漂流する月 | ナノ


▼ 3


観音坂独歩は目を疑った。昨晩終電を逃しシンジュクに近い所のホテルに止まったのまでは良かった。いや良くはないのだがまた明日も変り映えのない無為な一日が始まるんだと信じることができた。そこには希望も何もないが、少なくともルーチンワークをこなせば一日は勝手に終わるという確信を持っていた。

そんな独歩の世界がおかしくなったのは本当に一瞬のことだった。
会社に向かうため病める街シンジュクを目指す自分と同じようなやつれた顔をしたリーマンと共に駅のホームで電車を待っていた。
まもなく電車が参りますというアナウンスに毎度のごとくここで飛び込んで電車止めたらハゲ課長に迷惑かかって楽しいかもななんて毒づく。死後幽霊になってその様子を見てから成仏したい。残念ながら今日もその一歩が踏み出せなかった。
確かに視界の端に電車が入ってきたのが映ったのだ。ああ、どこか遠くの世界でストレスに曝されず生活したい。そうして独歩は天を仰ぐ。目に映るのはホームの屋根のはずだった。
次の瞬間、彼は横断歩道の真ん中に突っ立っていたのだった。
前後左右を確認する、お仲間のおっさんどもが見当たらない。
けたたましくクラクションが鳴らされ独歩は慌てて歩道へと入る。途端に停滞していた車の流れが川で詰まった落ち葉をどかした時のように通り過ぎた。クラクションを一回。邪魔してすみません。独歩は慣れたように頭を下げかけ、いやおかしいだろと我に返った。
自分は確かに駅にいたはずなのだ、なんだこれ、夢か?
小学生の群れが奇妙そうに脇を通り過ぎる。先頭の女児がブザーを握ったのを見て逃げ出した。通報されたら人生が終わることは混乱しきった独歩にも流石に理解できたのだった。200メートルほど走り込み、コンビニに駆け込んだ。店員がああ今日もまた遅刻しそうなやつが来たなと一瞬で興味を失い顔を元に戻したのを尻目に携帯を開く、地図アプリを付ける。そもそもネット回線が県外を示していた。もちろんアプリは白紙だった。
「すみません、地図があったらコピーさせてください」
「えっあ、いいっすよ…」
レジカウンターに身を乗り出し死にそうな形相でそう絞り出せば、少し引いた顔を見せた店員が後ろの棚から硬質ファイルに入れられた周辺地図を取り出す。駅までの道がわかればいいと、そのままコピー機へとかけ10円を突っ込む。慌てていたためファイルそのままで印刷したが確認するのに支障はなさそうだった。
すみませんありがとうございます。そう言って独歩はコンビニを出る。流石に奇妙なものを見る店内の複数の視線に耐え切れなくなったのであった。
反対方面でもこの際構わない。とにかく駅までのルートを確認しなければと歩きながらルートを確認する。交番よりも数が多いコンビニでは偶にそういった客が来るのも独歩は知っていたのでまず中心部を見た。先ほどのコンビニを発見する。まだ数が少ないコンビニなのかもしれない。知らない名前だったが無視してそこから一番近い白黒のラインを…。そこに来てはじめて違和感に気づいた。駅名が見たことなかったのだ。小さい場所であろうが東京周辺は営業である独歩の庭みたいなものである。いやそれは言い過ぎかもしれないが、とにかく大抵の駅名は頭に入っているはずだった。はずだったのだ。最寄りの大きな駅ならと、ラインをたどる。ギリギリ端の方に記されていた自分の会社が建つ見慣れた区名は漢字だった。

金が使えたのをいいことに、とりあえず会社のある場所へと向かう。
いつの間に漢字を充てられたのだろう。まあでも最近ニュースを見る暇もなかったし、自分が知らないだけの可能性がないこともなかった。
完全に遅刻である。足早に青白い顔で会社へと向かう独歩のいつもの道に並ぶビル群が若干違うような気がしたが、頭の片隅で警笛が鳴らされているのを無理やり振り払い、走る。
角を曲がる。そうだ、俺の会社はここに……。


見慣れない姿のビル一階は、お洒落なバーと化していた。

「終わった」
それだけ呟いて立ち竦む独歩を道行く会社員が奇妙な顔で眺めていた。






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