「そこ使う公式間違ってる。足し算も違うし」

「あ?」

「九と七を足すと?」

「…間違えました」

「落ち着いてやろうね。わからなかったら何でも聞いて」


影山は自分の頭の悪さに絶望し項垂れた。頭が悪いのは元々で勉強が出来ないなんて今に始まったことではない。親もとっくの昔に諦めていて、とりあえず高校に受かればあとは留年さえしなければなんでもいいというスタンスである。自分も学業に関しては部活が禁止されない程度に流せばいいと思っていたが、一桁の足し算を間違えるようならそれも厳しいかもしれない。

雨降って地固まるというわけではないが、あの日から及川による嫌がらせはほとんどなくなった。時々罵倒のメールが入ることはあるが、以前のように迎えに来て延々と嫌味を言われたりデートを妨害したりということはなくなった。光曰く、とりあえず怒って大嫌いだと言えば大体向こうが折れる、らしい。




「数学の問題集は大分進んだかな。きりのいい所で中断して次は英語にしよっか」

既に全ての宿題を終わらせた光がそう言う。締め切った部屋はクーラーのおかげで快適で勉強がはかどりそうなのに気もそぞろなのはきっと、今のこの状況がよろしくないのだろう。

開放感溢れる夏休み、自分の部屋に居る無防備な光、今この家には二人しか居なくて、しかも彼女がもたれているのが普段自分が寝ているベッドとあっては影山も気が気ではない。受験勉強以来使っていない勉強机は埃が被っており使える状況ではなく、一階に置いてあった適当な大きさのテーブルと座布団を並べてなんとなく勉強ができる環境を作ったがそもそもそれが失敗だった。素直に勉強机を掃除すればよかった、でもそうすると二人分の問題集を広げるスペースが、そんなどうでもいいことを考えていれば宿題などはかどるはずもない。

合宿前に少しでも宿題が進めようと部活が早く終わった午後に集まったのはいいが今はそれどころではない。何故自分の部屋に呼んでしまったのだろう、これなら及川家で先輩にいびられながらやるほうがまだ楽だっただろうに。



「今度はスペルが違うよ。小文字のbとdはややこしいから気を付けてね」


何度間違えても我慢強く教えてくれる光には感謝しかない。そして自分が情けなくてたまらない。

部活で会えるからいいや、一緒に帰れるからいいや、そう思っていた日々が懐かしい。今は一分一秒でも長く一緒にいたい、その声を聞いていたい、花が開くように笑う顔を見ていたい。同じ時を過ごせば過ごすほど貪欲になる。同じクラスになれたら、なんて考えて天地がひっくり返っても無理だと悟る。光は進学クラスだからだ。



「影山くん大丈夫?疲れた?」

「そうだな…少し」

「根詰めすぎたかな。休憩しようか」


休憩、そう言われて一瞬で肩の力が抜けた。慣れないことをすると妙に疲れるし身体によくない。キッチンから持ってきた冷えた緑茶を一口飲めば独特の苦味が口の中に広がる。光が持ってきた甘いクッキーが疲れを癒してくれるが、それもまた一瞬で終わる。
相変わらずベッドに背を預けて座る光を見て、部室での出来事が鮮明に思い起こされてたまらない。最近そんなことばかり考えているがやましい気持ちなどはない。ないはずだ。…少しはあるかもしれない。



「なあ」

「なに?」

「すげえ今更なんだけどなんで俺は未だに名字で呼ばれてるんだ?」

「えっ」


影山は光のことを早い段階から名前で呼んでいた。名字で呼べば“叩くなら折れるまで”をモットーとしているあの人のことを嫌でも思い浮かべてしまうからだ。だが光は友人だった頃の癖が抜けず、名前が呼びたいけど恥ずかしいけど名字で呼びたい、何の躊躇もなく飛雄と呼ぶ兄がうらやましいとずっと思っていたのだ。だがいざ本人に言われるとドキッとしてしまうのが女心というやつだろう。

