事の起こりは昼時の混んだ食堂でだった。しゃくしゃくと進む列のおしりに並び、さて今日はAランチにしようかBランチにしようかと思案していたところに後ろから声をかけられたのだ。
「おほー、今日も混んでるな」
ううん。声をかけられた、というのは違うか。知った声が聞こえたから振り返ったのだ。うん、声をかけたのはわたしだった。
「おはよう竹谷」
「お、食堂で会うのは久しぶりだな!ってもう昼だぞ?」
「わたしはさっき起きたところなの。夜間実習で今朝帰ってきたとこだから」
「そっか、お疲れさん」
「ありがと」
同い年の竹谷は友人だ。忍たまにさほど知り合いのいないわたしだけれど、彼とはなんだかんだいい関係でここまで来ている。わたしは忍たまにあんまり嫌がらせじみた悪戯を仕掛けなかったし、竹谷は優しく男らしいさっぱりした性格だった。三年生の頃、男女混合実習でペアを組んだのがきっかけだったと思う。
「そうだ。今朝帰ってきたんならさ、今日は休みだろ。後で飼育小屋に来ないか」
「飼育小屋?どうしてまた。捕獲作戦にでも駆り出されるのかしら」
「違うって」
冗談半分でにやっと笑ったら、竹谷は慌てたように手を振った。面白いくらい反応するから、嫌がらせはしないけれどこうしてからかうのは結構好きだ。
「このあいだ、やまいぬを拾ったんだ。見に来いよ」
やまいぬ。口の中で反芻し、断る理由もなかったわたしは頷いた。なんでもない風な彼の誘いに、わたしもなんでもない風で乗る。
お昼はBランチを食べた。言われたとおりの時間に飼育小屋へ行くと、そこには既に竹谷が待っていた。
「はやいね。待たせた?」
「ついでにこいつらの様子を見たかっただけだから大丈夫」
こいつら、というのは小屋の中にいる生き物たちのことだろう。じゃあ、その拾ったというやまいぬはここにはいないのか。
「こっち」
そう告げて踵を返した竹谷の背中を慌てて追いかけ、ついて行く。今日も暑いなだとか、明日は雨が降るだろうだとか、他愛ない話をしながら校庭を歩く。途中、委員会活動中らしき七松先輩の声が聞こえたが、それもすぐに遠ざかっていった。
言葉を交わしながらも、わたしはすぐ前で揺れる竹谷のぼさぼさ髪をじっと見つめていた。ちょっとくすんだ色で、手入れが行き届いているとは言えないけれど、ふさふさで触り心地は悪くなさそう。今から会いに行くやまいぬも、こんな毛並みなんじゃなかろうか。
そうしてしばらく、着いたのはいつもの飼育小屋より一回り小さい、しかし十分立派な小屋だった。
「ほら着いた」
「これ、わざわざ作ったの?」
「んや、前からあるぞ。しばらく使ってなかったからいろいろ直したけど」
ずっと思っていたけれど、虫かご作りや飼育小屋の修繕までこなしている竹谷は、きっと用具委員としても十二分にやっていけるんだろう。用具委員会委員長との相性も悪くなさそうだ。
感心しながら眺めていると、やまいぬ小屋を覗いていた竹谷が手招きをした。
「落ち着いてるから、大丈夫そうだ」
「うん」
そっとな。と言われたのに頷き、注意して竹谷の隣へと寄る。
そこには、気高き一匹の獣がいた。
「きれい……」
思わずため息と共にそんな言葉が漏れた。横で微かに笑う気配がしたけれど、目を離すことはできない。
奥の方で横たわる体はそれほど大きくはない。子どもなのかそれともそういう種なのかは分からないけれど、でもその体格にしてこちらを圧倒する存在感は、わたしの中に野生への畏怖を呼び起こすのに十分だった。
「こいつ、まだ子どもなんだ。崖下でうずくまってくんくん鳴いてるとこを見つけたんだけど、後ろ足を怪我してて。きっと親から離れて遊んでて落っこちたんだな」
「そうなんだ。怪我の具合はどうなの?」
「だいぶよくなった。引き摺りながらだけど歩ける」
「よかった」
ようやく視線を剥がして竹谷を見たら、優しい目をしてやまいぬを見つめている横顔があって、思わず「あ」と声が落ちた。
