ゼロの純愛進捗
その日は、仕事が終わる少し前からそわそわしていた。
同期とはいえ、異性と二人で飲むのは久しぶりだ。
女子更衣室で私服に着替えて、化粧直しのために鏡の前に立つ。
普段ならば帰宅する前に化粧なんて直さないのだけれど――
認めよう、内心浮かれている。
恋愛感情を抜きにしても、これから会う相手はすごい美形なのだ。
せめて、隣に立って恥ずかしくない程度には身支度を整えたい。
その時、傍らに置いておいたスマートフォンが震えた。
この後会う予定の相手――降谷も、無事に仕事を退けたとの連絡だった。
このまま予定通りの時間に店で落ち合えそうだ。
いろんな人とメッセージをやり取りした履歴の中に、交際中の恋人の名前を見つけて一瞬考える。
異性と二人で飲みに行くことを、一応断っておくべきだろうか。
――いや、異性といっても"そういう"対象になりえる相手じゃない。
それに、ゲームが趣味の年下彼氏は、そんなこと気にも留めないだろう。
ピンクベージュのリップを引くと、なまえは軽やかな足取りで更衣室を後にした。
降谷に指定された店に入り、店員に待ち合わせであることを告げると既に降谷がカウンター席に座っていた。
仕事帰りらしいグレーのスーツ姿で、なまえを見つけた瞬間顔がほころぶ。
「みょうじ、お疲れ様」
「降谷君も、お疲れ様。待たせた?」
「いや、今来たところだよ」
席に座ろうとするなまえにドリンクメニューを差し出しながら言う。
降谷に指定されたのは、駅からほど近いワインバルだった。
なまえ達のいるカウンター席の他にテーブル席もあるが、それほど広くはない。
一見して、女性同士のグループが多い印象だ。
「かわいいお店だね」
見た目によらず男らしい性格の降谷にしては意外な店選びだった。
誰かと来たことがあるのだろうか。
「女の子の好きそうな店なんてわからないから、同僚に教えてもらったんだけど…みょうじ、ワイン大丈夫だった?」
「うん、好きだよ。ここは種類がたくさんあっていいね」
女の子、と言われて少しキュンとした。
29歳になってそんな風に言われるのは久しぶりだった。
職場には自分より10歳近く年下の後輩もいるし、年下の彼氏は間違っても自分を「女の子」などと呼んではくれない。
――降谷君、こういうことをさらりと言えちゃうのがズルイなぁ。
「…みょうじ?飲み物決めた?」
「っあ、うん、決めたよ。この、甘口のスパークリングにするね」
注文は降谷がしてくれた。
メニュー選びもなまえに迷わせず、気を遣わせず、先ほど「女の子の好きそうな店なんてわからない」と言った割には女性をエスコートし慣れていると思った。
「…何?」
なまえの視線に気づいて、降谷が問う。
「なんか降谷君、慣れてるなぁと思って」
「いや、そんなことないよ」
「そう?エスコートし慣れてる感じがするよ」
「本当にそんなことないってば。…俺、もてないし」
「嘘でしょ」
「本当だよ」
そう言ってばつが悪そうに、お通しのミックスナッツを適当に口に放る。
その様子がなんだか可愛らしくて、なまえはくすりと笑った。
「うん、でもなんかわかる気がする」
「えっ!?」
「降谷君、イケメンだけど傍から思うほどよりもてない気がする」
「ちょっと待って、みょうじにそう言われるとショックなんだけど」
そこに最初の一杯が運ばれてきた。
なまえは甘口、降谷は辛口のそれぞれスパークリングワインだ。
グラスを合わせると軽やかな音が響く。
喉を潤してから、なまえは話し始めた。
「入校してた時、女子部屋で誰がかっこいいとか、結婚するならとか、そういう話をしたことがあったのね」
「うん」
「降谷君て、かっこいい人だったら絶対名前が挙がるけど、付き合いたいとか結婚の話になると、意外と人気高くなかったよ」
「…なんでだと思う?」
「イケメンすぎるからじゃない?」
その回答に、降谷は両手で顔を覆った。
「…嬉しくないな…」
「見てる分にはいいけど、ってことでしょ。付き合うことになれば、いろんな面を知らなきゃいけなくなるもんねぇ」
「みょうじもそう思う?」
思いのほか真面目な顔で降谷が問う。
色素の薄い瞳に見つめられて、心臓が高鳴った。
「…私は…むしろ、降谷君くらい格好いい人がプライベートでは微妙にダサかったら、ギャップで好きになるかも」
「例えば?」
「えっ、うーん…水虫対策で実は五本指靴下を履いてるとか」
「わかった、今度から五本指靴下履くよ」
「いや、一般的には受けないからやめたほうがいいよ」
生ハム盛り合わせの中からどれを食べようか迷っていると、今度は降谷がなまえをじっと見つめていた。
「みょうじの方はどうなの」
「私ですかー。聞いちゃう?それ」
なまえはため息をついて話し始めた。
4歳年下の恋人がいること。
その相手はまだまだ結婚など考えていそうにないこと。
そして、少し迷ったけれど――多分その彼と結婚はしないだろう、とも。
「…どうして?」
降谷の瞳が僅かに細められる。