あの時と同じ目をしていると光は影山を見つめながら思う。薄暗い部室で見上げた時のあの、どこまでも深くて黒い双眼。逸らすことは許さないと言われているような気がして、でもその瞳が自分を求めているとはっきりわかるのが恥ずかしくて。



「あの、それは私も考えるんだけどほら、物事には順序があるから」

「一年付き合ってそれ言うか」

確かに。名前で呼び合うなんてキスより前に済ませるものかもしれない。



「いきなり名前で呼ぶと周りのみんながびっくりするかもしれないし!」

「今更だな」


影山はじわり、じわりと光を部屋の隅へ追い詰める。背後はベッド、左は白い壁、目の前は影山が迫っている。蛇に睨まれた蛙のように小さくなっている光を、影山は両腕で包み込むように抱きしめた。顔を傾けて、耳元でそっと囁く。



「光」

「っ…近い、よ」

「わざとだから」


掠めるようなキス。それだけで真っ赤になる顔を両手で隠そうとするが手首を掴まれてそれも叶わない。短く触れれば離れ、頬、目元、額、そしてまた唇に触れるそれは光を熱で誘惑する。
もっと触れてほしい?それともやめた方がいい?影山の目線がそう問い掛ける。彼は光自身の答えを聞いている。



「と、飛雄」


光が喉を震わせて音にする。緊張からか上擦った声で自分の名前を呼ぶ彼女を見て影山は目が覚めたような気がして一瞬どうすればいいのかわからなくなった。あれ、この状況やばくね?止まんなくね?名前を呼ばれるって予想以上にいいもんだな。脳内で思考がぐるぐる回り数秒後答えが出る。

親が帰ってくるのは夕方だ。それまでなら、もう少しなら、ありだ。

相変わらず中身のない頭だな、でも今更か。そんなことを考えながら光の頬を手で包めば、彼女はゆっくりと目を閉じた。長い睫毛が目元に影をつくり、吸い込まれるように自然と距離が縮まる。もう少しで唇が重なる、誰もがそう思ったその時―――





「とーびーおー」


あれほど呼ばれたいと望んだ名前を誰かが外で叫んでいる。だが無視だ、無視。




「とーびーおーーいないのー?」


いないのと言われて、はいいないですと答える馬鹿がどこにいる。
うーん、いないなら仕方ないな。そう呟いて玄関先でニヤリといやらしく笑う声の主は思う。甘いな飛雄、お前達がこの家にいるのは知っているんだよ。邪魔されたくないならもっと考えないとね。ま、お前の頭で考えることだ、俺がわからないはずがない。




「出てこないとご近所さんにあることないこと吹き込んじゃうぞー!みなさーん聞いてください、影山さんちの飛雄くんはいたいけなうちの妹を部屋に閉じ込めてー」

「―――やめろォオォオオオオ!!!」


階段を飛ぶように駆け降り、吹き飛ぶのではと思うくらいの勢いで影山は乱暴に玄関の扉を開けた。いや、飛び付いたと言った方が正しいかもしれない。



「やあ。居留守はよくないよ?」

「あんた何考えてるんですか!」

「俺は妹の幸せを常に第一に考えてるけど」

「そういうことじゃなくですね」

わかっているくせにこの人はいつもこうやって話をはぐらかして掻き乱して去っていく。及川がここにいる時点でもう誤魔化せない、それはわかっているのについ嘘を重ねたくなってしまう。



「それよりもなんで居留守なんて使ったのさ。ただ勉強してるだけなら素直に出てこればいいのに」

「聞こえなかっただけです」

「嘘はよくないよ。図星指されて出てきたんでしょ」

「そっそれは…」

「光の身に危険が迫ってる気がしたから走ってきたんだけど正解だったね」

「……とりあえず、上がってください」

「いやー悪いね。なんか邪魔したみたいで」

「わかってるなら帰ってください」

「相変わらず可愛くないね」


こぼれる溜め息を隠すことなく影山は階段をのぼった。及川は部屋に入った途端光を抱きしめて頬擦りをする。気持ち悪い。



「もう、やめてよ!」

「家に帰ったら光がいなくて寂しかったんだよー」

「だからってわざわざ来なくてもいいのに」

「母さんに行き先聞いたら居ても立ってもいられなくなっちゃって」


及川のシスコンぶりが更に激しさを増しているような気がするのは気のせいではない。自分を認めたかのような発言はすべて嘘だったのだろうか、兄妹間のコミュニケーションとしては些か激しい頬擦りを見つめればその疑問は大きくなっていくばかりだった。




