雨色抒情
日本列島が梅雨入りした最初の週末、私は北鎌倉駅のホームにいた。
きっかけは、小雨そぼ降る昼休みのコンビニ帰り、街路樹の根本に咲く紫陽花を見たことだった。
――鎌倉に、紫陽花を見に行きたいなあ。
鎌倉には紫陽花の名所がいくつかあったはず。
以前、友達と日帰り旅行をしたときにそれを知って、いつか行ってみたいと思っていたのだ。
思い立ったら吉日である。
その気持ちが萎えないうちに、理一さんにメールを送った。
理一さんは私がひっそりと想い続けている人で、何度か飲みに行ったことはあるけれど、昼間に一緒に出掛けたことはない。
これってデートだよなぁと思いながらお誘いのメールを送ったので、OKの返事をもらった時は嬉しかった。
そして約束の今日。
駅のホームで待ち合わせることにしているのだが、ドキドキしすぎてだいぶ早めに着いてしまった。
ベンチに腰掛けて一息ついた時だった。
「なまえちゃん?」
顔を上げると、理一さんがそこにいた。
「あ、あれ?理一さん?」
「早めに着いてしまったと思ったら、なまえちゃんも早かったんだな」
そう言って微笑む。
ああ、今日もかっこいいです。
「待ったかな?」
「いえ、私もさっき来たところで…っていうか、同じ電車だったかも」
「そうかもしれないね。すぐ行ける?」
「はい!行きましょう」
今日は北鎌倉からスタートして、鎌倉でお昼を食べて江ノ電に乗り、極楽寺から長谷にかけて散策するコースだ。
結構歩くので、靴は歩きやすいものを選んだ。
必然、ヒールが低い靴になるのだけれど、長身の理一さんと並ぶといつも以上に身長差を感じる。
「雨降っちゃいましたね」
傘をさしている分、理一さんと離れて歩く。
しかも、傘をさしていると顔が見えない。
「うん。でも、雨の鎌倉も風情があっていいね」
しっとりと濡れた古都の風景は、大人のデートによく似合う。
…と、思う。
紫陽花が有名なお寺に行くと、思ったより人は多くなかった。
雨のおかげかもしれない。
でも、皆傘をさしているので前に人がいると視界がふさがれてしまう。
同時に、自分の傘も誰かの視界を奪っているのだろうと思う。
…理一さんと相合傘したら、少しは後ろの人が見やすくなるかな?
なんて、絶対自分からそんなことは言い出せないんだけど。
その後、鎌倉駅に移動して小町通りでお昼ご飯を食べてから江ノ電に乗り換えた。
雨は時々止みそうな気配を見せながらも、ずっと降っている。
理一さんいわく「夕方にはあがる予報」らしいけど。
本日私たちの終点となるお寺は、さすが紫陽花の名所と名高いだけあって今日一番の人ごみだった。
紫陽花が植えられた散策路に通ずる列に並んで、ひたすら列が進むのを待つ。
「今日はだいぶ歩いたけど、足は大丈夫?」
「はい。でも、あんまり歩いたって感じがしなかったです」
「景色を見ながらだからかな。それに、なまえちゃんと話してるとあっという間に時間が過ぎちゃうね」
そんなことを言われて、頬が熱くなる。
私もです。理一さんも同じ気持ちでいてくれたらいいな、と思う。
ようやく散策路の入口に来たところで、理一さんが言った。
「ちょっと路が狭いね。混んでるし…。なまえちゃん、俺の傘に入らない?」
「え!?」
「あ、もちろん嫌じゃなければだけど…」
「い、嫌じゃないです!!」
なんと、前のお寺で考えていたことを理一さんの方から言ってくれた。
自分の傘を閉じて、理一さんの傘の下に潜り込んだ。
今日一番、理一さんに接近する。
確かにスペースの削減になるのだけれど、いざ実行するとなると結構恥ずかしい。
「濡れてない?大丈夫?」
傘の屋根と雨に閉じ込められるせいか、普段よりも理一さんの声が近い気がする。
こんなに近いと、私の心臓の早鐘まで聞こえてしまうのではないかと思う。
「あの、傘もっと理一さんの方で大丈夫ですよ」
「でも、なまえちゃんが濡れちゃうから」
「でも、これじゃ理一さんが濡れちゃう…」
「じゃあ、こうしようか」
言うと、理一さんは左手に持っていた傘を右手に持ち替えて、左手で私の肩を抱き寄せた。
一気に縮まった距離に、心臓が跳ね上がる。
「少し狭いけど、我慢できる?」
ほとんど耳元でそう囁かれて、私は頷くしかなかった。
どうしよう、私汗臭くないかな?