「ん?」
「ううん、なんでもない」
「中、入るか?怖かったらいいけど」
「いいの?」
「うん。遊んでやって」
この子と、遊ぶ?しっくりこなかったものの、とにかく一緒に小屋へ入ったら、わたしの予想に反して体を起こしたやまいぬの子どもはひょこひょこと近づいてきた。竹谷に促されてしゃがみ込むと、鼻を寄せられふんふん嗅がれる。審査中かな。そしてわたしはどうやら合格したらしく、頭を擦りつけられた手は思いの外柔らかい毛の感触を受け止めた。
「な、人懐っこいだろ」
「うん、驚いた」
「凛とした顔するけど、中身はまだまだ遊びたい盛りだ。じゃれて甘噛みしてくるのだけ、気をつけて」
「わかった」
なんだかこの子とは仲良くなれそうだ。竹谷の言うとおり、気高き野生の顔はどこへやら、怪我をしているのにも関わらずもっと撫でろと言わんばかりに元気に跳ね回る様子はかわいいとしか言いようがない。もちろん撫でた、たくさん撫でた。
わたしたちが遊んでいる間に、竹谷はてきぱきと水を換えたり寝床の藁を整えたりときっちり仕事を済ませた。全員が一段落着いたころ、遊び疲れうとうとし始めたそのお腹を撫でるわたしの隣に竹谷が腰を下ろした。
奇しくも、ここにくる途中考えていたとおりに竹谷とこの子の毛並みはそっくりだった。改めて見比べると面白くなってしまう、やまいぬとそっくりって。頓着しない性格というのは知っているけれど、もう少し気を使ってもいいと思う。
「なに笑ってるんだ?」
「いや、竹谷とこの子、そっくりだなって」
くすくす笑いながら竹谷の頭に左手を伸ばすと、意外だったのか目を丸くしてちょっと固まったのが分かった。その一瞬が命取りなんだよ竹谷くん、と距離を詰め、わしゃわしゃと同じように髪を撫ぜた。ほら、右手も左手もおんなじ感触。
「俺はやまいぬじゃないんだけど……」
「ぼさぼさにしすぎってことよ」
拗ねたように眉根を寄せる竹谷に笑っていたら、丸まっていた毛玉がくしゅんとくしゃみをしてはっとお互い口を噤んだ。そうだった、寝てるのにうるさくしてごめんね。
気づけば、小屋の中には西日が射し込んでいた。
「ねえ、なんでわたしを連れてきてくれたの」
わたしは、誘われたお昼の食堂からずっと気になっていたことを聞いてみた。べつになんだっていいのだけれど、でもやっぱり聞いてみたくて聞いた。
「ああ、それはなんとなく」
「なんとなく……?」
なんだっていいとは思ったけれど、それもどうなんだ。釈然としない気持ちがむわりと湧きかけた。が、竹谷の言葉はそれで終わりではなかった。
「なんとなく、お前ならきれいだって思うかなって」
きょとりと見上げるわたしに気づいた竹谷が相好を崩した。
「だからまあ、思いつきではあったけど、でも結果よかっただろ?きれいだったろ」
「……うん」
陽射しが顔に当たってまぶしくって、わたしは慌てて自分の膝に目線を落とした。橙の光に透かされ、奥の方まで知られてしまうような気がした。そわそわする、けれど居心地の悪い時間ではない。
「お前がこいつを見つめてる顔で、あー大丈夫だなって思った。俺以外の人間に会わせるの、はじめてだったんだけどさ。あーあ、もうすっかり腹見せちゃって」
「えっ、委員会の子たちもまだなの?」
「ああ。まあ、下級生はもしもがあると危ないしな。どっちにしろもうすぐ尾浜とかを連れてきて慣れてもらうつもりだったけど、結果的にはお前が最初」
なんと返せばいいのか分からなくて、わたしは自然な返事の間合いを掴み損ねた。「そっか」の一言でいいはずなのに、たぶんわたしは頭の隅で何かに期待してしまっていて、うまいこといかないのだ。
ただの日常の一部かもしれない今日のこの午後が、わたしたちにとってなにか特別なものであってほしいと思っている自分。きっとわたしは竹谷のことが好きなのだろうと気がついた。
20190622