「本当に宿題やってたんだ」


及川はテーブルの上に無造作に置かれたテキストをパラパラ捲りながらベッドに腰掛ける。影山の回答を見ては間違いを指摘し、馬鹿にしたような笑いを浮かべる。



「光は大変だねえ、こんなおバカさんに教えなきゃいけないなんて。お兄ちゃんは涙が出そうだよ」

「俺こそ泣きそうですよ。もう邪魔されないと思ってたのに」

「認めなくはないけど邪魔しないとは言ってないよ」



二人がにらみ合えば部屋に緊張が走る。相変わらず学ばない二人であるが、光からクッキーを手渡され“これを食べて落ち着いて”と可愛く言われてしまえば素直に頷く以外の選択肢はない。二人揃って鼻の下を伸ばし、その後もああでもないこうでもないと再び言い合えば、あっという間に一日が終わっていく。




「光、そろそろ帰ろうか」

「もうそんな時間?」

「この辺りは狼が出るから光には危険だよ。ね、飛雄」

「送っていきます」


及川の言わんとしていることがわかる影山は否定の言葉をそっと飲み込んで素早く立ち上がった。光は首を傾げてはいるが深く突っ込むつもりはないようで、テーブルの上のテキスト類を鞄に入れている。どうか気付かないでほしい、だが下手なことを言えばここぞとばかりに及川におちょくられるのが目に見えている。よく考えれば彼女の兄に知られたくないことばかり勘づかれているが、それに関しては既に諦めた。



―――――――



日中の暑さが少しずつ和らぐ夕方。三つの影が同じ歩幅で同じ場所を目指している。真ん中を歩く私の右手はいつも守ってくれた兄の手を、そして左手にはこれからも一緒にいたいと願う彼の綺麗な手を包んでいる。

アスファルトに映る影が地平線の向こうまで伸びている。雲が風に漂い旅をするように、そんな速度で歩く私たちの間に会話はない。指先から伝わる優しい温度が言葉の代わりに伝えている。大切だと、大好きだと。




「ご機嫌だね」

「わかる?」

そんな思いを乗せて紡ぐ鼻唄は耳に心地よく馴染む。ふと奏でたメロディーは、風に乗って空へ昇っていった。



「前もこんなことあったよね」

三人で並んで帰るのははじめてではないけど、あの頃と比べるといろんなものが変化したと思う。誰かの笑顔がこんなにも嬉しくて、それだけで生きていけるなんてはじめて知った。それ以上を望むと逆に不幸になりそうなくらいに幸せな日々。




「今度三人でどこか出掛けようよ」

「えー…飛雄も?」

「及川さんも一緒か…」

「息はぴったりなんだね」

思わず笑ってしまった。仲が良いのか悪いのかわからない両隣の二人の手をより強く握る。この時間が惜しい、少しでも長く続けばいい、そんな願いを込めて。



「プールはどうだ?」

「絶対反対断固反対!!光の水着姿は誰にも見せないって決めてるんだから」

「じゃあ影山くんと二人で行くからいいよ」

「なっ、俺も行く!新しい水着買ってあげるから連れてって!」


互いの笑い声が響き、太陽はゆっくりと沈んでいく。優しい赤が、すべてを包み込むように大地を、私たちを染めていく。

これからもずっと、一緒にいられますように。
使い古された願いの言葉をそっと呟いた。それでも願わずにはいられない。歩幅は小さくてもゆっくりでも、誰かに置いていかれても、隣にあなたがいてくれるなら。




