嘘のち、まこと


寝起きで霞みがかった思考のまま、布団を手繰り寄せた。
肌に触れるシーツの感触が心地良い。
このままもう少し惰眠を貪ろうとして――気付く。

…肌に触れる、シーツの感触?

おかしい。シーツが肌に触れるということは、服を着ていないということではないか。
そういえば布団の感触も違う。
私愛用のマイクロファイバーの毛布はどうした。
…っていうか、今私を抱きしめている、この腕は誰なんだ。

恐る恐る、首だけ回して背後を見やる。


「―――!!」


叫びそうになったのをすんでのところで堪えたのは、咄嗟に理性が働いたからだった。
しかも私は、今私を背後から抱きしめて寝ている彼を知っている。

……陣内さんは、同じ職場の人だ。
上司にあたる人だが、部署内での勤務歴は私の方が長い。
その陣内さんと、私が、同衾している。
…肌に触れる感触が正しいなら、少なくとも私は裸だ。

だんだん思いだされる昨夜の記憶。
そう、昨日は職場の宴会で、二次会、三次会までは記憶にある。
そのまま、どんな流れで解散したのかは憶えていないけれど、気付いたら陣内さんと二人、ホテルのベッドの上で事に及んでいた。
飛び飛びの記憶ではあるが、その事実ははっきり憶えている。

――自分は、酒で理性を飛ばす方ではない。
こんな失敗、生まれて初めてだ。
そして、酒による失敗を憶えている性質であることを恨んだのも。
だって、彼の掌や唇の感触は今も生々しく思いだすことができる。
それは明らかに過ちなのに、とても気持ち良かったことをハッキリ憶えているのだ。

後悔や自己嫌悪はさておき、とにかく今はこの状況を何とかしたい。
目線を動かせば、ベッドの下に脱ぎ捨てられた衣類が折り重なっているのが見えた。
おそらく、下着もその辺にあるのに違いない。
陣内さんには申し訳ないが、できればこのままこっそり逃げたい。
ゆっくり、ゆっくり、じりじりと身体を移動させて腕の中から抜け出す。
布団の動きを最小限にとどめて、ベッドから出ようとした瞬間――


「どこに行くの」
「ひゃあ!」


右腕が、力強く掴まれた。
反射的に悲鳴を上げると、小さく笑い声が漏れた。


「…こっそり帰る気?」


見れば、ベッドの中から陣内さんが私を見上げて微笑んでいた。
瞬時に血の気が引いていく。


「じ…陣内さん…」
「昨日のこと憶えてないの?…っていうか、寒くない?見えてるし」


指さされて自分の身体を見下ろせば、裸の胸元が完全に露わになっていた。
引いていた血の気が一気に頬に昇り、慌てて布団を手繰り寄せる。


「…で、さっきの質問。憶えてないの?」


同じ質問を繰り返されて、唇を噛んで俯いた。


「ああ、憶えてはいるんだ。なのに俺を置いて帰ろうとしたんだ?」
「や、それは、その!」


まるで仕事のミスを指摘するかのような、普段と変わりばえのないトーン。
思わず、こちらも謝罪の体勢に入ってしまう。


「――すみません!」


そう言って頭を下げると、陣内さんは目を丸くした。


「…なんで苗字さんが謝るの?」
「あの!よく憶えてないんですけど、でも、多分私がなんか迷惑かけたんだと思うし…」


最後の方は尻すぼみだ。
そんな私の反応に、陣内さんは「…もしかして本当に憶えてないの?」と呟いた。
正確には「よく憶えていない」のは事に及ぶまでの経緯であって、事に及んだ事実は憶えているのだけれど。
でも、陣内さんは上手い具合に勘違いしてくれたみたいだった。

陣内さんが身体を起こして溜め息をつく、やっぱり相手も裸だった。うわあ。
手櫛で髪を整えて、しばらく考え込んだ後に陣内さんは口を開いた。


「…昨日は、三次会の後、駅まで送るよって俺が申し出たんだけど」
「……はい」
「苗字さん、気持ち悪いって言いだして」
「う、……はい」
「ホテルには休憩のつもりで入ったんだけど」


ゆっくり、陣内さんの口から語られる事実に、固唾を飲んで聞き入っていた。


「締めつけられて苦しいって言うからスーツを脱がせて」
「え!?」
「シャワー浴びたいって言うから、バスルームの準備してたら全裸で寝落ちしてて」
「えええ!?」


だんだん、私の記憶と食い違っていく。
確かにホテルに入った経緯まではその通りなのかもしれない、けれど彼の話が本当なら、私の記憶にある営みは存在しないことになる。
…もしかして、これは陣内さんの優しさなんだろうか。
昨夜のことを、なかったことにしてくれようとしているのか。


「だから、心配するようなことは何もなかったよ」
「…そ、そうだったん」
「――って、言ったら安心する?」
「は?」


にっこりと、凶悪なまでに爽やかな陣内さんの笑顔。
この顔を、私は知っている。
…ものすごく、怒っている時の顔だ。


「残念だけど、俺はそこまで優しくないよ」
「え、ちょ、ぎゃあ!」


せっかく起こしていた身体を、またベッドに押し倒される。
布団を剥ぎ取られて口から出たのは可愛くない悲鳴だった。
っていうか、よかった陣内さんは下穿いてた…じゃなくて!
私だけ丸裸で彼の下に組み敷かれて、隠したい場所が腕二本では追いつかない。
私を見下ろしながら、陣内さんが目を細める。


