ゼロの純愛日誌


警視庁の廊下に設置された自動販売機の前に、一人で佇む男がいた。
コーヒーの缶を片手に、何かを思案するような遠い眼差しをガラス窓の向こうへ送る。
グレーのスーツに身を包んだ姿は、学生のOB訪問と言われても違和感のないほどだ。
その正体が警察庁でもトップクラスに優秀な警察官だなんて、彼を知らない警視庁の人間は思いもしないだろう。

「今日はこちらにいらしていたんですか。珍しいですね」
「ああ、風見。ちょっと今日は、報告があってな」

そうして風見が上司の隣に並ぼうとすると、降谷はわずかに眉を顰めた。

「お前、仕事は?」
「仕事…は、ありますけど。自分がここにいたらまずいですか?」
「いや…」

降谷は何も言わず、再び遠い目を窓の外に向けた。
彼にしては珍しい、はっきりとしない語尾に風見はわずかな違和感を感じる。

――その時、降谷の目の色が変わった。
そのわずかな変化を風見は見逃さない。
何かあったかと降谷と同じ方向を見ようと思った時だった。
風見の耳に、小走りのスピードで近づくパンプスの足音が入った。

「降谷君!」

廊下の角から制服姿の婦警が現れて名前を呼ぶと、降谷は彼女に向き直って微笑んだ。

「よう、みょうじ。久しぶりだな」
「今日降谷君が来てるって聞いたから来てみたんだけど、よかった〜会えて」

突然現れた人物を、風見は驚きをもって見つめた。
降谷が職場で女性と話しているのを見たのは初めてだったからだ。
互いに砕けた口調で話しているところを見ると、警察学校の同期だろうか。
降谷も年齢より若く見えるタイプだが、こちらも20代後半にしては若く見える。
美人というより可愛らしいタイプで、顔立ちは普通だが愛嬌のよさが際立っている。
普段、公安という張りつめた雰囲気の男所帯に身を置いている風見にとっては、馴染みの薄い人種だ。

「こちらは降谷君の同僚さん?」

突然自分に話題を振られ、風見は一瞬狼狽する。

「降谷さんの部下の、風見といいます」
「はじめまして。降谷君と同期のみょうじなまえです。降谷君の部下の方…といっても、私より上だと思うんですけど」

そう言われて制服の階級章を見ると、なまえの言う通りだった。
といっても降谷が異例なだけで、なまえは年齢とキャリアに順当な階級であろうと思われたが。

「みょうじは、俺に何か用事だったのか?」
「あっ、そうそう!この前、相原君の結婚式だったでしょ?降谷君来れなかったから、写真見せようと思って」

そう言ってスマートフォンを取り出し、降谷に手渡す。

「ああ、懐かしいなぁ…相原学生長。みょうじが余興のビデオレターを取り仕切ってたんだっけ」
「そう。副学生長のよしみでね」
「参加できなくて悪かったな」
「しょうがないよ。降谷君の噂はみんな知ってるから」

公安に所属する降谷は、迂闊に記録媒体に姿を残せない。
それは、友人の結婚式であっても例外ではない。
因果な仕事だと、これまで何度も同じ目に遭ってきた風見は思う。

「お、これって村井?だいぶ前髪がやばいな」
「村井君、婿養子に入って今は山下君だよ〜。女の子も結構苗字変わってて、2人目生まれて育休中〜とかさ」
「みょうじは?苗字変わる予定」
「もう、やめてよ!焦るからそういうこと言わないで〜」

どうやら予定はないらしい。

「あ…っと、ごめん、そろそろ行かないと」

なまえが手渡したスマホの時計を見たらしく、降谷が言う。

「ごめんね、引き留めちゃって」
「いや、全然。もっとゆっくり話したかったけど」
「降谷君、忙しいもんね。優秀だから」
「こき使われてるだけだよ。みょうじ、今週忙しい?」
「うん?事件とか事故がなければ普通だよ」
「今週のどこかで飲みに行かないか?結婚式の話ももっとゆっくり聞きたいし」
「本当?」

なまえの顔がぱあっと輝く。
その表情を見て、降谷もつられたように笑顔になった。

「他にも誰か呼ぶ?」
「あー…いや、人数増えると予定合わせづらくなるからいいよ。それとも、みょうじは俺と二人じゃいやかな」
「えっ!?そんな、全然…むしろ恐れ多いっていうか」
「何だよそれ。じゃあ、今から俺の番号言うからワンコールしてくれる?」
「うん、わかった」

なまえが番号を発信すると、降谷の胸ポケットでバイブの音がする。
それを確認すると、降谷はなまえに「じゃあ、また」と別れを告げた。

「行くぞ、風見」
「は、はいっ」

反射的に返事をしたものの、なぜ自分が降谷と一緒にこの場を離れねばならないのか、よくわからない。
なまえとは反対方向に歩き出し、ヒールの音が十分に遠ざかると、降谷は足を止めた。

「…風見。俺は自然だったか?」
「え?はい」
「俺はイケメンか?」
「…降谷さんはイケメンだと思いますが」
「俺は仕事ができそうで、それでいて親しみやすく、余裕のある男に見えたか?」
「えっ…それは…自分にはわかりませんが…。…降谷さんて、もしかして」

風見が言うと、降谷は舌打ちして片手で目元を覆った。

「"安室透"だったら、このくらい何でもないんだろうけどな…」

そう言う頬はわずかに紅潮している。
公安の中でもひときわ尊敬と畏怖を集める降谷という男の、意外な一面を見た気がして、風見は口元が緩みそうになるのを抑えられなかった。

「…降谷さん、お店は決まってるんですか」
「まだだ」
「いいところ教えましょうか」
「…お前、その店使っての勝率は何割だったんだ?」
「……3割くらいですかね」
「ダメじゃねーか」

何もかもが規格外な男の心を射止めたのは、意外にも普通の女性だったようだ。
けれど、風見は身を以て知っている。
通常では考えられない世界に身を置き、さまざまなものを一人で抱え込まねばならない立場の人間にとって、「普通」がどれほど有難いことなのか。
なまえと一緒にいる時、きっと降谷は「普通」の男になれるのだろう。
短いやりとりの中でも、風見はそれを感じ取ることができた。
それが、降谷にとってどれほど心安らぐことなのか。

風見は、年下の上司の肩に手を置いて言った。

「自分は降谷さんを応援してますよ」
「大きなお世話だ」



 

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