「光?どうしたの、疲れた?」

「及川さんがうるさいからですよ」

「理解力がなければ脳みそも入ってないお前の面倒を見なきゃいけないからだよ。俺のせいにしないでくれる?」

「ほんっっっっとうにシスコンですね」

「ごめんそれ誉め言葉だから」


私が立ち止まれば一緒に立ち止まって、再び歩き出すまで隣にいてくれる。好きの形は違えどそんな二人が大切で、愛しくてたまらない。

頭上で口論をはじめる二人は、実は喧嘩するほど仲が良いってやつなのかもしれない。このシスコン!なんだとこのヘタレ!と低レベルな言い合いをしている二人に声を掛ける。



「仲良しだね」

「どこが!」

「まさか!」

「ほらハモった」

「やめてよ気色悪い」

「それはこっちの台詞ですけど」

「二人が仲良しだと私嬉しいんだけどなあ」

「…………飛雄、俺達はソウルメイトだ。心の友だ」

「ええ、本当に。心の底からソンケイしてます」

「それ思ってないよね?」

「思ってませんね」


ついに二人は同時に私の手を離し、立ち止まり向かい合って一触即発の空気を醸し出している。高校生同士の喧嘩にしては低レベルなおかつ理由がどうしようもないため放置。



ひとりで田んぼの中の一本道を歩く。思えばここは、お兄ちゃんに影山くんと付き合っているのがバレた場所だった。数週間前の出来事を思い出して、自然とこぼれる笑みを抑えるなんて、そんなもったいないことできやしない。

あれから少しだけ進んだ私たちの関係。それは誰かに笑われてしまうような速度かもしれないし、歩いている私たちを走って抜かしていく人がいるかもしれない。けれど二人にとっては確かに大きな一歩で、これからも少しずつ、でも確実に歩んでいく道のはじまりでもあるのだ。




「光」

「影山くん」


お兄ちゃんを置いて一足先に追い付いた影山くんが隣に並ぶ。溢れ出て止まらない愛しさを伝えるためにその手を取り、背伸びをして彼の頬にそっと唇を寄せた。本当に触れるだけの、子供騙しのようなキス。唇からこの気持ちが伝わればいいな、そんな願いを込めて。



「いっ今……」

「うん」


今さら顔に集まる熱。自分からしておきながら影山くんの顔を見ることができない。
俯いて自分の足を見つめる。高鳴る鼓動を感じて胸に手を当てていると視界の隅に影山くんのサンダルが映った。次の瞬間身体全体に触れたのは優しいぬくもり。夏の暑さからほんのり汗ばんだ背中に腕を回すと、耳の奥に響く心臓の音に、彼も私と同じ気持ちなんだと気付く。独りよがりではない、この感情を共有することができる。それがこんなにも幸せだなんて。



「俺と同じ気持ちなんだよな?」

「うん」

「俺の独りよがりじゃ、ないんだな」

「うん。同じだよ。私も同じ」

「俺ばっかりが好きなんだと思ってた」

「そんなはずない。私だって、影山くんのこと大好きだから」


幸せなのに?幸せだから?
こんなに満たされているのに、泣きたくなるのはなんでだろう。それはきっと、夏の夕暮れのせい。当たり前のようにそこにあるものなのにどこか懐かしくて、切なくて、優しい。




「ちょっとぉぉぉおおぉ!!なにやってんのぉおおお!!!」

「チッ、気付かれたか」


遠くから聞こえる絶叫、考えるまでもなく兄のものだとわかる。影山くんの身体が離れてそれが寂しいなんて思う間もなく手を取られてそのまま走り出す。何から逃げるのか、それはもちろん。





「か、影山く、ん!」

「なんだ!」

「どこ、行くの?」


黒髪が風になびいている。聞こえるように声を張り上げると影山くんは振り返って、ニヤリと笑った。




「わかんねー!」



二人は走る。夕焼けに染まる一本道を。
額から落ちる汗を拭うことすら忘れて。

なにがあったわけでもないのに笑顔なのはきっと、あなたが傍にいるから。障害も坂道もない道なんてないとわかっているけど、このぬくもりがあればそれすら容易く超えられる。だからお願い、ずっと傍にいて。





二人は歩く。
まだ見ぬ未来に向かって。


―――歩くような速さで。




end.
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