「こんな所で油売っててもいいんですか?及川の跡取り息子さん」

「今日は休みだからいいんだよ。俺のことよりも自分は大丈夫なの?京都の安全を守るお巡りさん」

「今日は一日非番です」

「ふうん。あ、王手」

「…………」

これは誰が見ても及川の勝ちだろう。影山の王将は相手の駒に囲まれており、前後左右のどこに動かしても彼に勝ち目はない。



「くっ……もう一回!もう一回だけ!」

「嫌だよ。もう一回が何回繰り返されてると思ってるわけ?俺は雑誌を見に来ただけなんだよ」

「本当にあと一回で終わりますから!」

「わかったわかった。次俺が勝ったら好きな雑誌一冊貰ってくからね」

「……良いでしょう」

「店主、こいつに店番任せたの間違いなんじゃないかな」

息子に店を託して出掛けていった店主の後ろ姿を思い出してつぶやく。今度会ったら告げ口してやろう。

街の一角に佇むとある書店がある。小説から文芸雑誌、子どもに好まれる絵本まで幅広く取り揃えているが特に雑誌の品揃えが豊富で、及川が好んで読む経済政治系は有名なものからあまり馴染みのないものまで所狭しと並んでいる。低い天井、埃っぽい店内、無口な店主。静かなこの空間はとても居心地がよく、暇さえあれば立ち寄るお気に入りの場所だ。

駒を並べ直して勝負再開だ。もう一回やれば勝てると豪語する影山だが、そもそも彼は真っ直ぐな性格であり裏をかくということが苦手なはずだ。対して及川は置かれている状況がそうさせるのか相手を掌の上で転がすことに長けている。影山の連敗記録がまた伸びそうだ、そんなことを考えながら及川は駒に手を伸ばした。



「んー…」

「早くしなよ」

「もう少し考えたらこう…何か閃くような気が」

「するだけだから心配しなくて大丈夫」

顎に手を当て考え込む影山を盗み見る。この書店に通い始めたのは及川が十八の頃で、二人の付き合いも随分長くなった。及川の跡取りとして、この街にとって異質な存在として、文と出会うまでひとりで生きてきた。そんな及川にとって影山は、友人と言うには互いのことを知らなさすぎて、知り合いと言うには顔を合わせすぎている。そんな不思議な関係を現在も続けているのだ。

そして及川にとって、影山の置かれている状況は非常に羨ましいものであった。書店を営む両親の元に生まれ、豊かではないがそれなりの生活水準を保ち、長男で本来ならば家業を継ぐ立場であるはずなのに自分の好きな道に進んでいる。家業はやりたい者が継げばいい、 やりたい者がいなければそこで終わればいい。彼の両親はそういう考えのようだ。

羨ましい。俺だって何もいらない。地位や名声、豊かな生活、周りから見たら俺は今すべてを手に入れているように見えるだろう。そんなものはまやかしだ。本当に欲しいものは、何一つ手にしていないのだから。及川は何度考えたか知れない“もしもの未来”を頭の中に仕舞い込んで目の前の勝負に集中した。



「王手」

「……参りました」

「さーて、やっと帰れるよ」

「あと一回」

「無理無理。この後文と買い物に行くんだから」

その名前を紡いだ瞬間及川の表情が緩むのを影山は見逃さなかった。彼女と会ったことがない影山にとっては彼が話す文がすべてだ。でもきっと、優しい女性なのだと思う。この街の色に染まりきれず、自分の運命に抗うこともできない及川徹にとっての、たったひとつの光であり道標でもある。



「一人で街中に出すのが心配なのはわかりますけど、付いていくのはどうかと思いますよ」

前に文一人で買い物に出掛けたら泣いて帰ってきたことがあったのだという。混血だからと罵られたのかもしれないし、人拐いに連れていかれそうになったのかもしれない。それから及川は時間が許す限り文の外出に付いていくようになったようだが、どうも過保護すぎるのではないかと影山は思う。及川にとって文は、ただの使用人ではないらしい。



「過保護じゃないですか」

「余計なお世話だよ。飛雄には関係ないじゃん」

「客観的な意見です。他の使用人が見たら気持ちのいいことではないと思います」

次期当主の寵愛を一心に受ける文を見て妬む者がいるのも事実だろう。それは及川もよくわかっている。自分のせいで文の風当たりが強くなるのはもちろん本意ではない。しかし。