「理由は二つ。一つは、彼がずっと実家暮らしで家事スキルがゼロなこと。そのうえ、してもらえるのが当たり前だと思ってるし」
「あー、それは痛いな。みょうじは仕事続けたいの?」
「できればね。でも、あれじゃ共働きなんて無理」
「で、もう一つの理由は?」
「…もう一つは…」
その"もう一つの理由"がここにいるはずはないのだが、一応周囲を見回して声を潜める。
「彼のお姉さんがね、彼と仲いいんだけど、私のこと認めてないみたいで」
「小姑か」
「しかもね、そのお姉さん、私より年下なのよね」
「…それは、複雑そうだな」
「私には直接言わないけど、ババアって言われてるの知ってるよ」
「…それ、もう別れた方がいいんじゃないか」
「やっぱそうなるよね〜」
アハハ、と乾いた笑みをこぼす。
そして、小さくため息をついて呟いた。
「潮時かなあ…」
ぽつりとなまえが零した言葉を、降谷は聞き逃さない。
「あのさ、みょうじ…」
言葉を発しようとした、その時だった。
「やだちょっと、なまえさん!?」
話し声とBGMにざわついた店内で、ひときわ鋭い声がなまえの名前を呼んだ。
降谷となまえ、揃って何事かと声の主を探す。
そこには、流行の髪型に赤いリップを引いた女性が、なまえを睨むように立っていた。
彼女の姿を確認した途端、なまえの顔から血の気が引く。
「その人誰ですか?なんで男の人と二人でいるんですか?このこと、ヒロキは知ってるんですか?」
刺すような声で矢継ぎ早に問いかける。
もしやこれが噂の小姑ではあるまいか。
そんな意図を込めてなまえに視線を送ると、なまえは申し訳なさそうに眉根を寄せた。
その表情で、降谷は自分の予想が合っていることを確信する。
「この人は、職場の同期で…。別にやましいことは何もないのよ」
「でも、ヒロキは知らないんですよね?二股かけるつもりですか?」
なまえが気に食わないからか弟を大切に思うからか、――おそらく前者だろうが――彼女がなまえの話を全く聞く気がないことがわかる。
「麻里亜さん、ここでそういう話は…」
麻里亜と呼ばれた彼女の甲高い声に、周囲の客がこちらを伺い始めている。
好奇心に塗れた視線に晒されて、もうこれ以上この店では飲めないな、と悟る。
ならば、強引にでもこの場を収めなければ。
「二股じゃありませんよ」
降谷が声を発すると、なまえと麻里亜は二人そろって驚いた顔でこちらを向いた。
まさか降谷が何か言い出すとは思っていなかったのだろう。
降谷は、戸惑いの表情を浮かべたなまえの肩を強く抱き寄せた。
「なまえさんは、これから僕が口説くところだったので」
「なっ、降谷く…!!」
肩に置いた手に力を込めて、なまえの反論を封じ込める。
周囲の客は、ますます面白いことになったとこちらに聞き耳を立てている。
「まさか彼の身内に邪魔されるとは思わなかったなあ。でも、ちょうどいい機会ですから、弟さんに"よろしく"お伝えくださいね」
バーボン仕込みの笑顔で言い放ち、左手になまえの肩を、右手になまえのバッグを持って立ち上がる。
麻里亜が呆然と立ち尽くしている間に、さっさと店を出てしまわなければ。
呆然としているのはなまえも同じだったが、手早くカードで会計を済ませると店を出た。
なまえの肩を抱いたまましばらく歩き、麻里亜が追いかけてこないのを確認してから路地裏に入ると、降谷は言った。
「――ごめん!」
恐る恐るなまえの表情を伺うと、なまえは顔を真っ赤にしていた。
「あの場を何とか収めなきゃと思ったんだけど…ごめん、余計面倒なことにしたかも」
言いながら、その「面倒なこと」を望んでいるくせに、と腹の底で思う。
なまえの名誉を守りたかったのは本当だ。
あの場で、周囲からもあの女からも「二股をかけた女」という目でなまえが見られることは我慢がならなかった。
でも、もっと上手い方法があったはずだと言われれば反論できない。
降谷の言葉がなまえの彼氏に伝われば、強制的になまえと彼氏の関係には波風が立つだろう。
それを、なまえがどう受け止めているのかだけが怖かった。
「…こちらこそごめんね、変なことに降谷君を巻き込んじゃって」
消え入りそうな声でなまえが言う。
恥ずかしいのか、申し訳ないのか――それを確かめるためになまえの顔を覗き込もうとして、降谷はぎょっとした。
なまえの瞳に涙の玉が浮かび、頬を伝って流れたからだ。
「みょうじ!?ごめん、俺――」
「違うの、降谷君は何も悪くなくて…」
そう言ってなまえは目を伏せた。
「私ね、今日降谷君と飲みに行くことを彼に言ってなかったの。降谷君と二人で飲みに行くことになって、ドキドキしたのも本当。彼とはあんな素敵なお店でデートしたことなかったから、浮かれてた。罰が当たったんだと思う…こんなことになるなんて」
なまえの瞳からぽろぽろと涙がこぼれる。
「せっかく降谷君が時間つくってくれたのに、ごめんね」
けれど降谷の心には、なまえの言葉を聞きながらじわじわと喜びが浮かんでいた。
彼氏には秘密だった?二人で飲みに行くことにドキドキしていた?