じっとり汗かいてて気持ち悪いって思われないかな?
何か話すのも恥ずかしくて、なるべく紫陽花に意識を注ぐようにする。
皆紫陽花を見たり写真を撮ったりしているから、止まりはしないけれど牛のような歩みだ。
私たちもそれに合わせて、ゆっくりと歩いて行った。
「…あ、なまえちゃん、あそこ見て」
しばらく歩いた後、理一さんが不意に言った。
「何かありました?」
「あの紫陽花、ハート型に見えない?」
言われて、示されたほうを見ると、確かにハート型に見える紫陽花が咲いていた。
「本当だ!」
すると、私たちの後ろにいた女の子二人組が声をかけてきた。
「…あのぉ、ハート型の紫陽花ってどれですか?」
「え?ああ、あそこですよ」
「あーっ、ホントだ!」
大学生くらいの女の子たちは、きゃあっと声を上げて携帯を取り出し、写真を撮り始めた。
「私たち、ずーっと探してたんですよ〜」
「ここのお寺でハート型の紫陽花見つけたら、恋が叶うって聞いて!」
女の子らしい可愛いジンクスに、思わず頬が緩む。
「なまえちゃんもそういうの信じる方?」
「うーん、昔はやってました。三輪さんの画像を待ち受けにしたり」
「何それ、どんな効果があるの?」
「色によって効果が違うんですよ!ピンクは恋愛とか、黄色は金運とか」
私が力説すると、理一さんは笑った。
「まあ、ジンクスを信じることで前向きになれるのが一番なんだろうね。なまえちゃんは写真撮らないの?」
「…うーん…いいかな」
写真を撮るよりも、しっかりと目に焼き付けたいと思った。
ここで、理一さんと一緒に見たという思い出も含めて。
「そうか。それじゃあ、その分しっかり見ておこうね」
そう言ってくれた理一さんには、私の言いたいことが伝わっている気がした。
あじさい散策路をすべて歩き終わってお寺を後にすると、下調べしておいた古民家カフェに入った。
中庭が見える畳の席に座って、理一さんはアイスコーヒー、私はアイスティーを頼んだ。
注文したものを飲み終わり、私は帰るタイミングを計っていた。
できるなら、もう少し一緒にいたい。
でも、これ以上長居するのはお店の人に迷惑だろう。
かといって、店を替えようと誘うのは気が引ける。
一緒にいればいるほど、別れがたくなってしまいそうだ。
すると、中庭を眺めていた理一さんが言った。
「――雨、上がったみたいだよ」
気づけば、雨雲が切れて斜めの光が中庭に差し込んでいた。
「この天気だと、虹が見えるかもしれない。出てみない?」
理一さんに促されるまま会計を済ませ、一緒に外に出ると――
「…本当だ…」
理一さんの言う通り、東の空に虹が出ていた。
雨上がりの柔らかな水色の空に、色の境目がはっきりとした大きな虹だった。
「今日はいいものがたくさん見られたね」
私の隣で理一さんが言った。
「今日は誘ってくれてありがとう」
「そんな、私こそ…」
言葉を継ぐ前に、理一さんが私の手を取った。
そして、指を絡めて手をつなぐ。
目を白黒させていると、理一さんが照れたように笑った。
「ハート型の紫陽花を見たら、恋が叶うんだろう?おまけにこんな大きな虹まで見られたから、ちょっと行動してみようかと思ってね」
――ジンクスを信じることで前向きになれるのが一番なんだろうね。
そう言った理一さんの声が耳の奥に蘇った。
理一さんも、前に進むためにジンクスを信じるようなところがあるなんて。
思いがけず、年上の男性の可愛い一面を見た気がして、私はその手を握り返した。
それから、虹が消えるまで私たちは空を眺めていた。
心もち、朝よりも近づいた距離感で。
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