか彼の手元の桶はたっぷりの水で満たされている。ゆらゆらと水面を揺らしていて、じっと見つめているうちにわたしの心まで同じ調子で揺れ始めた。白濁の世界の中で、本当にわたしと彼の二人きりなんじゃないかと思えてくる静寂に包まれて、もしかしたら変な意地を張っているのはわたしの方なのかもしれないとさえ……いや、いやいや。
夢見心地な生娘ではないのだ。泥水の味を知ってしまった、どうしたってもう戻れはしない。でも、だからこその今なのだから、そう、わかるでしょう。わたしは変わらないままでいないと、そう思っていないと。
ひとつゆっくりと呼吸しようとし、すんでのところで堪えた。ほんの僅かな兆しでもきっと見抜かれてしまうから。あるいは、もう手遅れかも知れないけれど。

「人目のあるところで不用意な発言をなさらないで、お願いですから」
「どうして?」
「わたしとあなたはただ同じ職場で働いているだけの関係です……少なくとも、建前上は」

伝えることを心に決めると、案外容易に上を向くことができた。
まっすぐ見つめた彼は、どうしてかわたしの言葉に少し意外そうな色を見せ、口角を緩めた。本当に何故だかわからない、わたしだって多少は心を痛めながら言ったのだけれど。

「建前上は、ね」
「ええ……もしかして、わたしは既に見限られてしまいましたか?」
「まさか。ただ嬉しく思っただけだよ」

伸びてきた手がほつれかかった一房の髪に触れて、そのまま耳に掛けた。霧のおかげか、いつもかさついている指はしめりけを帯びていた。
この人はいつも色々な優しさを見せる。だけれどきっとこの表情は、少なくともこの学園の中ではわたしだけが知っているものなのだろう。頑ななわたしを少しずつほぐす思いやり、それに応えきれない自分自身が歯がゆい。なんて滑稽な板挟みだろうか。

「名前を呼んではくれないか」
「どいせんせい」
「そうではなく」
「……ごめんなさい」

まだ今はそれ以外、口にできる言葉が思い浮かばなかった。
せめて視線は逸らすまいと見つめ続けた彼は、それでもいつもの通りだった。

「いや、いいんだ。それより、さっきはからかって悪かったね。水は食堂に運ぶんだろう?私が持つよ」
「ありがとうござます……って、やっぱりからかっている自覚があったんですか!」
「はは、いや、どうかな」
「もう!」

相変わらずな霧の中、重いはずの桶を片手で軽々持ち上げてすたすた歩き始めた彼の後を慌てて追いかける。はぐれたらまた一人だ、それは嫌だった。

「あの」
「うん?」
「わたしは、こんな不甲斐ないわたしですが、お慕い申し上げております。本当に……」
「その言葉が聞けたなら、今はそれで十分すぎるくらいだ。もどかしいと言えば嘘だが、それ以上に君のことを思っている。私の気持ちも伝わっているだろう? だから、ゆっくりでいいんだよ」
「はい」
「奈緒の健気でいじらしいところが周囲に知れるのも惜しいしね」
「……またからかってらっしゃいます?」
「さあって、どうかな」

日が昇り始めたのか、ほんの少しの間にもみるみる視界が利いてきた。霧が消えたら今日は久しぶりの晴天になるだろう。


20200128
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