――これはもしかして、
「…あのさ、みょうじ」
静かに涙を流すなまえの背中に、そっと腕を回した。
なまえの泣き顔が見えないように。自分の顔も見られないように。
「俺、一人暮らし長いから家事スキル高いよ」
「……え?」
自分を見上げようとしたなまえの頭を抱きしめて、胸元に押し付ける。
「うるさい小姑もいないし、あんな店よりもっと素敵な店もまた探すから。
…だから、俺じゃだめかな」
なまえが息を呑む気配がした。
心臓の鼓動をうるさいくらいに感じる。
もしかしたらなまえにも聞こえているかもしれない。
百戦錬磨の潜入捜査官が聞いてあきれる。
こんなシチュエーションでなまえに想いを告げる気はなかった。
泣いているなまえにつけ込むような、こんなやり方では。
なまえの反応がないことが怖くて、恐る恐る付け加えた。
「…その、五本指靴下も、履くし」
「五本指靴下?」
なまえが素っ頓狂な声を出す。
そっちじゃなくて、告白の方に反応してほしい。
「なにそれ?」
「えっ、みょうじが言ったんだろ!俺が五本指靴下履いてたら意外性に萌えるって」
「あっ、そういえばそんなこと言ったかも」
「適当だったのかよ!」
今度はこっちが赤面する番だ。
なまえから体を離すと、なまえはくつくつと笑っていた。
「…笑うなって」
「ごめん、だってまさか五本指靴下が出てくるとは思わなくて…」
「靴下はいいから」
口元を抑えて笑う、その細い手首を掴んで言った。
「…なんか言ってくれよ」
真剣な眼差しで言うと、なまえが再び赤面する。
「…本気?」
「本気だよ」
なまえは真っ赤な顔のまま、目を伏せて言った。
「…ありがとう。すごく嬉しい」
その返事に、降谷はごくりと生唾を飲む。
これはいけるぞ。
いや待て、その後に「でも…」と続く可能性が無きにしも非ずだ。
「でも…」
ほらやっぱり来た!
一瞬にして意識がどん底に落ちそうになった、その時だった。
「その続きの返事は、今付き合ってる人とちゃんと別れてから、でもいい?」
その言葉に一瞬喜びかけるが、すぐに頭を切り替える。
「ダメ」
「えっ」
「みょうじ、なんだかんだで彼氏に甘そうだから。ちゃんと別れられるか信用できないな」
「そ、そんなことないもん!」
「本当に?」
屈んでなまえの目を正面から覗き込む。
「…本当だよ」
「ふーん。でも、やっぱり少し心配だから、これから毎日メールする」
「そんなことしなくてもちゃんと別れるってば!」
「いや、そっちじゃなくて」
わざとなまえの髪をかき上げて、耳元で囁く。
「俺がみょうじのこと好きだってこと」
だから早く俺のところにおいで、と言うと、なまえの耳が真っ赤に染まった。
「とりあえず、さっき食事し損ねたからどこか行く?」
「…うん…」
「ごめん、もうオシャレな店のレパートリーないから普通の居酒屋になるけど」
「…もうどこでもいいです…」
そんななまえの姿を見て、初めて主導権を握れた気がした。
もう怖気づいたりしない。
腹を括ったゼロの本気、覚悟して受け止めろ。
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