通勤ラッシュの人魚姫
昔から"都会"に憧れていた。
小学4年生で初めて福岡に行った。都会でびっくりした。
中学3年生で初めて大阪に行った。もっと都会でびっくりした。
でも、テレビで見る東京は福岡より大阪よりさらにオシャレで洗練されていて、いつか絶対東京に住むんだと心に決めた。
そして今春、長年の悲願であった「東京のOL」になった。
私の胸は期待で膨らみに膨らんだ。
そして楽しかったのは――家を出るまでであった。
(だって、ドラマでは通勤ラッシュのシーンなんてなかったじゃん!)
今日もまた知らないおじさんの間に揉まれながら、ドラマに出てくるOLさんはどうやってあんなスタイリッシュに出勤しているんだろうと考える。
自分は、朝のラッシュに揉まれるだけでヘロヘロだ。
自宅が会社から徒歩圏内なのか?
しかし、私の給料では会社の徒歩圏内になど住めるはずもない。
《まもなく〜新宿〜。新宿〜です》
車内アナウンスにはっとする。
新宿は特に人の乗降が激しい駅だ。
油断していると、降りるつもりがなくてもはじき出される。
また、去り際に尻を撫でていく不届き者もいる。
気を引き締めていかねば――と思ったところで、電車が大きく揺れた。
車内にいくつか小さな悲鳴があがり、それぞれが自分の身体を支えようとしていた。
けれど、車内の全員がどこかに掴まれているわけではない。
手ぶらだった私の斜め前のおじさんの身体が大きく傾いたその時――
「―――イ゛ッッ!!!」
パンプス中の小指に激痛が走った。
どうやら、ぐらついたおじさんが体勢を立て直そうと勢いよく踏ん張った時、私の足を下敷きにしたらしい。
私の叫び声におじさんは確かにこっちをチラリと見た。
しかし――
《新宿です。お忘れ物のございませんように――》
ドアが開いた瞬間、私の足を踏んだ犯人は逃げるように出て行った。
畜生――あいつ絶対気づいてただろ!!
踏まれた足がものすごく痛い。
痛すぎて一瞬目の前に火花が散ったくらいだ。
正直、座り込みたいけれど座り込めるほどのスペースもない。
ああ、今日はなんてツイてないんだろう。
じわりと涙が浮かびかけた瞬間だった。
「…大丈夫ですか?」
隣の人が声をかけてくれた。
「あっ、すみません。大丈夫です」
顔を見ると、30代後半か40代前半くらいの男の人だった。
ちょっとおじさんだけど、背が高くてなかなかのハンサム。
というか、さっき電車が揺れたとき転ばずに済んだのは、この人に思いっきり体重をかけてしまったからでした。スミマセン。
「だいぶ思いきり足を踏まれていたみたいでしたけど」
「あー…まあ、ええ」
「どこで降りますか?」
「あの、四ツ谷まで」
「自分も同じです。もしよければ、ちょっと見せてもらえませんか?」
「…お医者さんなんですか?」
「医者ではないですが、応急処置くらいの訓練は受けているので」
…この人何者?
正直、親切を装った変質者なんじゃないかと思ったが、目の前の男の人からイヤらしい感じはしなかった。
いや、でもわからないぞ。紳士の皮を被った変態もいるからな。
四ツ谷駅で下車して、ホームのベンチに腰を下ろした。
「ちょっと、見せてもらってもいいですか?」
それって、この人に足を見せるってことだよね…
どうしよう、紳士面したパンスト足フェチとかだったら…
――と一瞬考えはしたものの、大人しく従った。
何しろ、小指が痛すぎてここまで歩くのでさえこの人に支えられてのひょこひょこ歩きだったからだ。
私がパンプスを脱ぐと、彼は私の足元に跪いた。
下着が見えないように膝頭をくっつけるが、彼はそんなのチラリとも見ようとしない。
「ああ、腫れてますね。動かせますか?」
「かなり痛い…けど、はい」
「動かせるなら骨折はしてないと思うけど…。その靴じゃ痛いだろうなぁ」
先が細いパンプスは、普通に履いていても爪先が痛くなることがある。
ハンカチでも当ててクッション代わりにできたら少しはましになるのだろうが、そんなものを入れる隙間などない。
結局、会社まで徒歩十分の道のりをこの靴で歩くしかないのだ。
げんなりした私の顔を、その人が下から覗き込んだ。
端正な顔に見つめられてこんな状況だというのにドキッとしてしまう。
「ここから会社までどのくらい?」
「徒歩10分くらいです…」
「…歩ける?」
正直、かなりキツかったけれど、はいと言うほかはない。
そう思っていたら、目の前の彼は思いもよらないことを言った。
「…会社まで背負っていこうか?」
「え!?いやいや、そんな、大丈夫です!!」
「ですよね。すみません、変なこと言って」
自分でも現実的な提案だとは思っていなかったらしい。
私が即座に拒否すると、彼は照れたように笑った。
でも、その気持ちが嬉しかった。
東京に来てから、通勤ラッシュでこんなに優しい人に出会ったことなんかなかったから。
「…あの、これ以上ご迷惑はかけられませんし、本当に大丈夫です。ありがとうございました」
「いや、俺は何もしてないし、かえって気を遣わせてごめんね。本当に大丈夫?」
「はい。歩けるくらいには痛みも引いてきたし…」
「それじゃあ、俺は先に行くよ。お大事に」
そして、彼は去っていった。
そのあっさりした去り方に、本当に下心などない親切心だったんだなぁと思う。
名前も連絡先も聞かなかい、大都会の中で一瞬袖が触れ合うだけの縁だった。
結局その後病院に行って、重めの打撲と診断された。
足を踏んでいったオッサンは今思い出してもムカつくけれど、その後出会った親切な人のほうが印象に残った。
そのせいだろうか、なんとなくその日から車両を変えがたくなった。
降りる駅が同じなら、またいつか会えるかもしれない。
そうしたら、今度こそ名前を聞きたい。
そんな風に思って一週間後。
「――あ」
「あっ…」
朝の通勤電車、新宿駅を発車した後の電車の中で、見覚えのある長身と目が合った。
「この前の…」
ああ、相手も覚えていてくれたんだ。
そう思っていたら、彼が小さく微笑んで言った。
「足は大丈夫?」
二人が下車する四ツ谷駅まで、あと少し。
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