「理一さん、勉強教えて」

玄関先でそう晴れやかに宣言する彼女に、俺は小さくため息をついた。

「…学校は?」
「夏休み!理一さんこそなんで家にいるの?平日なのに」
「代休だよ。どうして今日俺が休みって知ってるんだ?」
「夏希ちゃんから聞いた」

そう会話する間にも躊躇いなく靴を脱いで上がり込む。
肩から下げたキャンパス地のトートバッグは、教科書やノートが入っているらしく重そうに膨らんでいた。

彼女が俺の家に上がるのは初めてではない。
迷わずにリビングのドアを開けると、テーブルの前に陣取ってその上に物を広げ始めた。

「…教えると言った覚えはないんだけど」
「でも、教えてくれるでしょ?」

にこ、と笑うその笑顔は、可愛らしさとふてぶてしさがギリギリのライン。
俺が断らないことを知っている、小憎たらしくも憎めない調子で彼女は押し切った。
家で怠惰に過ごそうと思っていた休日は、想定外の来訪者によってあっさり予定が変わってしまった。

早速教科書を広げる彼女の前に、もはや押し返すことは諦めきって麦茶のグラスを置く。

「…で。何を教えてほしいって?」
「理一さんて、確か英語できるんでしょ」
「まあ、仕事で使うからね。でも、高校英語の文法とはまた別だよ」
「でも、できるんでしょ!あとね、数学」
「…覚えてるかなあ」

彼女の向かいに座り、教科書を一冊取り上げてぱらぱらと捲る。
…英語はいいとして、数学はギリギリかな。

目の前の彼女――なまえちゃんは、まだ高校生で。
微積やら関係代名詞やらを解説するテキストが、その事実を言葉にせずとも語っていた。
本当は、年頃の女の子が独り身の男の部屋に軽々しく上がりこむなんてよからぬことなのだろうけれど、それだけ信用されているということなのか、意識されていないということなのか。
おそらく後者なんだろう。
彼女にしてみれば、そもそも四十路の男が「男性」の範疇に入るはずもないのだ。

「夏希と一緒に来なかったのか?」

そう問いかけてみれば、彼女は少しだけ唇を尖らせる。

「…夏希は健二くんと勉強するって」
「健二君は、夏希より年下だろう」
「数学は夏希より全然できるもん」
「なまえちゃんもそっちに行ったほうがよかったんじゃないのか?」
「いや!どう考えても私がお邪魔虫じゃない!!」

そう言ってシャーペンを握りしめた手でテーブルを叩くと、グラスの中の麦茶が揺れた。

「…俺のお邪魔虫になるとは思わなかったのか?」

意地悪心を出して聞いてみれば、彼女はけろりと笑って言う。

「だって、夏希ちゃんが理一さんなら絶対大丈夫って言うから」

…あの姪っ子には、教育的指導が必要らしい。

兎にも角にも、二十歳以上年下である彼女に勝てた試しなどない。
幼さ故の無邪気さには、どうにもペースを乱されてばかりだ。
ここに、夏希という参謀がついているなら尚更。

「あのね理一さん、ここの文法がどうしてもわからないの」
「…はいはい。どこ?」

それでも、頼られれば決して嫌な気はしないので、こうして彼女に付き合っている。
強引でありながら上手に人に頼る彼女の資質は、あと5年も経てばきっといろんな男を勘違いさせるんだろう。

「…なんか、学校の先生より理一さんのほうが教え方上手な気がする」
「褒めても何も出ないぞ」
「何か欲しくて言ってるわけじゃないもん」

唇を尖らせながら、それでも視線はテキストに注いだままだ。
まったく、真面目なんだか不真面目なんだか。


それから二時間ほど真面目に問題と格闘して、ひと段落したところでなまえちゃんは大きく息を吐いた。

「あ〜!ちょっと休憩!」
「思ったより集中して頑張ったなぁ」

空になったグラスに二杯目の麦茶を注ごうと席を立つと、俺のシャツの裾を彼女が引いた。

「…ねぇ、理一さん」
「なに?」
「勉強終わったらね、お願いがあるの」
「…変なことじゃないだろうな」
「変なことじゃないよっ」

言うと、トートバッグの中から一枚のDVDを取り出す。

「これ、一緒に観てほしいんだけど」
「ホラー…」

正直あまり得意ではない。

「一人で見るのは怖いし、でも誰も付き合ってくれなくて、でも好きな俳優さん出てるからどうしても見たいの!」
「…わかったよ」

何だかんだ言って、この子に逆らえたことはない。
あと5年も経てば…などと思ったが、今現在だって十分男を振り回す能力をもっている。
今は、彼女がその可能性に気付かないうちに、"男性の範疇外"にして"友達の親戚のおじさん"というポジションを有り難く享受することにしよう。

 

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