「どうすればいいのか、わからないんだ」

どうすれば傷付けずに済むのか、どうすれば守れるのか、どうすれば、手に入るのか。
路地裏で出会ったあの日のことを思い出す。生きることを諦めない姿は気高く美しかった。まぶしかった。自分と同じ、文も半分の血しか流れていないのに、不満を抱きながらも与えられたものを享受するだけの自分とは大違いだ。そんな姿が綺麗だと、手に入れたいと、思ってしまった。

誰にも見せたくない、触れさせたくない。自分だけのものに、してしまえたらいいのに。



「そろそろ行くよ。またね」

本心を隠すように背中を向け、及川は店を出ていった。台の上に置かれた小銭を見つけた影山は軽く笑う。自分から貰っていくと言ったのに結局代金を置いていくのか。変な所で律儀というか何というか。



「難儀な人だ」




――――




「あの…」

文の呼びかけは雑踏に紛れて消えた。買い物を終え、及川は当たり前のように荷物を持って歩き出したが彼女はそれが気になるようだ。
もう一度一歩前を歩く主に声を掛けるが返事はない。



「あの、徹様」

「ん?」

三度目にしてようやく及川は足を止めて振り返ったが、その顔は何故か緩みきっている。何か嬉しいことがあっただろうかと文の頭上に疑問符が浮かぶが、考えても仕方ないことだとすぐにかき消した。

こうして二人で出掛けて、文が自分の後を小走りで追い掛けてくる。そんな些細な幸せを、及川は噛みしめていた。



「荷物、お持ちします」

買い物に付き合わせるだけでも申し訳ないが、それは主がどうしてもと言うので仕方がないということにする。それを差し引いても主に荷物を持たせるなど言語道断。仕えるはずの使用人が逆に気遣われてどうするのだと文はてのひらを強く握りしめた。心優しくて分け隔てなく接してくれる主だが、勘違いしてはいけない。そもそも住む世界が違うのだから。



「いいよ。重いでしょ?」

「大丈夫です。大した量ではありませんし」

「こういう時は頼ってよ」

「ですが、」

「じゃあこれでいい?」

及川は何の躊躇もなく文の手を取った。自分のものよりもずっと細くて柔らかい指に触れ、あたためるように包み込んだ。



「文と手を繋ぎたいから俺が荷物を持つよ」

「徹様!」

「珍しいね、そんなに声を荒げて」

「こんな街中で、こんなこと…」

及川の跡取りと混血の使用人が手を繋いで歩いていたなんて噂にでもなったら――考えただけで恐ろしい。自分はいい、傷付くことには慣れているから。しかし主が悪く言われたり変な目で見られるのは耐えられない。自分のせいでそんな風に扱われるなんて絶対に嫌だ。それならここで手を離せばいい。それはわかっているのに。

自分から手を振り払うことはできない。何故なら嬉しいと思っているから。ぬくもりが心地よくて、私はあなたの手に縋り付いてしまう。



「ごめん。でも離さないよ。俺がこうしたいだけだから」

及川はそう言い切った。誰にも文句は言わせないと告げる鋭い目線が文に向いた。しかしそれも束の間、すぐにいつもの穏やかな表情に戻る。




「早く帰ろう」

これ以上こんな場所にいたくない。主の切実な声が聞こえた気がして、思わず繋がれた手を強く握り返した。すると彼の手に更に力がこもる。見えない何かに怯えているような、そんな気がした。

文は歩きながら街並みを眺めた。もしかして彼にとってはこの世界すべてがまやかし物として映っているのかもしれない。居場所も、立場も、人も、すべて。濃い色は黒、淡い色は白。それ以外は存在しない、白黒の世界。危うい、彼だけの世界。

では、私は。彼の瞳に映した時、私はどんな色をしているのだろう。父譲りの髪は、瞳の色は。彼が私に似合うだろうとあつらえてくれた着物は。
私を取り巻くすべてはあなたの存在と共に成り立っていて、あなたがいなければ私はあの薄汚れた路地裏であっけなく命を終えていただろう。私はあなたに救われたのだから。


待たせていた自動車に乗り込むと大きな箱が轟音を立てて走り出す。同じ景色を見たいと言ったら、あなたはきっと困ったように笑って、しかし決して首を縦に振らないのでしょうね。


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