「…どこから思い出させてあげようかな」


普段、職場では見たことのない雄の視線。
その視線に、ぞくりと背筋が震える。
陣内さんの指先が私の首筋に触れて、反射的に身体を竦ませた。


「ここに、昨日の跡があるよ。…ここも、ああ、ここにもあるね」


彼の指先が胸元を通り、腰に降りて行く。
…昨日、その場所に彼の唇が触れたのだ。
私が泣きそうになっていると、陣内さんが耳元で囁いた。


「同じことしたら、思い出すかな?」


――もう、声も出なかった。

これは罰なんだろうか。
酒を飲んで理性を飛ばしてしまった罰。
自分のしたことを誤魔化そうとした罰。
起こった事実から一人だけ逃げようとした罰。

陣内さんはきっとすごく怒ってる。
だからこんな風に私を責めるんだ。
明日から、どんな顔をして一緒に働いたらいいんだろう。
ううん、もう一緒に仕事なんてできない。
尊敬していた。好きだった。その感情が恋愛感情でなくとも。
でも、もう今までと同じ関係には戻れない。絶対。


「…っ、ふ、うぅ」


そんな事を考えた瞬間、涙が溢れて嗚咽が漏れた。
陣内さんがぎょっとしたような顔になる。
ああ、ここで泣くなんてますます最低だ、私。


「――ごめん!」


慌てて私の上から退いて、さっき剥いだ布団を元に戻す。

でも、陣内さんに謝らせたかったわけじゃない。
本当に謝りたいのは、私。

私が泣きやむまで、陣内さんはもう指一本触れようとしなかった。
私の嗚咽がようやく落ち着いて彼を見上げると、ものすごく困った顔をしていた。
困っただけじゃない――悲しそうでもあった。


「…本当のことを言うよ」


そうして、陣内さんは昨日のことを語り始めた。




酔って気分が悪くなった苗字さんを休憩させるためホテルに入ったのは嘘じゃない。
タクシーで送ると申し出たところ、今車に乗ったら絶対に吐くと言い張ったためだった。
幸いなことに、酔った女性に手を出してはいけないという自制心がきく程度には自分は正気だった。
間違いなど起きるはずもないし、次の日に事の成り行きをちゃんと説明できる自信があった。
けれど、そうできなかったのは――




「――我慢できなかったんだよ、俺が」


そう語った口調は、明らかに自嘲の色を帯びていた。


「酔った苗字さんに手を出して、悪いのは全部俺だ。殴られてもいいくらいだ。ごめん」


そして陣内さんは私に深々と頭を下げた。
…でも、陣内さんの説明には一番大事な部分が抜けていた。

それは"なぜ我慢ができなかったのか"?
陣内さんは、一夜限り女性に手を出すような人じゃない。
ましてや、同じ部署で働く女なんて、面倒な相手を選ぶようなバカでもない。
普段の、理性的で有能な彼らしからぬその行動に至った一番の理由は?

…でも、彼のそんな話を聞いて、何も思い出さないほど私もバカじゃなかった。
だんだん蘇ってくる記憶の中で、確かに彼は私に「好きだ」と言った。
そして、私もそんな彼の背中に腕を回したのだ。
だとすれば、やっぱり責められるべきは私。
彼の告白を受け入れておきながら、なかったことにしようとしたのだから。


「昨夜のこと、なかったことに…って俺から言うのは都合がよすぎるよね」


思い出した今となっては、そんな言葉も痛々しかった。
黙ったままの私を見て、陣内さんが体勢を変える。


「…先に出てるから、苗字さんはゆっくり支度してくといいよ」


そう言って私に背を向けようとした、その背中に思わず縋った。
服を着ていれば服を掴むところだけど、掴むところがないので腕をまわして抱きついた。
肌に触た陣内さんの裸の背中から、彼の体温が伝わる。
それは、昨晩さんざん重なって馴染んだものだった。


「――陣内さん、違うんです、ごめんなさい」


ようやくそれだけ言うと、陣内さんの身体がすこし強張った。


「苗字さん…もしかして、思いだした?」
「…はい」
「……そっか」


そう言って、陣内さんは息を吐いた。
身体を捻って、背中に顔を埋めたままの私の頭をぽんぽんと撫でる。


「本当に、君が謝ることはないんだよ。悪いのは俺なんだから」


そう言う口調は、完全に、部下と間違いを犯した上司のものになっていて。
ここで腕を離せば、きっと何事もなかったかのようにまた月曜から一緒に仕事できるだろう。
でも、そんなのは嫌だった。


「…陣内さん。私、陣内さんのことは、好きっていうか、尊敬してて」
「……うん」
「昨日も、陣内さんに告白されて、すごく嬉しかったですけど、でも、私もすごく酔っぱらってて」
「知ってるよ」


陣内さんの手が私の肩にかかって、優しく自分の背中から剥がす。
そうされて初めて、私は陣内さんの顔をまっすぐ見上げた。


「――なかったことにしたい?」


そう言いながら、陣内さんが自分で傷ついていることがわかった。
私は、静かに首を振った。


「もう一度、最初から好きにならせてください――って言ったら、ダメですか」


その言葉に、陣内さんが目を丸くする。


「最初があやふやになっちゃいましたけど。でも、私――」
「待って」


言いかけた言葉を陣内さんが止めた。
困ったように眉を下げて笑いながら、陣内さんが唇を開く。


「俺も、もう一回ちゃんと言わせて。…俺は苗字さんが好きだよ。酔ってる時に言うのはフェアじゃないと思ったけど、それでも止められないくらい」


陣内さんの指先が私の頬に触れた。


「…順番、違っちゃったけど。やり直せるかな?」
「――はい」


陣内さんが笑った。
それは職場で見せるのとは違う、無邪気な笑顔。


「……ここ、延長する?」


ちょっとだけ意地悪な色を含んだその言葉に、抗議のつもりで少しだけ腕に爪を立てる。
陣内さんは笑いながら、再び私をベッドに押し倒した。




 

[back]


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -