違法ダーリン
疲労は冷静な判断を鈍らせる。
その日も、多分疲れていたのだと思う。
恋人としてしまった喧嘩は、元を辿れば大した発端ではなかったように思う。
けれど、いつの間にか論点がずれていたことにさえ気づかず、二人の喧嘩は収拾のつかないところまできてしまった。
そこに、なまえのとどめの一言が効いた。
「ごめんで済んだら、警察はいらないっての!」
言った後にしまった、と思った。
まさに警察官の恋人は、一瞬とても不快そうな顔をした後、嘲笑するように言った。
「そうだな」
その日、降谷はなまえの家に泊まる予定だったが、結局それぞれの家へ帰ることになった。
それから、和解はまだされていない。
「…で、なんで俺はお前に付き合わされてんの」
馴染みの居酒屋のボックス席で、向かいに座った気の置けない同期の男が呆れたように言う。
「だって、一人で家に帰りたくないんだもん!」
「痴話喧嘩なんか知るかよ。さっさと謝っちまえばいいのに」
「だって、私が言っちゃったんだもん」
「なんて」
「"ごめんで済んだら警察はいらない"って」
「当の警察官を相手に?」
「…そう」
「バーカ」
返す言葉もない。
なまえは冷酒のグラスをあおった。
「おい、あんまり飲むと本当に帰れなくなるぞ」
酒に弱いわけではないが、度数の高い酒をハイペースで飲めばそれなりに酔う。
数々の飲み会を共にくぐってきた同期だからこそ、互いの酒量はわかっている。
「そしたら、あんたの家に泊めてよ」
「冗談じゃねーよ。ますます彼氏とこじれるぞ」
「いいよもう、その話はやめよう」
「…お前が始めたんだろうが…」
グラスを空にしたなまえは、ドリンクメニューを眺め始める。
「…おい、みょうじ…」
「なに?」
顔を上げると、向かいに座った相手の視線はなまえの隣に向けられていた。
その視線を追うように自分の隣に目をやると、まさに冷戦中の恋人が、能面のような表情で立っていた。
「誰が、誰の家に泊まるって?」
「なな、なんでここにいるの!?」
反射的に逃げの姿勢になったが、それよりも早く降谷はなまえの腕を掴んでボックス席から引きずり出す。
「あの、みょうじの彼氏さんですか…?」
「すみませんね、彼女がご迷惑をおかけしたようで。迷惑な酔っ払いは僕が連れて帰りますね。これ、彼女の分です」
申し訳なさそうにそう言う様は人当りのいい好青年そのものだが、口調には有無を言わせない強さがあった。
降谷はテーブルの上に一万円札を置くと、茫然としているなまえを引きずって店の外へ出て行った。
残された男は、ぽつりと呟く。
「…すげーイケメンだったな…」
◇ ◆ ◇ ◆
愛車の助手席になまえを押し込むと、降谷も運転席に乗り込む。
「ちょっと、なんで零がここにいるの!?」
「シートベルトを締めろ」
先ほどとは打って変わった口調でなまえに命令する。
「いやよ、私降りるか――らっ!?」
なまえが言い終わらないうちに勢いよくアクセルが踏まれ、ブォン、という音を立てて車が急発進する。
慣性の法則に従って背中がシートに押し付けられたなまえは、命の危機を感じて大人しくシートベルトを締めた。
一緒にいる時、降谷がこんな乱暴な運転をしたことはない。
無言だが怒っているのだろう。
加速の仕方もハンドルさばきも、いつもより荒い。
降谷がアクセルを踏むたび、容赦ないGがなまえの身体にかかる。
そういえばさっき冷酒を一気にあおったことを思い出して、なまえはか細い声で言った。
「零…お願い…もうちょっとやさしく運転して…」
言われた降谷がなまえに一瞥をくれる。
なまえの顔色があまりよくないのを察知したのか、緩やかにスピードが落ちて、いつも通りの穏やかな運転に変わった。
けれど、その口から発せられた言葉は相変わらず冷たい調子だった。
「昨日の今日でどんな顔をしているのかと思ったら、まさか男といるなんてな」
「男って…ただの同期だよ。気晴らしに飲んだっていいでしょ」
「家に泊まるとか言ってただろう」
「あれは、別に本気じゃないし」
「言い訳は署で聞く」
…署?
なまえが訝しく思っているうちに、車はけばけばしい電飾で飾り立てた建物に近づいていく。
「嘘でしょ、なんでこんなところ!家に帰ろうよ」
「家じゃ壁が薄いだろ」
何をする気なんだ、何を!
なまえの背中に寒気が走る。
それを見透かしたように、降谷は片頬を上げた笑いを見せた。
「安心しろ、俺の取り調べは上手いぞ」
◆ ◇ ◆ ◇
適当に選んだ部屋に入ると、降谷は乱暴になまえをベッドに押し倒し、その上に馬乗りになった。
よく見れば、降谷は珍しくスーツ姿だった。
なまえに跨ったままジャケットを脱いで、無造作に放る。
「ねえ、ちょっと零!」
「暴れると公務執行妨害で逮捕するぞ」
「全っ然笑えないから、それ!」
言いながら自らのネクタイを外し、なまえの手首をひとまとめに拘束してしまう。
鮮やかな手さばきはさすがと言うべきか。
優男に見えても腕力は人並以上にあるのだ、なまえが抵抗したところで敵う筈もない。
「だいたい、なまえは俺が怒っている理由を理解しているのか?」
「…きのうのことでしょ?」
「違う。昨日のことはもういい。俺にも原因があった。でも今日のことは違う。なまえは、俺がなまえと喧嘩して他の女と会っていたらどう思う?」
「……やだ」
降谷の褐色の指がなまえのシャツのボタンを一つずつ外していく。
むき出しになった胸元が、薄暗い室内で白く浮かび上がっていた。
「自分がされて嫌なことはしない、基本だろう?」
「…ごめん、なさい」
「ああ、そういえば"ごめんで済んだら警察はいらない"んだったか?」
シャツのボタンを外し終わり、次に手が伸びたのはスカートのファスナーだ。
「本当に悪いと思っているなら、ちゃんとお仕置きを受けられるよな?なまえ」
「…何する気?」
嫌な予感しかしない――というか、ここまできたらこの後の展開は見えているも同然だ。
それでも恐る恐る尋ねれば、
「なまえがもう二度と、俺に黙って他の男と二人で会おうなんて思わなくなることだよ」
その笑顔は、警察官どころか悪役そのものだ。
なまえは諦めて、降谷のすべてを受け入れる覚悟を決めた。
◇ ◆ ◇ ◆
降谷がバスルームから戻ると、なまえはベッドの上で眠り込んでいた。
その首筋から肩口に至るまで、無数の赤い跡が残っている。
額にかかった髪をかき上げると、頬には涙の跡があった。
少し無理をしすぎてしまったか。
起きたらきっと怒られるだろう。
彼女を抱いて自分も眠りにつきたいところだが、もう一仕事残っている。
なまえが目を覚まさないように注意しながら、降谷はなまえの鞄にそっと手を差し入れた。
そしてスマートフォンを取り出すと、持参したUSBメモリーを接続していくつかの操作を加える。
これで、なまえの携帯に仕込んでおいた追跡アプリはアンインストールされたはずだ。
同じアプリを、以前他の相手にも使ったことがある。
あの時は捜査の一環だったが、今回は違う。
これをプライベートな用途で使うことは、なまえに対しても、職場に対しても背信行為だ。
なまえが知ったらきっと降谷を軽蔑するだろう。
――それでも。
法律や良識など、それ以上に守りたいものの前には何の枷にもならないのだ。
「愛してるよ。この世の何よりも」
その囁きは、彼女の意識には届かない。
頬に口づけをひとつ落としてから、降谷はなまえの隣に潜り込んだ。
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